白黒の世界
真白のスマートフォンが、無機質なバイブレーションを響かせた。
画面に表示されたのは『貴文』の二文字。平日の夜、いつもなら「残業だ」と妻に嘘をついて、真白の部屋に滑り込んでくる時間だった。
真白は通話ボタンを押し、耳に当てた。
「もしもし、貴文さ――」
『あぁ、真白? 今日の夜、やっぱり行けなくなった。いや、当分そっちには行けない』
受話器の向こうから聞こえる貴文の声は、聞いたこともないほど早口で、酷く苛立っていた。
「え……? でも、今日は私たちの記念日だからって、私、ごはんを準備して待ってて……」
『そんなこと言ってる場合じゃないんだよ!』
貴文の怒鳴り声が、真白の言葉を遮った。
『……バレたかもしれないんだ。嫁に。さっき共通の友人から連絡があった。泳がされてるんだよ、俺たち』
「え……?」
『あぁクソッ、もし会社にでもタレ込まれたら、俺のキャリアは終わりだ。慰謝料だってどうなるか……。おい、真白、お前しばらく絶対に俺に連絡してくるなよ。LINEの履歴も全部消せ。いいな?』
冷酷なまでの自己保身。そこに、真白への心配やつながりを惜しむ気持ちなどは一片もなかった。あまりの豹変ぶりに、真白の指先がすうっと冷たくなっていく。
「そんな……私は、ただ、貴文さんと一緒に……」
『お前はいいよな、守るべき家庭も、失う社会的地位も、何もない気楽な身分なんだから!』
逆ギレに近い貴文の叫びが、真白の鼓膜を容赦なく破った。
『俺はお前みたいに無責任にはいられないんだよ! 背負ってるものの重さが違うんだ。お前と一緒にするな!』
ブツリ、と一方的に通話が切れた。
ツーツーという虚しい電子音だけが、静まり返った白い部屋に響く。
テーブルの上には、彼のために作った、冷めかけていく料理。
貴文は真白が必死に保ってきた「何もない静かな部屋」を、今度は「守るもののない、無責任で身軽な象徴」だと身勝手に弾劾したのだ。
真白はスマートフォンを床に落とし、膝を抱えて薄暗い部屋の隅で震えた。
「私は、ただ……ちゃんとしたくて……」
母に怒られないように、無駄なものを排除して完璧な世界を作ってきた。貴文にとって「都合の良い、静かな部屋」であり続けようとした。
それなのに、彼に都合の悪い現実が迫った途端、その完璧さは「何も背負っていない無責任な空っぽ」だと全否定された。
(じゃあ、私はどうすればいいの?)
本命にもなれず、誰の家族にもなれず、ただ都合よく使われ、危なくなればゴミのように即座に切り捨てられる存在。
胸が苦しくて、呼吸がうまくできない。
真っ白な部屋に押し潰されそうになった真白は、何かにすがるように部屋を飛び出し、隣の302号室のチャイムを鳴らした。
ピンポーン。
ドアが開くと同時、真白は咲子の胸に顔を埋めるようにして、その場に激しく泣き崩れてしまった。
「あら!? どうしたの、一体……」
咲子は驚きながらも、真白を拒絶することは決してしなかった。理由を問い詰めることもしなかった。ただ、カタカタと震える真白の冷たくなった背中を、その大きな温かい手で、何度も、何度も、優しくさすり続けてくれた。




