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咲子の過去

「若い頃ね、とっても好きな人がいたの。……でもね、その人にはもう、本妻さんがいたのよ」


 咲子の口から飛び出した思いがけない告白に、真白は持っていたカップを落としそうになり、息を呑んだ。


「私はいわゆる、日陰の女。今じゃ不倫なんて言われるけれど、当時はおめかけさんとか、二号さんなんて呼ばれることもあったわね。本妻さんの方にはお子さんがいたけれど、私には子供ができなかった。本妻さんからすれば、血が繋がる跡取りが生まれなくてホッとしたでしょうね。私はただの、都合のいい女だったのよ」


 咲子は、真白が持ってきたドライフルーツを一つ口に運び、遠い目をしながら温かいチャイをすすった。


「結局、何年かして彼から別れを告げられたわ。まとまった手切れ金を渡されてね。私は引き止めることもできなかった。当時の世間は狭くて冷たいものよ。結婚もできない、子供も産めない、まっとうな役割を果たせないダメな女だと、後ろ指を指されてね。ずいぶんと悪い噂も立てられたわ」


 咲子は自嘲気味に、けれどどこか愛おしそうにフフと笑った。


「その後ね、彼を忘れたくて、もらったお金で一人でたくさん海外を旅したの。誰も私の過去を知らない遠い国へ。でもね、どこへ行ってもやっぱり寂しくてねぇ……。旅先で心が押しつぶされそうになるたびに、その土地の、目が合った素敵なものを一つずつ買ったわ。そのゾウはね、私がインドの市場で、最初に心惹かれて買ったものなの。なんだか不器用で、私みたいに寂しそうな顔をしていてね。そうやって寂しさを埋めるように買い集めていたら、気がついたら部屋がこんなになっちゃった」


 真白は、棚のゾウと、咲子の顔を交互に見た。胸の奥が激しく脈打っている。他人事とは思えなかった。あまりにも、今の自分と重なりすぎていた。


「……悲しく、ないんですか?」


 真白の声が、小さく震えた。


「裏切られて、捨てられて……相手の男の人が、憎くないんですか? 奥さんへの嫉妬で、狂いそうにならなかったんですか……!?」


 それは、咲子への問いであると同時に、嫉妬と孤独で狂いそうになっている、真白自身の悲鳴だった。


「最初はね、身を引き裂かれるくらい苦しかったわよ」


 咲子は真白の目を、すべてを包み込むような深い眼差しでじっと見つめた。


「自分なんて誰にも必要とされてない、まっとうな人生のレールから外れた、社会の『ゴミ』だって、泣いて自分を責めたわ。……でもね、ある時気づいたの」


 咲子はそっと手を伸ばし、棚のゾウに触れた。


「私、あの時確かに、誰かを心の底から愛していたんだって。誰に褒められなくても、世間からどんなに汚いものを見る目で後ろ指をさされても、あの人を好きだった時間は、私の人生のまぎれもない真実だったのよ。世間にとっての正しさや、役割が終わったからって、私の価値がなくなるわけじゃないでしょう?」


 咲子の言葉が、真白の頭上で輝くランプの光のように、彼女の暗い心を照らしていく。


「この部屋にある、世間から見れば無駄なものたちはね。私が孤独に負けないで、今日までちゃんと生きてきた証。一緒に戦ってくれた戦友たちなのよ」


 真白の胸の奥で、カチリ、と硬く冷たい鍵が外れるような音がした。


 実用的か、必要か、母親に怒られないか、貴文にとって都合が良いか。

 そんな「他人の基準」と「正しさ」だけで自分の世界を白く塗りつぶし、役割のない自分をゴミだと怯えていた真白にとって、咲子の「無駄だけど、私の愛した真実」という全肯定の言葉は、涙が出るほど眩しく、そして優しかった。


 真白はもう一度、木彫りのゾウを見た。

 剥げかけた塗装も、ひび割れた身体も、さっきよりずっと、温かく、愛おしいものに見えた。


「……そう、ですね。なんか、すごく、可愛いです。このゾウ」


 真白の口から、人生で初めて、「無駄なもの」に対する愛の言葉がこぼれ落ちた。


 咲子は嬉しそうに目を細め、「でしょう?」と、スパイスの効いたチャイのおかわりを真白のカップに注いだ。真白の頑なだった心の氷が、温かい湯気の中に、ゆっくりと、優しく溶けていくのを彼女は感じていた。

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