宝物
「ただいま」
自分の部屋に帰ってきた真白は、電気もつけずにソファーに座り込んだ。
いつもなら、この何も置かれていない、整然とした白い空間が真白に絶対的な安心感を与えてくれるはずだった。けれど今は、なぜか少しだけ肌寒く、余白が広すぎて寂しい場所のように思えてしまう。
『ただそこにあって、自分が「あぁ、素敵だな」って思えたら、それだけで大正解よ』
咲子のあの言葉が、静まり返った暗闇の中で、何度も何度もリフレインしていた。
◇
そして、日曜日がやってくる。
当然のことながら、仕事が休みの日の貴文は家族と一緒に過ごしている。真白と会うことはおろか、連絡すらまともに取れなくなる時間だ。
付き合い始めたばかりの、まだ既婚者であることを隠されていた頃は、「日曜日は急な仕事が入った」と優しい嘘で偽ってくれていた。だが、すべてが露呈した最近では、そんな取り繕うような言い訳すらしてくれない。それが、真白をさらに惨めな気持ちにさせた。
一人で部屋にいると、底なしの孤独感と、他人の家庭を壊しているという罪悪感で押しつぶされそうになる。
真白はスマートフォンを開き、貴文から以前送られてきたメッセージの画面を、自傷行為のように眺めていた。
『真白の部屋はいつも綺麗で完璧だな。余計なものが一切なくて居心地がいい。うちの嫁にも見習ってほしいよ』
いつもなら、自分の存在価値を認められたようで誇らしかったその言葉が、今はなぜか、棘のようにチクチクと胸を刺す。
(私は、彼にとって『都合のいい、何も言わない綺麗な部屋』と同じなのだろうか……)
モノを減らし、役割のない「無駄」を徹底的に排除した自分の生き方。それは同時に、自分自身を「ただ都合よく使われるだけの、役割しか持たない存在」に押し込めてしまっているのではないか。
息が詰まりそうになり、真白は衝動的にスマートフォンをベッドに放り出した。
気がつけば、自分の部屋を飛び出し、302号室の前に立っていた。
手には、実家の母親から定期的に送られてくる段ボールに入っていた、「オーガニック・素焼きナッツと無加糖ドライフルーツの詰め合わせ」が握られていた。
『真白、ちゃんと栄養のあるものを食べなさい。砂糖まみれのお菓子なんて、体に有害で無駄なだけだからね』
そんな手紙と共に送られてきた、いかにも健康的で、素朴で、一点の遊び心もない実用的なおやつ。母の「正しさ」が詰まったそれを、真白は一人で食べる気には到底なれなかった。
あの極彩色の、温かい混沌の中に、もう一度触れたいと願うように、真白は隣のインターホンに手を伸ばした。
ピンポーン。
「はーい、どなた?」
ガラリと開いたドアの隙間から、エキゾチックなお香の甘くスパイシーな香りが、廊下の冷たい空気を溶かすように漂ってくる。
「あの……これ、いただきものなんですけど、私一人じゃ食べきれなくて。よかったら、これ……」
差し出された箱を見て、咲子はパッと顔を輝かせた。今日の彼女の耳元には、昨日とは違う大ぶりのターコイズブルーのピアスが揺れている。
「あら! ナッツにドライフルーツ!嬉しいわぁ。ちょうど今、スパイスをきかせたチャイを淹れたところなのよ。上がって上がって!」
またしても有無を言わせぬ強引さで手首を引かれ、真白は二度目の「ごみ屋敷」へと足を踏み入れた。
しかし、不思議だった。二回目に見るその部屋は、前回ほどの拒絶感や恐怖を感じなかった。むしろ、貴文の言葉に縛られ、冷え切っていた真白の身体を、天井から吊るされた無数のランプの淡い光が、まるで温かい木漏れ日のように優しく包み込んでいく。
「そこに座っててね。今すぐ持ってきてあげるから」
咲子が鼻歌を交じりに台所へ向かった隙に、真白は部屋をそっと見渡した。
積み重ねられたリンゴ箱の棚、怪しく光る色硝子の小瓶、重ねられたウールの絨毯。どれもやっぱり、母親から教わった「生活に必要か、実用的か」という基準で測れば、絶対に必要のない、真っ先に排除されるべきものばかりだ。
その時、棚の少し奥まった、まるでそこだけ特別に用意されたかのような特等席に、一つの小さな置物が飾られているのが真白の目に留まった。
それは、真白の手のひらに乗るほどの大きさの、古い木彫りのゾウだった。
経年劣化で色あせ、あちこちの塗装が剥げてひび割れている。お世辞にも高価なアンティークには見えない。真白の母なら、「埃が溜まるだけのゴミ」として、迷わず袋に放り込むようなガラクタだ。
でも、なぜだろう。そのゾウは、どこか不器用で、妙に愛嬌のある顔をして真白を見上げているように感じられた。何もない白い部屋で凍えていた真白を、「よく来たね」と出迎えてくれているかのように。
「あ……」
真白は吸い寄せられるように歩み寄り、指先でそっと、その傷だらけの小さな背中に触れた。カサついた木の温もりが、指先からじわりと伝わってくる。
「それね、私の人生で一番の宝物なの」
いつの間にか後ろに立っていた咲子が、湯気の立つマグカップを二つ抱えながら、愛おしそうにそのゾウを見つめていた。シナモンとカルダモンの濃厚な香りが、部屋を満たしていく。




