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ゴミと宝物の境界線

「お、お邪魔、しました……ッ!」


 真白は、差し出されたハーブティーに一口も口をつけないまま、逃げるように302号室を飛び出した。自分の部屋に転がり込み、バタンと激しくドアを閉めて鍵をかける。


「はぁ、はぁ、はぁ……っ」


 背中をドアに預けたまま、ずるずると床にへたり込む。

 自分の部屋は、いつも通り完璧だった。白一色の壁。ノイズの一切ない、静寂。

 しかし、さっきまで浴びていた極彩色の残像が、網膜の裏に焼き付いて離れない。


(あんなの……ただのゴミ屋敷じゃない……!)


 真白はきつく目を閉じた。動悸が収まらないのは、あの部屋の強烈なビジュアルのせいだけではなかった。咲子の部屋を見た瞬間、真白の胸の奥底に眠る、冷たい記憶の引き出しがガタガタと音を立てて開こうとしたからだ。



 ――真白の実家は、地方の裕福な家庭だった。

 厳しかった母。家の中は常にモデルルームのように美しく整えられ、生活感は徹底的に排除されていた。


『真白、またおもちゃを出しっぱなしにして。片付けもできないなんて恥ずかしいわよ』

『これは何? 友達からもらったキーホルダー? 返してきなさい。何の役にも立たない無駄なものでしょう』


 小学生の頃、修学旅行で買ったささやかなガラスの置物も、「実用的じゃない」「埃が溜まるだけ」という理由で、容赦なくゴミ箱に捨てられた。

 母が買い与えてくれるのは、いつも「勉強に役に立つもの」か「必要な衣類」だけ。

 真白にとって「モノを欲しがる」ということは、母の不機嫌を買い、自分の存在そのものを否定される恐怖と直結していたのだ。


(だから、私は持たない。必要なものだけでいい。無駄なものを徹底的に排除すれば、誰にも怒られない。完璧でいられる――)


 現在の、何もない綺麗な部屋。それは真白にとって、幼い頃に生き残るために身につけた、切ない防衛本能そのものだった。


 ◇


 翌日の夕方。仕事帰りのことだった。


 真白がマンションのエントランスに入ると、ちょうど咲子が大きな段ボール箱を抱えてオートロックを開けようと苦戦していた。耳には昨日と違う真っ赤なピアスが揺れている。


 見なかったことにしよう、と真白は足早に通り過ぎようとした。これ以上、あの極彩色のノイズに巻き込まれたくはなかった。しかし、咲子が「あ、お隣さんじゃない!」と嬉しそうな声を上げる。


「ちょうど良かったわ、ちょっと手伝ってくれない?」

「えっ、あ、はい……」


 反射的に体が動いてしまう。子供の頃から、大人の要求を拒絶できないように調教されてきた弊害だった。

 受け取った段ボールは、拍子抜けするほど軽かった。中からカサカサと乾いた音がする。


 結局、真白はまたしても302号室の前に立っていた。


「ありがとうねぇ。助かっちゃった」

「……それ、何が入ってるんですか?」


 咲子は「ふふ、見たい?」と悪戯っぽく笑うと、玄関先で段ボールを躊躇なく開けた。

 中に入っていたのは、ただの「空き瓶」だった。


 ワインの瓶、ジュースの青い瓶、薬が入っていたような茶色い小瓶。どれもラベルが剥がされ、きれいに洗われてはいるが、世間一般では資源ゴミに出される代物だ。


(……やっぱりゴミじゃない)


 真白は呆れたように冷たい息を吐く。


「こんなの、何に使うんですか? 目的もないのにモノを集めるなんて、ただの無駄です。実用的じゃないし、必要ないものです」


 まくし立てる真白の言葉は、かつて母親が自分に向けた言葉そのものだった。真白の目は、咲子を非難すると同時に、過去のトラウマに怯えているようでもあった。目的も役割もないものは、存在してはいけないはずなのだ。


 しかし、咲子は怒るどころか、小瓶を一つ手に取り、天井から吊るされた古いランプの光に透かして見せた。


「ねえ、見て」


 古いガラスの表面についた細かな傷に、オレンジ色の光が反射して、まるで夜空の星のようにキラキラと輝いた。


「これね、近所のイタリアンのお店の裏に捨ててあったのをいただいてきたの。綺麗でしょう? 今度、ここに小さなLEDライトを仕込んで、ベランダのランプにしようと思ってね」

「そんなの、市販のライトを買えば済む話です」

「違うのよ。これがいいの」


 咲子は小瓶を愛おしそうに指先で撫でた。


「みんな、役割が終わったものや、役に立たないものをすぐ『ゴミ』って呼ぶわ。でもね、誰かにとって必要ないからって、そのものの美しさまで消えるわけじゃないのよ。私はね、この子たちがもう一度『綺麗』になるのを知っているの」


 咲子の言葉が、真白の胸の奥底に、深く突き刺さる。


(必要ないからって、美しさまで消えるわけじゃない――)


 それは、貴文にとっての「都合のいい女」でしかなく、誰の本命にもなれない自分自身への言葉のようにも聞こえた。無駄なものを愛することを許されず、自分の感性ごと押し殺してきた幼い真白の心を、何十年越しに肯定してくれるような響きがあった。


「役割が、なくても……いいの……?」


 ぽつりと呟いた真白の言葉に、咲子はすべてを見透かしたような優しい眼差しで微笑んだ。


「当たり前じゃない。ただそこにあって、自分が『あぁ、素敵だな』って思えたら、それだけで大正解よ」


 真白は、光に透ける青いガラス瓶と、咲子の深い皺の刻まれた温かい笑顔を、ただ黙って見つめていた。

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