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真白と咲子

「ここに来ると、本当にホッとするよ」


 ベッドの上で、貴文たかふみがスマートフォンをいじりながら気怠げに言った。


 真白ましろの部屋は、徹底的に白とパステルカラーで統一されている。床にモノは一切置かれておらず、生活感はすべてクローゼットの奥に隠されている。無機質で、静謐で、まるでモデルルームのようだ。


「真白の部屋って、いつも綺麗に片付いてていいよな。ミニマリストって言うんだっけ?……うちなんてさ、子供のおもちゃは転がってるし、嫁は片付けもしないで怒ってばかりだから、家にいても息が詰まるんだよ」


 悪びれもせず、自分の「家庭」の愚痴をこぼす貴文。

 真白はキッチンでマグカップを洗う手を一瞬だけ止め、それから「そう」とだけ冷たく返した。


 付き合って半年が経った頃、彼の財布から遊園地の小児用チケットが出てくるまで、真白は彼が既婚者だとは知らなかった。騙されていた。怒って別れるべきだった。それなのに、寂しさに負けて関係を続けてしまっている。


(私は、貴文さんの『都合のいい女』なんだ――)


 だからこそ、真白はこの部屋の白さに固執していた。私生活は泥沼で汚れている。だからせめて、自分の城だけは潔白で、正しく、完璧な空間にしておきたかった。そうしなければ、自分がどんどん「ゴミ」になっていくような気がしたから。


「じゃあ、明日早いから帰るわ」

 貴文はそう言って、真白の髪を雑に撫でて帰っていった。


 ◇


 翌日の夕方。

 仕事から帰宅した真白は、いつものように息を深く吐き出し、部屋の明かりをつけた。一寸の乱れもない白一色の空間だけが、張り詰めた真白の心を緩めてくれる唯一のシェルターだった。


 夜を迎える前に、外の世界を遮断しようとベランダの遮光カーテンに手をかける。

 しかし、その手を止めた。


 真白の「白の世界」を暴力的に侵食する、極彩色の布が目に入ったのだ。


 赤、オレンジ、ターコイズブルー……複雑なアラベスク模様が織り込まれた、ペルシャ風のストール。それが隣の302号室から風で飛ばされ、真白の物干し竿に醜く引っかかっている。


「……もしかして、お隣さんかな……」


 近所のゴミ捨て場で、主婦たちが「302号室は変わり者のゴミ屋敷老人だ」とヒソヒソ噂しているのを思い出す。

 せっかく帰ってきたのに。自分の完璧な空間に「ノイズ」が入ることが許せない真白は、苛立ちのままにストールを外すと、隣のインターホンを激しく押した。


 ピンポーン。


 しばらくして、ガチャリと鍵が外れ、小さな、しかし驚くほど背筋の伸びたおばあちゃんが現れた。白髪をお団子にまとめ、耳には大ぶりの緑色のピアス、派手な花柄のチュニックを着ている。


「はーい、どなた?」

「あの、これ……ベランダに飛んできて」

「あら! 私のだわ。風で旅をしちゃったのね、ありがとう!」


 おばあちゃんは満面の笑みで布を受け取ると、真白の手首をグイと掴んだ。


「お礼にお茶を淹れるわ、入って入って」

「い、いえ! 結構です、遠慮します!!」


 真白は慌てて手を引こうとしたが、おばあちゃんは「いいからいいから!」と、細い腕からは想像もつかない力で引っ張る。


「突っ立ってないで! ほら、今ちょうどいいミントのハーブティーが入ったところなんだから!」

「ちょっと、本当に結構ですから……っ!」


 社交辞令が全く通じない強引さに圧倒され、真白はまともな拒絶もできないまま、ズルズルと302号室の玄関へと引きずり込まれてしまった。


 そして、真白は言葉を失った。


「な……っ……何、これ……っ!?」


 真白の口から、引き攣ったような声が漏れる。彼女の脳内にある「部屋」という概念が木っ端微塵に吹き飛んだ。


 そこは、圧倒的な「混沌カオス」だった。


 玄関からリビングに続く廊下には、目の粗いウールや幾何学模様の絨毯が、まるでパッチワークのように何枚も重ねて敷き詰められている。


 天井を見上げれば、電気の紐の代わりに、モロッコ風のガラスランプや真鍮のランプが大小無数に吊り下げられ、淡いオレンジや紫の光を放っている。壁には、アフリカの木彫りのお面、古い外国のポストカード、謎の鍵が狂気的な密度でディスプレイされていた。


 部屋の奥には、インドの刺繍クッションが山積みにされ、棚には古いリンゴ箱が積み重ねられ、その中にびっしりと色硝子の小瓶が詰まっている。


(ゴミ……? いや、雑貨……? でも、モノが多すぎる……ッ!!)


 真白は胸を押さえた。

 昨日、貴文が言った『うちは片付いてないから息が詰まる』という言葉が頭をよぎる。そんなレベルではない。床が見えない。色の暴力。情報の豪雨。

 毎日、必死にモノを排除して「心の平穏」を保ってきた真白にとって、ここは精神的な拷問部屋も同然だった。


(信じられない……! なんでこんなモノの量で生きていられるの……!?)


 真白の顔は完全に青ざめ、あまりの衝撃に、玄関のたたきで固まったまま一歩も動けなくなっていた。


 そんな真白の驚愕を気にすることもなく、おばあちゃん――咲子さきこは鼻歌交じりに、カラフルなガラス瓶から紫色の液体をグラスに注いでいた。


「ふふ、驚いた? みんな、私の部屋を『ゴミ屋敷』って呼ぶのよ。でもね、ここにあるものはね、全部私の愛しい『はぐれもの』たちなの。世間にとってはゴミでも、私にとっては全部、宝物」


 咲子は、天井から吊るされた、少しヒビの入ったランタンを愛おしそうに指先で揺らした。

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