Episode 4:審判のとき
翌朝、一年生だけが視聴覚室に集められていた。
窓は閉め切られ、薄いカーテン越しの光が床にくすんだ帯を落としている。空調は動いているはずなのに、空気は妙に重かった。
人が多いからじゃない。もう誰かを疑う方へ気持ちが傾いている集団は、それだけで息苦しい。
前方には長机が並べられ、学年主任、生徒指導、担任、生徒会の顧問らしい教師が座っていた。
脇には生徒会役員の席もある。けれど、そこにいる顔ぶれはいつもより少ない。
神宮寺 翔は、その少し前に立たされていた。
一週間前までなら、ああいう場所に立つ時の神宮寺は、もっと姿勢がきれいだった。
肩の力は抜けているのに、だらしなくは見えない立ち方。声を出さなくても、場の空気を整える人間の体の使い方をしていた。
今は違う。
背筋はまだ伸びている。でも、その伸ばし方がもう自然じゃない。無理をして形だけ保っている立ち方だ。
右の口角は、今日も少し遅れる。
目の下の影は、昨日より濃い。
ちゃんと眠れていない顔だった。
私は後方の壁際に立ったまま、それを見ていた。
眼鏡越しの視界は少し鈍い。けれど、こういう綻びを拾うには十分すぎる。
前の列では、一年生たちがざわついている。
「やっぱ神宮寺なんだ」
「でも証拠あるらしいよ」
「昨日も生徒指導に呼ばれてたし」
「終わった?」
終わった。
その言葉が、誰の口からもやけに軽く出る。
結論が先にあると、人は考えなくて済む。
学年主任が咳払いをひとつして、手元の紙を見た。
「一昨日、サッカー部の部室で財布の紛失が確認された。状況から見て、神宮寺に重大な疑いがある」
重大な疑い。
便利な言葉だと思う。中身が曖昧なまま、人ひとりを追い込める。
神宮寺は何も言わない。否定するより先に、言葉を置く場所を見失っている顔だった。
視線を少しずらす。
前から三列目。
柏木悠真。
サッカー部。神宮寺の親友。
親友、という言い方はたぶん半分だけ正しい。
一緒にいる時間は長い。
冗談も言う。
試合のあとに笑い合う。
ただ、柏木の反応だけは前から少し分かりやすかった。
神宮寺の名前が出るたび、ほんの一瞬だけ表情が遅れる。隣にいることには慣れていても、隣で比べられることには慣れていない顔だ。
そこを突かれた。
たぶん、それだけの話だった。
学年主任が続ける。
「柏木、お前は一昨日、神宮寺が部室に一人でいるところを見たんだな」
柏木は一瞬だけ固まり、それから頷いた。
「……はい」
声が乾いている。
「ロッカー付近にいたのも見たと」
「はい」
見た、じゃない。
言わされた。
しかも今、自分で見たことに変換している。
私は壁に背を預けたまま、指先で眼鏡のつるを押し上げる。
神宮寺の行動時刻。
財布紛失の時刻。
鍵の管理。
柏木の証言の食い違い。
最初に「見たよな」と誘導した人間。
隠し場所と動機。
筋はもうほとんど見えている。
生徒指導の教師が、わざとらしく低い声を出した。
「神宮寺。何か言うことはあるか」
その問いは、弁明を促す声じゃない。
自白を待つ声だった。
神宮寺の喉が動く。
「僕は……」
そこで止まる。
室内の空気が少し揺れた。
ああ、駄目だと思う。この沈黙は、今の空気の中では否定より悪く働く。
案の定、どこかで小さな息が漏れた。失望と、安心と、少しの興奮が混ざった音。
誰かが落ちる瞬間というのは、見ている側にとって妙に気持ちいい。そういう顔が、前方にいくつか並んでいる。
吐き気がした。
その時、左手の脇の扉が細く開いて、ひとりの女子が入ってきた。
首にヘッドセット。
クリップボード。
文化祭の日、ステージ袖で神宮寺の隣にいた放送部の女子だ。
彼女は室内の空気を一瞬で読み取った顔をして、壁際に立った。
そして、神宮寺を見る。
その視線だけで分かる。彼女はこの一週間の変化を、たぶん私ほどではないにしても見ていた。
学年主任が、紙を置いた。
「現段階で、神宮寺には自宅謹慎を——」
「待ってください」
自分の声が、思ったよりよく通った。
全員の顔がこちらを向く。
立っただけで分かる。視線には、驚きと、戸惑いと、見慣れないものを前にした時の遅い反応が混ざっている。
私は壁から背を離した。
今日は眼鏡をかけている。
まだ外さない。
学年主任が眉をひそめる。
「広瀬、何だ」
「その話、順番が違います」
室内が静まる。
教師に向かって言ったわけじゃない。
この場の空気そのものに向かって言った。
私は前へ出る。
神宮寺が顔を上げた。
驚いている。けれどそれ以上に、信じられないものを見る目をしていた。
それはそうだと思う。今までの私は、こういう場面で前に出る人間じゃなかった。
「神宮寺くんが部室にいた時間って、何時ですか」
教師ではなく、柏木を見る。
柏木の肩が揺れる。
「……四時半くらい」
「財布の紛失に気づいたのは」
「四時五十分」
「部室の鍵は?」
今度は顧問教師が答える。
「マネージャーと主将、それから顧問の私が管理している」
「神宮寺くんは持ってないんですよね」
「持っていない」
私は頷いた。
「じゃあまず、神宮寺くんが部室にいたことと、財布を盗んだことはまだ繋がってません」
生徒指導が顔をしかめる。
「しかし柏木は、ロッカーの近くをうろついていたと——」
「柏木くん、自分で見てないよね」
空気が止まる。
柏木の顔色が変わった。
「は?」
「あなた、自分で見てないよね」
「何言って」
「昨日、神宮寺くんを問い詰めた時、部室にいたことも、ロッカーの近くにいたことも、見たって言ってたやつがいるって言ってた」
柏木の唇が止まる。
図星を刺された人間は、怒る前に一度、呼吸を忘れる。
私は続けた。
「最初は伝聞だったのに、今は自分で見たみたいに話してる」
「……っ」
「誰かに、たまたま見たよな?って押されたんでしょ」
前列がざわつく。
「それを自分の記憶みたいに言い換えた。違う?」
柏木は何か言おうとして、言葉を選びきれない顔で固まっている。
その沈黙は、さっきの神宮寺の沈黙とは種類が違う。
知らないから出ない沈黙じゃない。誤魔化し方を探している沈黙だ。
私は一歩だけ近づいた。
「あなた、神宮寺くんを犯人にしたかったわけじゃない」
柏木の眉が跳ねる。
「でも、最初の一人になりたかった。正しい側に立ちたかった」
ざわめきが少し大きくなる。
「あと、少しだけ安心したかったんだよね」
柏木の喉がひきつる。
「ずっと神宮寺くんの隣にいたから分かるでしょ。あの人が落ちたら、自分は少し楽になるって」
「黙れよ……」
「黙らない」
私は言い切った。
「あなたは犯人じゃない。でも、最初の石を投げた人ではある」
柏木の顔から血の気が引く。
周りの生徒が、今度は柏木を見る。
群衆は向き先が変わるのが早い。
だから嫌いだ。
「でも、本当に面倒なのはここから」
私は視線をずらした。
二列目の端。
サッカー部の副主将、三浦 怜央。
昨日から、こいつだけ噂の回り方を不自然に補強していた。
部室の状況をよく知っているくせに、知らない側の顔をして。
柏木に近づくタイミングも早すぎた。
三浦が、ほんのわずかに顔を強張らせる。
「三浦くん」
名前を呼ぶ。
「神宮寺くんが部室にいたって話、最初に柏木くんへ流したの、あなただよね」
「は? 何言ってんだよ」
「鍵のことを知ってる人間じゃないと、あの流れは作れない」
私は順番に並べる。
「昨日、部室は四時二十分に一度閉まってる。これはマネージャーの記録にある。でも四時三十分に三浦くんが、忘れ物したって戻った」
放送部の女子が壁際で小さく目を見開く。
神宮寺も、はっとした顔になる。
「そのあと四時三十五分に神宮寺くんは顧問に呼ばれて、部室前を通った。見られやすいのはそこしかない」
三浦が口を開く。
「いや、それは」
「柏木くんには、その見られやすい瞬間だけ流した。自分で見たわけじゃないのに、見た気にさせるには十分だった」
前方の教師たちがざわめく。
私は止まらない。
「鍵の管理が限られてる以上、部室に自由に出入りできた人間は少ない。しかも財布、今朝になって掃除用具庫の奥で見つかったんですよね」
生徒指導が顔を上げる。
「なぜ知っている」
「掃除当番の子が言ってました。昨日の放課後に掃除した時にはなかったのに、今朝見たら奥に落ちてたって」
この先は、半分だけ推測だ。
でも三浦の目が、一瞬で答えを出した。
「普通、盗った本人がそんな近くに捨てる?」
誰も答えない。
「捨てるならもっと遠くです。なのに学校の中、それも見つかりやすい場所に戻した。神宮寺くんに疑いが向いたあとで、証拠っぽく見つけたかったから」
三浦の額に汗が浮く。
「違う」
声がかすれる。
「じゃあ、どうして昨日の朝、柏木くんに『たまたま見たよな?』って確認したの」
「……」
「どうして、神宮寺くんが顧問に呼ばれてた時間だけ、やけに詳しいの」
「……っ」
「どうして、財布をなくした本人より先に、あいつ昨日おかしかったって言えたの」
言葉の順番を崩さず並べるだけで、人は思ったより簡単に追いつめられる。
三浦は拳を握りしめたまま、何も言い返せない。
神宮寺が、そこでようやく三浦を見た。
驚きより、理解の方が先に来た顔だった。
「……三浦」
名前を呼ばれた瞬間、三浦の表情が崩れた。
「しょうがねえだろ」
その声は、もう怒鳴り声ですらなかった。ずっと押さえていたものが、勝手に漏れたみたいな声だった。
「お前ばっかり」
視聴覚室の空気が、そこでもう一段静まる。
「お前ばっかり、何でも持ってくんだよ」
誰も動かない。
「部活も。先生の評価も。女子の視線も。生徒会も」
「三浦……」
「しかも悪気なさそうにすんのが、いちばんむかつくんだよ!」
吐き出した瞬間、三浦自身がいちばん驚いた顔をした。
本音は、だいたい口に出たあとで本人を傷つける。
私は三浦を見る。
「だから、落としたかった」
否定しない。
「柏木くんなら揺れると思った。ずっと隣にいたから、いちばん効くって知ってた」
柏木がそこで目を見開く。
「お前……」
「マネージャーが机に置いた鍵が見えた。財布も盗った。最初から神宮寺に被せるつもりだった」
三浦の声は、最後の方でもう言い訳になっていなかった。
生徒指導が立ち上がる。
学年主任もようやく顔色を変える。
遅いと思う。
でも今はそれでいい。
私は息を吐いた。
張りつめていた空気が、そこで少しだけ動く。
誰かが椅子を鳴らす。
誰かが小さく、最低、と吐く。
さっきまで神宮寺へ向けていた視線と同じ熱が、今度は三浦へ向く。
だから嫌いだ。
「やめて」
自分でも思ったより強い声が出た。
ざわめきが止まる。
「今それ言ってる人たち、五分前まで誰に石投げてたか忘れたの」
視線がいくつか、痛いくらいにこちらへ集まる。
「柏木くんも。みんなも」
私は前列を見渡した。
「自分で確かめないまま、気持ちよさそうに乗った。神宮寺くんが本当にやってたかどうかより、人気者が落ちる話の方が面白かっただけでしょ」
誰も反論しない。
できないんだと思う。
「三浦くんは最低。でも、それに乗った人たちが急にまともになるわけじゃない」
放送部の女子が、壁際でゆっくり息を吐くのが見えた。たぶん、ここまで言うと思っていなかったんだろう。
私はようやく神宮寺を見る。
さっきまでの諦めた顔は、もうしていなかった。
まだ傷ついてはいる。でも、目の奥に少しだけ熱が戻っている。
それで十分だと思う。
「神宮寺くん」
呼ぶと、彼はまっすぐ私を見た。
「盗ってないなら、下向かないで」
その一言で、神宮寺の喉がひとつ動いた。
「……うん」
かすれている。でも、自分の意志で返した声だった。
私は眼鏡に手をかけたまま、少しだけ迷って、それから外した。
もう隠す必要はないと思ったわけじゃない。ただ、この場で最後まで鈍いレンズ越しなのも違う気がした。
室内の空気が、そこでまた止まる。
誰かが息を呑む。
三浦ですら、一瞬だけ顔を上げた。
神宮寺の目も、そこで確かに揺れた。
驚き。
戸惑い。
それから、どこか遠い記憶の手前で立ち止まるみたいな目。
「……広瀬さん」
かすかな声だった。
私は答えない。
その代わり、一歩だけ彼に近づく。
「立って」
神宮寺は、今度は迷わず立ち上がった。
さっきよりずっとましな顔をしている。
まだ完璧ではない。
でも、崩れたまま終わる顔じゃない。
放送部の女子が、クリップボードを抱えたまま小さく言った。
「先生、これ、もう疑いの段階じゃないですよね」
学年主任は苦い顔をした。
生徒指導は三浦の方へ歩いていく。
遅い。
本当に遅い。
でも、もうこの場は教師のものじゃない。
私は眼鏡を持ったまま、神宮寺を見る。
「行くよ」
神宮寺が少しだけ目を見開く。
「え?」
「ここ、空気悪いから」
放送部の女子が、思わず笑いを噛み殺したみたいな顔をする。
神宮寺の口元が、ごくわずかに動いた。一週間ぶりに、本当に少しだけ自然な表情だった。
それを見て、胸の奥が変にざわつく。
今ここで立ち止まるのは、たぶんよくない。
私はそのまま視聴覚室の出口へ向かった。
神宮寺があとを追う。
背中にたくさんの視線が刺さる。
さっきまで裁く側にいた視線。
今は呑まれた側の視線。
そういうのが、本当に嫌いだ。
扉の前で、放送部の女子が一歩ずれて道を空けた。
すれ違いざま、低い声で言う。
「柏木、あとでちゃんと泣くね、たぶん」
私は足を止めずに答える。
「その前に、自分で何したか理解すればいいけど」
「難しそう」
「見れば分かる」
彼女が小さく笑う気配がした。
視聴覚室を出ると、廊下の空気は少しだけ冷たかった。
隣で、神宮寺が何か言いかける。
でも私は、その前に先へ進む。
立ち止まったら、さっきの顔を思い出してしまいそうだった。
「まだ終わってないから」
神宮寺は少し遅れて、静かに返した。
「……うん」
その声だけで、さっきまでとは違うと分かった。沈んだまま終わる声じゃない。
廊下の窓から朝の光が浅く差している。
並んで歩いているだけなのに、どこまで近づいていいのか分からなかった。
少し後ろで、放送部のあの子がドアを閉める音がする。それで、視聴覚室のざわめきはようやく背中の方へ遠のいた。
事件は片づいた。
でも、面倒なのはたぶんここからだ。
私は前を向いたまま、指先を軽く握る。
さっき眼鏡を外した時の、あいつの顔がまだ頭に残っていた。
ああいう目で見られると、本当に困る。
このあと駅までの道が、長くなりそうだった。




