Episode 3:破壊と再生
文化祭から一週間で、神宮寺 翔は目に見えて壊れた。
それは、派手な崩れ方じゃない。もっと小さい。でも、小さいからこそ見逃しにくい壊れ方だった。
朝、教室に入ってきても、前みたいに空気が明るくならない。
笑えばみんな笑い返す。けれど、その一拍前に、相手の顔にためらいが混じる。
配られたプリントを誰かに手渡しても、受け取る側の指先が、ほんの少しだけ遅れる。
一週間前までなら、それはなかった。
神宮寺は、いるだけで空気の流れを整える側の人間だった。
声は澄んでいて、姿勢はきれいで、何をしても「正しい方」に見える。そういう人間だった。
でも今は違う。
笑顔の右側だけが、ときどき遅れる。呼吸が浅い。目の下の影が、毎日少しずつ濃くなる。
立っているだけで、どこか無理をしている体になっていた。
たぶん本人は、まだ隠せているつもりだ。でも、こういう綻びは一度見つけると消えない。
昼休み。神宮寺が学級委員の仕事で回収したプリントを前の席に配っていた時も、同じだった。
「ありがと」
女子は受け取る。
でも声が少し硬い。
前なら、ついでにもう一言、二言は雑談が続いたのに、今日はそれで終わる。
神宮寺は気づかないふりをしている。あるいは、本当にまだ認めていないのかもしれない。
廊下では、もっと露骨だ。
「ねえ、昨日サッカー部の部室に一人でいたんでしょ」
「財布なくなったの、そのあとらしいよ」
「でも、あの神宮寺くんが?」
「逆に、そういう人ほど分かんなくない?」
噂は広がる時、いつも形を変える。最初に誰かが落とした種に、他人の解釈と都合が勝手に肉づけされていく。
最初の話では、
「神宮寺が部室に残っていたらしい」
それだけだった。
でも今は、
「残っていた」
「落ち着きがなかった」
「顔色が悪かった」
「誰かと揉めていたらしい」
に変わっている。
全部、雑だ。拾い集めれば、むしろ神宮寺が犯人じゃない証拠の方が先に見えてくるくらいだ。
なのに、誰もそこまで考えない。昨日まで持ち上げていた相手を、今日は疑う側に回る。
その方が楽だからだ。正義の側に立っている気になれるし、自分の鈍さも棚に上げられる。
放課後の教室は、その最悪の空気をきれいに煮詰めたみたいだった。
私はいつもの隅の席で、本を開いたまま文字を読んでいなかった。
視界の端にいる神宮寺を、分厚いレンズ越しにずっと観測している。
窓際の席に座る神宮寺の周りだけ、微妙に空いていた。
避けられている、というほど露骨じゃない。でも、人は本気で疑っている相手の近くに、自分からは座らない。
その時、教室の前の方で椅子が大きく鳴った。
立ち上がったのは、柏木 悠真だった。
サッカー部。
神宮寺の親友。
いつも隣にいて、冗談を言い合って、練習の帰りには一緒にコンビニへ寄る。そういう近さの男。
ただ、その近さの下に、長いこと別のものが沈んでいたのも知っている。
神宮寺と並ぶたび、柏木は半歩だけ声が大きくなる。褒められている神宮寺の横で、自分の前髪を無意味に触る。
一緒にいることで安心しながら、一緒にいる限り勝てないことも分かっている顔をしていた。
そういう劣等感は、火がつく前のガスみたいなものだ。誰かが少し誘導すれば、簡単に燃える。
柏木は神宮寺の机まで歩み寄ると、制服の胸元を掴んだ。
「神宮寺」
教室が静まる。
「お前、ほんとにやってないんだよな」
怒鳴っているのに、その手は少し震えていた。
本気で信じている人間の怒りじゃない。自分が正しい側にいると確認したい時の震え方だった。
神宮寺は椅子に座ったまま、何も言わない。
柏木の喉が、ひとつ動く。
「……昨日、部室にいたの、お前なんだろ」
「それは」
「見たって言ってたやつがいる。ロッカーの近くも、うろついてたって」
それを吹き込んだ人間の顔も、私はもう見当がついていた。
名前までは、まだ断定しない。でも、どの順で嘘が混ざったかは、ほとんど見えている。
神宮寺は口を開きかけて、閉じた。
その間が悪い。本当にやっていない人間ほど、疑われた瞬間は言葉が出なくなることがある。
でも群衆は、その沈黙を図星と呼ぶ。
案の定、後ろの席の誰かが小さく息を呑んだ。それが、空気をまた一段悪くする。
「なんか言えよ」
柏木の声がひび割れる。
親友だからこそ、落としたい。
親友だからこそ、裏切られたことにしたい。
そういう甘ったるくて最悪な感情が、声に混ざっていた。
神宮寺はようやく顔を上げた。
でもその目は、もう前みたいに人の視線を受け止める目じゃなかった。
ひどく疲れていて、どこか諦めている。
「僕は……」
そこで止まる。
柏木の指が、制服をさらにきつく掴んだ。
「信じてたんだよ、俺」
その言葉だけは、本音だった。
だから余計に質が悪い。信じていたことと、勝ちたかったことが、柏木の中でぐちゃぐちゃに混ざっている。
神宮寺は抵抗しなかった。
手を払うこともしない。
怒る気力も、否定を押し返す力も、もう残っていない顔だった。
周りは黙って見ている。
誰も止めない。
助ける気はないくせに、結末だけは見届けたい目だ。
私は本の端を指で押さえたまま、動けない。
証拠はない。
証言は穴だらけ。
少し拾えば、筋は見える。
でも立ったら終わる。
私はまた、目立つ。
また面倒が増える。
また、自分の世界が高解像度になりすぎる。
助ける?
私が?
そんな柄じゃない。
私はずっと、自分ひとり守るだけで精一杯だったはずだ。
柏木が神宮寺を突き放した。
椅子の脚が鳴る。神宮寺の体が少しだけ傾く。
「最低だな」
吐き捨てるように言って、柏木は教室の出口へ向かう。その背中に、同じ側へ逃げ込みたい連中がぞろぞろ続いた。
一軍の女子。
空気の強い男子。
いま神宮寺の近くにいたくない人間から順に、教室を出ていく。
最後に残ったのは、窓際の席で俯いた神宮寺と、隅の席で動けない私と、ドアの近くで足を止めた女子だけだった。
ヘッドセットを首にかけた、あの子。文化祭の日にステージ袖で神宮寺の隣にいた女子だ。たしか、放送部。
彼女は教室に入ってきたまま、空気を読んだうえで、出るべきか迷っている顔をしていた。
神宮寺が、ゆっくりこっちを見た。
「……広瀬さんも」
声がかすれている。
「僕がやったって、思うよね」
その瞬間、何かが切れた。
たぶん、正義感じゃない。
同情でもない。
ただ、それを言わせたこの教室の空気が、もう無理だった。
放っておけば済むはずだった。
いつもなら、そうしていた。
なのに今日は、それがひどく卑怯に思えた。
椅子を引く。
細い音が、静まり返った教室にひどく大きく響いた。
神宮寺が顔を上げる。
放送部の女子も、はっとしたようにこちらを見る。
私は立ち上がった。
足が少し震える。
心臓がうるさい。
それでも、眼鏡に手をかける。
外すだけで、世界の輪郭が急に鋭くなる。
嫌になるくらい鮮明な現実が、一気に押し寄せてくる。
教室の空気が、そこで一度止まった。
誰も予想していなかったものを見た時、人はまず言葉をなくす。
その沈黙だけで、十分だった。
私は神宮寺を見る。
「あんた、ほんとにださい」
声は大きくなかった。
でも、静かな教室では十分すぎるくらいまっすぐ届いた。
神宮寺の肩がわずかに揺れる。
「盗ってないなら、そんな顔して座ってんなよ」
彼が息を止めるのが分かった。
「何もしてないのに、全部終わったみたいな顔するの、ほんとださい」
神宮寺の目が、少しだけ見開く。
たぶん、誰もこんな言い方で彼を叱ったことがない。
優しく慰める方が簡単だ。でも、それで立ち上がれる相手じゃないことも、私は知っていた。
昔から。
神宮寺は、唇を結んだまま私を見る。
その目の奥で、何かが揺れている。
驚き。
戸惑い。
それと、記憶の手前にある違和感。
「……広瀬、さん」
「立って」
私が言うと、神宮寺の喉がひとつ鳴った。
「今ここで黙ってたら、ほんとに終わるよ」
放送部の女子が、小さく息を呑む音がした。
彼女は気づいたはずだ。
神宮寺の顔色が、さっきまでとは違うことに。
神宮寺は机に手をついた。
けれど、すぐには立てない。
私は一歩だけ近づく。
前髪が少し揺れて、視界の邪魔だった。
指で払う。
それだけで神宮寺の目がさらに止まる。
全部じゃない。
でも少しだけ。
隠していたものが、彼の前にこぼれる。
神宮寺の瞳に、見覚えのある色が走った。
昔、砂場で泣きながら私を見上げた時の、あの目に似ている。
「……まさか」
かすれた声が落ちる。
私は答えない。
その代わり、床に落ちていたプリントを拾い上げて、神宮寺の机に置いた。
「泣いてる暇があったら考えて」
神宮寺の眉がかすかに動く。
「誰が、いつ、どの順番で、何を見たことになってるのか」
彼の呼吸が、そこで少し変わる。
ようやく頭が動き始めた顔だった。
「……広瀬さん」
「私、冤罪って嫌いなんだよね」
それは半分、本当で、半分は嘘だった。
嫌いなのは冤罪そのものじゃない。それに嬉しそうに乗る人間の顔の方だ。
私は眼鏡を持ったまま、神宮寺を見下ろす。
「あと、あんたのそういう顔も嫌い」
「え……」
「守るとか言ってたくせに、肝心な時に自分から沈むの」
神宮寺の目が、そこで確かに揺れた。
分かった。
まだ確信まではいっていない。
でも、記憶のどこかに手がかかっている。
それで十分だ。
今ここで全部思い出される必要はない。むしろ、その手前で止めた方が強い。
ドアの近くにいた放送部の女子が、ようやく口を開いた。
「神宮寺くん」
彼女は低い声で言う。
「さっきの柏木くん、たぶん本気で信じてるんじゃない。信じたい方に寄ってるだけ」
神宮寺がそちらを見る。
彼女はクリップボードを抱え直した。
「今朝、部室前で一年の男子と話してるの見た。たまたま見たっていうより、言わされてる顔だった」
やっぱり、と思う。
操り糸は一本じゃない。でも、いちばん目立つ糸を引いている手は、そう遠くない。
神宮寺はゆっくり立ち上がった。
まだ完全じゃない。
でも、さっきまでの沈み方とは違う。
「……僕、どうしたら」
弱い声だった。でも、その問いが出た時点で、完全停止は終わっている。
私は眼鏡をかけ直した。ひびの入ったレンズ越しに見る世界は、ちょうどいいくらい鈍い。
「まず、時系列」
「え」
「部室にいた時間。財布がなくなった時間。それを最初に言い出した人。柏木が誰に何を聞いたか」
私は息を吸う。
「順番に潰せばいい。こんなの、雑すぎてすぐ崩れる」
神宮寺は私を見る。
その視線の中に、さっきまでの諦めはもうない。代わりに、戸惑いと、少しの熱が戻ってきていた。
「広瀬さん……君は」
そこまで言って、止まる。
私は答えない。
答える代わりに、彼の机を指先で軽く叩いた。
「ぼーっとしない。頭使って」
放送部の女子が、ふっと小さく笑った。
空気がやっと、人の呼吸に戻る。
私は鞄を持つ。
「行くよ」
神宮寺が目を瞬く。
「どこへ?」
「決まってるでしょ」
私は教室の出口に向かいながら、振り返る。
「この学校でいちばん雑な嘘をついたやつのとこ」
神宮寺はまだ完全には飲み込めていない顔をしていた。
でも、その足はもう止まっていない。
放送部の女子がドアを開けながら、神宮寺を見た。
「……あとで聞かせて。さっきの広瀬さん、何?」
神宮寺は答えなかった。
答えられない、の方が正しい。
私は廊下に出る。夕方の光が長く伸びて、床に薄い影を落としていた。
背中に気配が続く。
神宮寺と、あの女子の足音だ。
最悪だと思う。
また面倒なことになった。
静かに、誰にも見つからないように生きる予定だったのに、気づけばその逆をやっている。
でも、ここで止めてももう遅い。
柏木は揺れた。
神宮寺は立ち上がった。
あとは、最初に糸を引いたやつを引きずり出すだけだ。
明日には、たぶん表に出る。
教室の中だけじゃ済まない。教師も、生徒も、いちばん雑な形で結論を急ぐ。
そうなる前に潰さないと、たぶん間に合わない。
私は足を止めずに、ひとつだけ息を吐いた。
明日、学校はきっと、いちばん安い正義で動く。




