Episode 2:学園祭の顔バレ事故
文化祭の日の校舎は、いつもより呼吸がしづらい。
揚げ物の油。
甘すぎる菓子の匂い。
廊下を流れていく笑い声と、床を鳴らす足音。
人が浮かれている時の空気は、だいたい中身がない。
今日の学校は、その空っぽをわざわざ飾りつけて、年に一度の特別感として売っている。
教室の前には紙花。
窓には色つきのフィルム。
どうせ剥がせばいつもの景色に戻るのに、みんな、こういう一時的なものを本気で信じられるからすごい。
私は教室の隅で、いっぱいになったゴミ袋の口を縛っていた。
こんな日の私は、必ず雑用に回される。目立たないし、反論もしないと思われているからだ。実際、その認識はたぶん正しい。
「おい、広瀬。それ、裏に持ってって」
机の脚が、わざとらしく私の椅子にぶつかった。
振り向くと、腕章をつけた実行委員が立っている。その声は、なぜか偉そうだ。
姿勢が悪い。歩き方も大雑把で、たぶん数年後には腰を痛める。
「……はい」
考えるより先に返事が出た。謝罪も返答も、こういう場面では反射の方が早い。
教室を出ると、熱気がそのまま廊下にたまっていた。
焼きそばの湯気が白く浮いて、どこかの教室から拍手が漏れる。
騒がしい。情報量が多すぎる。こういう日は、頭の輪郭がゆっくりと曇っていく感じがする。
賢いって、消耗するから。
袋を引きずりながら曲がり角を抜けた時、スピーカー越しに声が響いた。
『みんな、今日は楽しんでいこう』
神宮寺 翔だ。
見なくても分かった。
あの手の人間は、声の届き方まで整っている。明るくて、澄んでいて、聞いている側に安心を与えるように作られている。
でも、私は知っていた。
昨日、駅前で見つけた綻び。
右の口角の遅れ。
浅い呼吸。
目の下の薄い影。
たぶん昨日の夜、あいつは鏡の前で何度も笑顔を作り直した。そういう硬さは、一日じゃ消えない。
『最高の思い出にしよう!』
その言葉に、周りの空気が一斉に沸いた。
無理をしている人間ほど、完璧に見せようとする。あれはそういう台詞だった。
私は体育館脇の通路へ入った。喧騒が壁一枚ぶん遠くなる。
ステージ袖の近くは薄暗くて、むしろ落ち着く。ここを抜けた先に、仮設の集積所がある。
その時、背中のあたりで、嫌な感じの気配が揺れた。
でも文化祭の日の悪意は、人混みと同じ顔をしている。見えていても、避けきれない時がある。
「うわ、ごめん」
同時に、背中を押された。
軽い力だったのに、足元が滑る。床にはワックスが薄く伸びていて、踏ん張りがきかない。
私は前につんのめり、そのままケーブルの束へ倒れ込んだ。
袋が手を離れた。
口が緩み、生ぬるい匂いが広がる。
やばい、と思った瞬間、視界の端で照明スタンドが傾く。
考えるより先に体が動いていた。
左手を床について勢いを殺しながら、右腕を伸ばす。そして倒れかけたスタンドの支柱を、指先で押し返した。
ケーブルを踏まず、膝をひねらず、床に散ったゴミを避けて着地した。
危なかった。たぶん、あと半秒遅ければ、スタンドは倒れて、袖の機材ごと巻き込んでいただろう。
「……え」
背後で、小さなつぶやきが漏れた。
振り向く前に分かる。押した側が、想定と違う結果に固まった時の反応だ。
同じクラスの女子だった。
その他大勢という盾の裏側からしか、石を投げられないタイプ。今はその取り巻きもいない。
でも、そっちに構っている余裕はなかった。顔からずり落ちた眼鏡が床にぶつかって、鈍い音を立てている。
レンズに、白いひびが入っていた。
最悪。
その時、袖の作業灯が、ぱっと点いた。
強い光ではない。でも、暗がりに慣れた目には十分すぎる。
でも、割れたレンズ越しじゃ何も合わない。
私は顔をしかめて眼鏡を外した。
その時だった。
「広瀬さん……?」
声が落ちてきた。
顔を上げた。
数歩先に、神宮寺が立っている。
さっきまでステージ中央でマイクを握っていた男が、今は袖の暗がりにいた。
隣には、首からヘッドセットを下げた女子がいる。放送部か、副会長か、そのへんだろう。クリップボードを抱えたまま、目を見開いている。
神宮寺は、動かない。
いや、動けない。
その圧力で分かった。
見られた。
眼鏡のない顔を。
前髪の下に隠していたものを。
さっき咄嗟に照明を止めた動きまで、たぶん全部。
空気が変わる。
嘲笑とは違う空白だ。
からかわれる時のざらついた気配じゃない。もっと静かで、もっと困る種類の沈黙。
私は、息を止めたまま立ち上がった。
神宮寺の視線が、昨日とは違っている。
驚いているだけじゃない。何かを思い出しかけている。
昔、泣き虫だったあいつを助けた時、最後に私を見上げた目。情けないのに、まっすぐで、変に忘れにくい顔。
そのままだった。
「大丈夫?」
神宮寺が、一歩近づいた。
その声が、もう完璧じゃなかった。きれいに整えたトーンの奥で、わずかに息が乱れている。
私は反射的に半歩下がった。
だめだ。それ以上近づかれたら、昔の記憶まで表情に出る。
ひび割れたレンズが指先に冷たい。前髪を急いで下ろして、輪郭の半分を隠す。
「……見ないで」
自分でも驚くくらい、弱いつぶやきだった。
神宮寺の隣にいた女子が、ようやく息をついて言った。
「神宮寺くん、次、三十秒後。もう出ないと」
それでもあいつは、返事をしなかった。
視線がまだ、私から外れない。
そのせいで余計に息苦しくなる。
「広瀬、さん」
名前を呼ばれた。
たった一言で、心臓がうるさくなる。
昔のように「凛」と呼ばれたわけでもないのに。
気づかれてもいないくせに。
けれど、言葉の置き方が、あの頃に近かった。
私は、割れた眼鏡をかけ直した。ひびの入った世界は、いつもよりさらに都合がいい。
「……失礼します」
そう言って、逃げた。
通路の奥へ。
光の届かない方へ。
背中に視線が刺さる。でも、追ってくる足音はなかった。
たぶん神宮寺は、まだあの場に立ち尽くしているだろう。
見間違いだと思いたい顔で、思い違いじゃないと気づきかけている。
あんな顔を、人間はそう何度もしない。
私は角を曲がって、ようやく息を吐いた。
肺が熱い。喉が乾いている。
鼓動が、変に大きい。
壁に手をついた。さっき止めた照明スタンドの感触が、まだ指先に残っている。
最悪だ。眼鏡一枚で隠してきたものを、よりによってあいつに見られるなんて。
十年前。泣き止まないあいつの頭を乱暴に撫でた時の、手のひらの熱。袖を掴まれた感触。
消したつもりの記憶ほど、こういう時に勝手に戻ってくる。
「ああ……ほんと無理」
たぶん、文化祭が終わっても、あれは残る。
ステージの明るい照明の下で笑っていても、教室でいつも通りの顔をしていても。
あの一瞬は、絶対に消えない。




