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Episode 1:偽装陰キャ

私には、他人の嘘と、恋の終わりが少しだけ早く見える。


教室のいちばん後ろの席は、その確認に向いていた。


窓際で笑っている三組目のカップルを、私は頬杖をつきながら眺める。


女子はストローを指で遊ばせたまま、昨日と同じ角度で男子を見る。


好きな人を見る目じゃない。好きでいたい相手を見る目だ。


男子は笑い返しながら、机の下でスマホを伏せた。


画面が消える寸前、通知欄に別の女の名前が見えた。わざわざ伏せる時点で、もうほとんど終わっている。


三日。

長くても一週間。


放課後には、女子がトイレで泣く。


翌日には、男子が「なんか重かった」とでも言う。


クラスは一日だけざわついて、そのあとは何事もなかったみたいに次の話題へ移る。


いつものことだ。


だから私は、人間関係に期待しない。

近づけば、終わる瞬間まで見えてしまう。


最初からネタバレされているものに、本気になるほど器用でもない。


IQ155。


そんな数字を頭に積んだまま高校に通うのは、思っているよりずっと面倒だ。


見えなくてもいいものまで見える。

聞かなくていい含みまで拾ってしまう。


先が読めるせいで、今この瞬間にちゃんと驚くのが、少しだけ下手になる。


だから今日も、私は分厚い眼鏡をかける。


瓶の底みたいなレンズの奥に目を隠して、猫背をつくって、「話しかけると面倒そうな陰キャ」を丁寧に演じる。


広瀬 (りん)。十六歳。高校一年。


成績は常にトップ。その代わり、教室ではなるべく何も分かっていない顔で生きるようにしている。


その方が楽だからだ。世界の解像度を少し落とすだけで、人はずいぶん普通に暮らせる。


放課後。駅前デッキに出ると、空気が一気に雑になる。


安い香水。揚げ物の油。制汗スプレー。

笑い声。足音。スマホの通知音。


人が多い場所は、それだけで少し救いだった。情報が散って、輪郭がぼやける。頭が勝手に先回りしすぎない。


賢いって、消耗する。


デッキの向こうに、視線が集まる一点があった。見なくても分かる。ああいう人間は、いるだけで空気の密度を変える。


でも、そっちを見る前に、別のノイズが背中に刺さった。


「いた。マジでいたんだけど、キモ広瀬」


振り向かなくても分かる。

同じクラスの、声だけ大きい連中だ。


私みたいなのは、相手が退屈している時にちょうどいい。サンドバッグというより、暇つぶし。たぶんそっちの方が正確だった。


やばい、と思った時にはもう遅かった。


右肩を突き飛ばされる。


視界が斜めに傾いて、床のタイルが急に近づいた。膝が硬い面を打って、少し遅れて鈍い痛みが走る。


「っ……」


「は? 声ちっさ。生きてる?」


真っ白なスニーカーが、私のパーカーの裾を踏む。


ぐり、と布が引かれる。

周りで、湿った笑いがいくつか重なった。


謝る。

早く終わらせる。

それがいちばん被害が少ない。


「……すみません」


ひどい声だった。自分でも情けないと思う。でも、ここで反発するのは下策だ。勝てる勝てないじゃない。面倒が長引く。


その時だった。


「やめなよ」


場違いなくらい、澄んだ声が落ちてきた。


笑い声が止まる。空気が変わる。人は、自分より強いものが現れると、呼吸の仕方まで変える。


神宮寺 (かける)


生徒会長。成績上位。サッカー部のエース。

放っておいても人が集まる、学校の中心みたいな男。


差し出された手は白くて、指先まできれいだった。爪の形も、袖のしわも、全部がちゃんとしている。


「大丈夫? 広瀬さん」


笑顔も、ちゃんとしていた。ちゃんとしすぎていて、少しだけ怖かった。


眩しい。

そう思った次の瞬間、違和感が刺さる。


右の口角だけ、ほんの少し遅れている。


きれいに整えた表情の中で、そこだけが噛み合っていない。


目の下には薄い影。呼吸は浅い。

首筋の筋肉が無意識に張っている。

立っているだけで保っている人の体だった。


私は眼鏡を押し上げた。レンズの向こうで、彼の顔の輪郭がようやく定まる。


「……神宮寺くん」


「うん?」


「その笑顔、少し無理してますよね」


彼の手が止まった。


「右だけ、下がってる」


ざわめきが、遅れて消える。


「え……?」


しまった、と思った時にはもう遅かった。

でも、いったん漏れた言葉は戻らない。


「今日、もう限界ですよね」


完璧に貼りついていた表情が、ほんの少しだけ揺れた。


その隙間から、本物の疲労が浮く。


私は立ち上がる。

差し出された手は取らない。


取ったら、余計なものまで思い出しそうだった。


「……失礼します」


そのまま人混みの方へ逃げた。


背中に視線が刺さる。けれど、その中でいちばん静かで重いのが、誰のものかは分かった。


夕焼けは赤すぎて、見ていると気分が悪くなる色をしていた。


見覚えなんて、ないはずだった。


顔も、背丈も、声も、十年前とはまるで違う。それでも、笑う前にほんの少し遅れる右の口角は、やけに頭に残った。


十年前。

泣きじゃくるあいつの前に立って、私は本気で何人かを殴ったことがある。


あの時、私の袖を離さなかった小さな手の感触が、消したはずなのに今さら戻ってくる。


熱まで、そのままで。


「ああ……ほんと最悪」


ただ思い出しただけなら、まだよかった。


厄介なのは、昔のあいつじゃなくて、今の神宮寺の顔まで頭から離れないことだ。作りものみたいに整っていた笑顔の、あの小さな綻び。


たぶん明日には、何もなかったみたいにまた笑うんだろう。でも、一度見つけたものは消えない。


私は人混みの中で足を止めかけて、やめた。


ああいう顔をした人間が、そう簡単に元へ戻るわけがない。

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