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Final episode:初恋

校門を出ても、しばらくは学校の空気が背中に張りついていた。


午前の光はまだ白くて、さっきまでいた視聴覚室の重さだけが、息の奥に薄く残っている。


通学路を外れて駅の方へ歩くたび、ようやく少しずつ、あの場から離れていく感じがした。


神宮寺が隣で歩いている。


ついさっきまであれだけ沈んでいたのに、今は少しだけ肩の力が抜けていた。


それでも、まだ完全には戻っていない。黙っていると、ふとした拍子にまた沈みそうな顔をしている。


しばらく何も話さなかった。


気まずいわけじゃない。ただ、お互いにまだ、さっきまでの空気をうまく脱ぎきれていなかった。


「……ねえ、広瀬さん」


立ち止まった神宮寺が、私を呼ぶ。その声だけで、胸の奥がわずかに浅くなる。


「僕、今日で全部終わると思ってた」


神宮寺は少しだけ笑って、すぐにその笑みを消した。


「もう駄目だって。ほんとに、そう思ってた」


そこで一度、言葉が途切れる。高架の向こうを電車が通って、遅れて風だけがこっちに来た。


「でも、広瀬さんが止めてくれた」


真正面からそう言われると困る。後悔はしていないのに、感謝されると急に逃げたくなる。


私は視線を逸らした。


「勘違いしないで。放っておくと、あとでこっちがずっと気になるだけだから」


それだけ言ってから、小さく息を吐く。


「……でも、もう二度とあんな顔しないで」


神宮寺が目を丸くする。


しまった、と思った時には遅かった。少し間を置いて、私はごまかすように付け足した。


「この、バカ」


神宮寺が笑った。

無防備で、ずるい笑い方だった。


胸の奥が急にうるさくなる。

ほんとに困る。


「これからもさ」


神宮寺は少しだけ言いよどみながら、でもちゃんと続けた。


「間違ってたら、また言ってよ」


私は返事の代わりに、明るすぎる空の方を見た。顔が熱いのは、歩いてきたせいだと自分に言い聞かせるしかない。


「……高いよ、私」


ようやくいつもの調子を少しだけ取り戻して、私は口の端を上げた。


「中途半端じゃ払えないから」


神宮寺は笑って頷く。


歩き出す。

歩幅はまだ揃わない。

でも、少し待てば隣に並べる距離だった。


駅が近づくにつれて、人の気配が少しずつ増えていく。


自転車のベル。

遠くで鳴る発車メロディ。


高架の下を抜ける風だけが、昼の熱を少しずつさらっていった。


改札前が見えた瞬間、胸の奥がまたざわつく。


ここで終わる。


別に、明日も会う。

同じ学校で、同じ学年で、同じ教室。


なのに、ここで何も言わずに別れたら、たぶん今日のことだけが綺麗に切り離されて、また元のふりができてしまう気がした。


それは、少し嫌だった。


神宮寺が足を止める。


「じゃあ、ここで」


あまりにも普通の言い方で、逆に困る。


もっと何か、引っかかるものを残してくれたらよかったのに。


「今日は、本当にありがとう」


またそれを言う。


私は思わず眉を寄せた。


「だから、何回も言わなくていい」


声が思ったより刺々しくなって、自分で少しだけ後悔する。


でも神宮寺は気にした様子もなく、ただ静かに私を見ていた。


その目が駄目だった。ああいうふうに真っ直ぐ見られると、こっちの防御はだいたい役に立たない。


「……広瀬さん」


「なに」


「ひとつ、聞いてもいい?」


嫌な予感しかしない。

こういう時の予感は、たいてい当たる。


神宮寺は少しだけ考えるみたいに黙って、それから言った。


「昨日、僕に言ったこと」


心臓がひとつ跳ねる。


「守るとか言ってたくせに、って」


喉の奥がきゅっと縮む。


やっぱりそこを拾う。

拾うと思った。

思ったけど、実際に拾われると全然話が違う。


神宮寺は困ったように、少しだけ笑った。


「前にも、どこかで同じように怒られた気がするんだ」


だめだ、と思う。


今ここで全部つながったら、たぶん私は逃げる。せっかくここまで来たのに、また元の分厚いレンズの向こうへ戻るみたいに。


「気のせいでしょ」


できるだけ平たく言ったつもりなのに、少し早口になった。


神宮寺はその言い方に、何か気づいたみたいな顔をした。


でも、それ以上は追ってこなかった。


「……そっか」


その引き方がずるい。

問い詰めない。

でも、手放しもしない。


改札の向こうで到着音が鳴る。

人の流れが少しだけ速くなる。


神宮寺が半歩だけ下がった。


「また明日」


それだけ言って行かれたら、本当に終わる。


そう思った瞬間には、制服の袖を掴んでいた。


神宮寺が目を見開く。


私も、たぶん同じ顔をしていたと思う。


何してるの、私。


頭の中ではそう思うのに、指だけは離れない。


ここで離したら、ただの変なやつだ。いや、今でも十分変だけど、ここで引いたらもっと変だ。


「……凛ちゃん?」


その呼び方で、思考が一瞬だけ真っ白になる。


だめだ。

それは、いろいろまずい。


「その呼び方、やめて」


神宮寺が少し慌てたように言う。


「ごめん」


「でも……」


そこまで言って、言葉が止まる。


改札の電子音が遠い。風の音も、人の話し声も、全部うまく拾えない。


自分の鼓動だけがやけに大きい。


神宮寺は何も言わなかった。

助けもしない。

急かしもしない。


ただ、待っていた。


その沈黙に負けた。


「……明日も」


出た瞬間、耳まで熱くなる。


今のなし。

無理。

なしにしたい。

でももう遅い。


神宮寺が、ほんの少しだけ息を呑んだのが分かった。


私は袖を掴んだまま、視線を逸らす。


「明日も、ちゃんと来なさいよ」


心臓がうるさい。

死ぬほど恥ずかしい。

今すぐ帰りたい。


でも、止まれない。


「また変な顔してたら、私が困るから」


それで終わるつもりだった。


そのはずだったのに、もう一言が勝手に喉のところまで上がってくる。


たぶん今日いちばん、言う予定のなかった言葉だった。


「……隣にいてあげるし」


言ってしまった。


終わった。

完全に終わった。

知性も理性も全部まとめて終わった。


今すぐ時間を巻き戻したい。

できれば十分前くらいまで。

いや、できれば朝まで。


神宮寺はしばらく何も言わなかった。

それが余計に怖い。


引いた?

困った?

重かった?


今のは重い。絶対に重い。


最悪だ。


もう帰る。


そう思って手を離そうとした瞬間、神宮寺の指が、私の袖の上からほんの少しだけ重なった。


止めるというより、そこにいると伝えるだけの触れ方だった。


「うん」


神宮寺が、少し笑う。


「ちゃんと行く」


その声が、やけにまっすぐで、優しかった。


私はもう顔を上げられなかった。


無理だ。

見たらたぶん、もっと駄目になる。


だから床を睨むみたいに見ながら言う。


「……遅刻したら、許さない」


「うん」


「また勝手に一人で沈んだら殴る」


「うん」


「返事が軽い」


「ごめん」


少し笑いの混ざった声。


それだけでまた胸の奥がうるさくなる。

ほんとに、どうしようもない。


改札の向こうで、電車のベルが鳴った。


今度こそ本当に、行かなきゃいけない。


私はようやく袖を離して、一歩だけ後ろへ下がる。指先に残った布の感触が、驚くほど熱い。


神宮寺はまだ私を見ていた。


さっきまでみたいな沈んだ影は、もうあまり残っていない。代わりに、少しだけ困ったみたいな、でも嬉しそうな顔をしている。


その顔が嫌で、嬉しくて、最悪だった。


私は前髪を指で押さえながら、わざと不機嫌そうに言った。


「……じゃあね、神宮寺くん」


神宮寺は少しだけ迷って、それから言った。


「また明日、凛ちゃん」


反射で睨み返したのに、たぶん全然怖くなかったと思う。


私はそのまま改札を抜けた。


数歩進む。

人の流れに押されるみたいに前へ出る。


それで終わるはずだった。


神宮寺はまだそこにいる。

見なくても、なぜか分かる。


そのまま帰ればいい。

明日また会えばいい。


たったそれだけのことなのに、胸の奥がざわざわして落ち着かない。


だめだ、と思った時にはもう遅かった。


私は振り返っていた。


人の流れの向こうで、神宮寺がまだ私を見ていた。


まっすぐで、少しだけ驚いたような顔で。


その瞬間、口が勝手に動く。


「カケル!」


呼んでしまってから、自分で固まった。


改札の音が遠くなる。


人の話し声も、足音も、全部どこかへ引いていく。


神宮寺の目が見開かれる。

その顔だけで分かった。


もう遅い。


何やってるの、私。


今のはなし。

なしにしたい。

今すぐ取り消したい。

できるわけないけど。


神宮寺は何も言わなかった。

でも、顔つきが変わった。


驚きだけじゃない。


ずっと手の届きそうで届かなかったものが、急に目の前へ来た時みたいな顔だった。


それがもう無理だった。


私は慌てて前を向く。

耳まで熱い。

首の後ろまで熱い。

たぶん今、ひどい顔をしている。


もうだめだ、と思った。


完璧に隠しきるのは、たぶん今日で終わった。


階段を上がる足取りが、少しだけ軽い。

その軽さが悔しい。


ホームに入ってきた電車が、金属の匂いを連れて風を押し出す。


制服の裾が揺れる。


胸の奥はまだ少しうるさいままなのに、不思議と嫌じゃなかった。


ほんと、最悪。


ドアが開く。


私は最後に一度だけ息を吐いて、それから電車に乗り込んだ。閉まりかけた扉のガラスに、自分の顔が映る。


分厚い眼鏡のない顔は、まだ少し見慣れない。でも、その見慣れなさごと、もう前ほど嫌いじゃなかった。


発車ベルが鳴る。


ゆっくり動き出す車内で、私は窓の向こうの景色を見た。


改札のあたりはもう見えない。

神宮寺の姿も、とっくに隠れている。


それでも、たぶん大丈夫だと思った。


明日が来る。

また会う。

たぶん私は、またうまくしゃべれない。


また可愛くないことを言って、あとで勝手に後悔する。


でも、それでいい。


私は誰にも見えない窓の外に向かって、ほんの少しだけ口元を緩めた。


ほんと、最悪。


でも――


悪くない。

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