終章:終わらぬ輪廻
黄初四年(223年)、齢77。
太尉・賈詡は、子や孫に囲まれ、洛陽の屋敷で静かに死の床に就いていた。絹の布団は温かく、香の匂いが穏やかに鼻をくすぐる。
彼は己の生涯を振り返っていた。数えきれないほどの自らの死。そして、それを乗り越えるために重ねてきた、数えきれないほどの罪。
だが、後悔はなかった。彼は乱世を完璧に生き抜いたのだ。
(これで、ようやく……)
満足感に包まれ、彼はゆっくりと最後の息を吐き出した。視界が白んでいき、子や孫たちの泣き声が遠のいていく。長い、長い旅が、ようやく終わった。
―――次に目を開いた時、彼は自らの亡骸を見下ろしていた。
肉体の枷から解き放たれた彼の意識は、ふわりと宙に浮き、まるで天上の席から地上の出来事を眺めているかのようだった。悲しみにくれる家族の姿、慌ただしく葬儀の準備を進める家臣たち。その全てが、どこか他人事のように感じられた。
やがて、彼の魂は宮殿へと引き寄せられた。皇帝・曹丕と重臣たちが、亡き賈詡に贈る諡について議論している。
「賈詡殿の功績は大きい。だが、その経歴を考えると……」
「うむ。温情や忠義といった言葉は、あの御方には似つかわしくあるまい」
長い議論の末、曹丕が最終的な決断を下した。
「―――諡は、『粛』とせよ。『粛侯』である」
その言葉が響いた瞬間、賈詡の魂はその意味を完全に理解した。「粛」――その文字が持つ意味は、「厳粛」「恭しい」「厳しい」。
(なるほど。的確な評価だ)
天から見下ろす賈詡は、静かに頷いた。それは、温情や伝統的な意味での忠誠、英雄的な美徳を連想させる諡ではない。彼の高い地位と、その献策の重みを認めつつも、その道徳性を心から称賛するものではない、中立的で専門的な評価。魏の朝廷が彼をどう見ていたか、すなわち、その能力は否定できないが、その経歴と手法ゆえに心から称賛することはできない、という複雑な視点が見事に反映されていた。
さらに数年後、彼の魂は、曹操を祀る壮麗な廟の前に立っていた。曹丕は、父と共に魏の礎を築いた功臣たちを、功績を称えて廟に合祀する儀式を執り行っていた。夏侯惇、曹仁、程昱……かつての同僚たちの名が、次々と神官によって厳かに読み上げられていく。
だが、賈詡の名は、最後まで呼ばれることはなかった。
彼は、帝国で最も鋭利で、最も危険な道具であった。そして、道具は敬意を払われることはあっても、英雄として祀られることはない。
その事実を突きつけられた瞬間、彼の魂を支えていた満足感が、音を立てて崩れ落ちた。
「私は、生き残るためだった」という言い訳が、もはや何の慰めにもならない。彼は悟る。この終わらない人生は、天が与えた試練ではない。生き残るために他者を犠牲にしすぎた罪の重さが、自分の魂をこの世に縛り付けているのだと。
ハッと我に返ると、天上の視界は消え失せていた。
代わりに目に映るのは、抜けるように青い空と、肌を刺す乾いた風。そして、自分を取り囲む、ぎらついた獣の目。
全てが始まった、あの場所。若き日の隴西の荒野。
彼の唇から、永遠の絶望がこぼれ落ちる。
「―――ああ。また、ここからか」
だが、彼の心に、これまで決してなかった微かな光が宿るのを、賈詡自身はまだ知らなかった。
(今度こそ、少しは……)
(人を、人々を守るために、この知恵を使ってみようか)
彼の果てなき旅は、新たな目的を帯びて、再び始まろうとしていた。
【了】
序章に戻り、やり直す、という話で完了です。
序章を読んで違和感を持たれた方、多かったと思いますが、実は序章は0話ではなく最終話だったのです。
ここまで読んでくださりありがとうございました!!




