第26章:皇帝の詔
太尉という最高位に上り詰めながら、生ける屍として過ごす日々。賈詡の「静かなる航海」は、数年の間、嵐に遭うこともなく続いていた。彼はただ、壮麗な屋敷という名の牢獄で、静かに寿命が尽きる日を待っていた。
だが、皇帝となった曹丕は、父・曹操が果たせなかった天下統一という野望を、未だその胸に燃やし続けていた。黄初三年(222年)、魏の国力も安定し、機は熟したと判断した曹丕は、南方の呉、そして西方の蜀に対する大遠征を計画する。
ある日、賈詡のもとに、皇帝からの勅使が訪れた。必勝の策を問うため、参内せよとの命令であった。
賈詡は、嫌な予感を覚えながら、久しぶりに宮殿の土を踏んだ。玉座に座る曹丕の目は、若き日の覇気に満ち、その野心は隠しようもなくあふれ出ていた。
「太尉よ、よく来た。朕は、父上の悲願を果たすべく、呉と蜀を同時に討つことを決意した。そなたの知恵を、朕に授けよ。いかにすれば、この戦、必勝のものとなるか」
それは、かつての後継者問題と同じ、絶体絶命の問いであった。
皇帝は、すでに遠征を決意している。その心は、誰にも覆せない。この問いにどう答えるか。その一言一句が、自らの生死を分ける。
【一度目の死】
賈詡は、自らの本分に従った。軍師として、最高の策を献じる。それが、臣下の務めだと考えたのだ。
彼は、数日間かけて両国の弱点を徹底的に分析し、常人には思いもよらない、奇想天外な策を練り上げた。それは、両国に潜ませた間者を同時に動かし、内部から同時に反乱を起こさせ、そこに魏の大軍が呼応するという、神業のような計略だった。
その策を聞いた曹丕は、最初は感嘆の声を上げた。
「見事だ、賈詡!そなたの知謀、未だ衰えずだな!」
だが、その表情はすぐに、冷たい猜疑の色に変わっていった。
(……この男の知恵は、あまりに危険すぎる。これほどの策を、なぜ今まで黙っていた?もしや、この策を成功させて軍功を独り占めにし、朕を傀儡にするつもりではないのか?)
皇帝の疑念は、一度生まれればもう消せない。
数日後、賈詡は「蜀に通じ、謀反を企てた」という、ありもしない罪を着せられ、投獄された。弁明の機会さえ与えられず、彼は獄中で静かに毒を呷った。
(そうか……。このお方は、父上とは違う。己を超える才を、何よりも恐れるのだ……)
【二度目の死】
ハッと目を開くと、そこは再び、遠征の策を問われる玉座の前だった。
一度目の死の記憶が、彼に別の道を示させた。
(策を献じてはならぬ。ならば、全力でこの遠征を止めるしかない)
彼は、床に額をこすりつけ、涙ながらに曹丕を諫めた。
「陛下、なりませぬ!今、遠征を行えば、国は疲弊し、民は塗炭の苦しみを味わいましょう!呉と蜀の守りは固く、今、戦を仕掛けるは得策ではございません!どうか、ご再考を!」
それは、国を思う忠臣としての、心の底からの叫びだった。
だが、その言葉は、皇帝の最も触れられたくない部分――彼のプライドを、深く傷つけた。
曹丕の顔が、怒りで歪んだ。
「黙れ、老いぼれが!そなたは、朕が父上にも劣る、戦を知らぬ文弱の主君だと申すか!朕の武威を、天下に示さんとするこの時に、水を差すとは何事か!」
その日のうちに、賈詡は「君主を侮辱し、軍の士気を下げた」として、官職を全て剥奪され、故郷への蟄居を命じられた。そして、その道中、曹丕が差し向けた刺客によって、ひっそりと命を奪われた。
(……駄目だ。正論も、このお方には通じぬのだ)
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