第25章:太尉の綱渡り
曹操が世を去り、建安二十五年(220年)、曹丕が魏王の位を継いだ。さらにその年の冬、彼は後漢の献帝から禅譲を受け、ついに魏王朝の初代皇帝に即位する。新しい時代が、始まったのだ。
新皇帝は、即位後すぐに論功行賞を行った。そして、賈詡は三公の一つ、太尉に任命された。それは、武官の最高位であり、人臣を極めたと言える栄誉だった。洛陽に与えられた彼の屋敷は、王宮かと見紛うほどに壮麗であった。
だが、賈詡の心に安らぎはなかった。彼は、自分が巨大な鳥かごに入れられた鳥であることを知っていた。曹丕は彼の知恵を評価し、最高の地位を与えたが、その目の奥に宿る氷のような光は、太子時代から少しも変わっていなかった。彼は、兄の仇を、決して許してはいなかったのだ。
そして、新時代の幕開けは、敗者たちの断末魔で彩られていた。
曹植を支持した者たちは、次々と要職から追われ、ある者は処刑され、ある者は左遷されていった。かつての栄華は見る影もなく、彼らは日々の命さえも危うい、絶望の淵に立たされていた。
そんな中、数人の旧曹植派の者たちが、夜陰に紛れて、賈詡の屋敷を訪ねてきた。彼らは、太子争いの際に誰にも与しなかった賈詡を、唯一頼れる最後の綱だと考えたのだ。
「太尉殿、どうか我らをお救いください!このままでは、我らは一族もろとも皆殺しにされます!陛下に、お取りなしを……!」
彼らは、賈詡の足元にひれ伏し、涙ながらに懇願した。
【一度目の死】
賈詡は、彼らを無下に突き放すことができなかった。
彼らもまた、魏に仕えた功臣である。そして、このまま粛清が続けば、いずれ魏そのものの国力を削ぐことになる。賈詡の中に、まだ国を思う臣としての心が、わずかに残っていた。
「……分かった。私から陛下に、寛大なご処置を願ってみよう。だが、期待はするな」
彼は、そう言ってしまった。わずかな同情と、太尉という自らの地位に対する過信が、彼に致命的な判断ミスをさせたのだ。
だが、そのやり取りは、全て曹丕の放った間諜によって、筒抜けであった。
数日後、賈詡は宮殿での宴に招かれた。曹丕は上機嫌で賈詡の功績を称え、自ら酒を注いで回った。
「太尉よ、そなたの働きなくして、今の朕はない。この杯を、受けるがよい」
その言葉に、賈詡は一瞬、安堵しかけた。だが、杯に口をつけた瞬間、舌先に感じた痺れるような感覚に、全身の血が凍りついた。
「へ、陛下……これは……」
「おっと、どうした太尉。顔色が悪いぞ」
曹丕は、蛇のように冷たい笑みを浮かべていた。
「近頃、旧曹植派の者たちが、そなたの屋敷に集まっているそうだな。敗残兵を集めて、何を企んでおる?朕に成り代わり、新たな派閥でも作ろうというのか」
「ち、違いま……!」
「黙れ」
曹丕の声が、氷の刃となって突き刺さる。
「兄を殺し、弟を担ごうとした裏切り者どもに情けをかけるとは……。そなたの忠誠心も、その程度であったか」
毒は、瞬く間に賈詡の全身に回った。遠のく意識の中、彼は悟った。
(このお方にとって、同情は、反逆と同義なのだ……!)
―――ハッと目を開くと、そこは壮麗な太尉の屋敷、自らの書斎だった。
窓の外が、少し騒がしい。門番が、誰かと押し問答をしているようだ。
(……来たか)
旧曹植派の者たちが、助けを求めに来たのだ。一度目の死の記憶が、彼に絶対の行動指針を示していた。
彼は、傍に控えていた家令を呼ぶと、氷のように冷たい声で命じた。
「門を固く閉ざせ。今後、誰であろうと、私的な面会を求める客は全て追い返せ。たとえ親族であろうと、だ。私の許可なく門を開けた者は、斬り捨てて構わん」
その苛烈な命令に、家令は息を呑んだが、主君の目に宿る尋常ならざる光に、ただ深々と頭を下げるだけだった。
門前で懇願していた者たちは、賈詡の冷酷な命令を聞くと、絶望の表情を浮かべてその場を去っていった。
それからというもの、賈詡は完全に世俗との関わりを断った。朝廷での公務が終われば、一目散に屋敷に帰り、誰とも言葉を交わさずに門を閉ざす。その徹底した引きこもりぶりに、都の者たちは「賈詡殿は、ご高齢で耄碌されたか」と噂した。
だが、その噂こそが、賈詡が望んだ最高の盾であった。
彼の行動は、当然、曹丕の耳にも届いていた。
「賈詡め、誰とも会わぬそうだな」
「はっ。もはや抜け殻のようでございます」
側近の報告に、曹丕は満足げに頷いた。
(それでいい。牙を抜き、爪を隠した賢者は、ただの置物よ。それならば、生かしておいてやろう)
賈詡は、再び生き残った。
だが、そのために彼が支払った代償は、あまりに大きかった。彼は、人の情けも、友情も、社会的な繋がりも、その全てを自ら切り捨てたのだ。彼は、壮麗な屋敷という名の牢獄で、ただ孤独に息をする、生ける屍となったのである。
彼の綱渡りは、まだ続いていた。
ほんと身内のゴタゴタ問題は怖いですね。
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