第24章:沈黙の献策
三度目の人生。もはや彼に残された道は、ただ一つしかなかった。
誰にも加担しない。完全に中立を保つ。いや、中立であることさえも悟られてはならない。この問題が存在しないかのように、ただ嵐が過ぎ去るのを待つ。
曹丕が助けを求めに来た時、彼は病を理由に固く門を閉ざし、会うことさえしなかった。
曹植派の者たちが接触してきても、丁重に、しかし曖昧な言葉でかわし続けた。
だが、運命は、彼に沈黙を許さなかった。
ついに、曹操自らが、賈詡を呼び出したのだ。後継者問題に悩み抜いた覇王は、この最も信頼する謀臣の意見を、どうしても聞きたかったのである。
「賈詡よ。そなたも知っての通り、我が家臣団は丕と植の件で二つに割れておる。このままでは、我が死後、魏は必ずや内乱となろう。そなたは、どう思う。正直な気持ちを聞かせよ」
絶体絶命の問いだった。
曹丕を推せば、曹操の寵愛する曹植の派閥から恨みを買う。曹植を推せば、嫡男である曹丕の派閥を敵に回す。そして、どちらを選んでも、選ばれなかった君主が帝位についた時、自分は必ず粛清されることを、賈詡は死の経験から知っていた。
かといって、「分かりませぬ」と答えれば、主君の悩みに真摯に向き合わぬ不忠者として、その場で斬られてもおかしくない。
全ての道が、死に通じている。
賈詡の額から、冷たい汗が流れ落ちた。彼の人生において、これほどの危機はなかった。
彼は、脳内で全ての選択肢をシミュレートした。そして、数えきれないほどの死のパターンの果てに、ついに究極の処世術とでも言うべき、ただ一つの活路に辿り着く。
それは、答えないことによって、答えを教えるという、神業のような一言であった。
賈詡は、深く、深く頭を垂れたまま、長い沈黙を守った。
痺れを切らした曹操が、苛立たしげに重ねて問う。
「どうした、賈詡!なぜ黙っておる!」
その時、賈詡はゆっくりと顔を上げた。しかし、その視線は曹操ではなく、虚空を見つめていた。そして、まるで独り言のように、こう呟いた。
「―――ただ、袁紹と劉表父子のことを、考えておりました」
その一言が発せられた瞬間、幕舎の空気が変わった。
曹操の顔から、苛立ちが消えた。彼は一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、やがてその言葉の意味を理解し、腹の底から湧き上がるような大笑いを始めた。
「ハッハッハッハ!そうか!そうであったな!袁紹も、劉表も……!」
袁紹も劉表も、優秀な長男がいたにもかかわらず、若い三男を溺愛した結果、家を内乱で滅ぼしていた。
賈詡は、直接的な答えを何一つ言っていない。どちらかの名前を出すことも、どちらかを批判することも、一切していない。ただ、歴史的な前例を提示しただけだ。
だが、その間接的な一言こそが、曹操に最も分かりやすく、そして誰の恨みも買わない形で、「正解」を指し示していた。曹操自身に、結論を導き出させたのだ。
「見事だ、賈詡!そなたの答え、確かに受け取ったぞ!」
この日を境に、曹操の心は定まった。ほどなくして、曹丕は正式に魏王太子に冊立された。
賈詡は、人生最大の危機を、沈黙の献策によって乗り越えた。彼は曹丕を助け、同時に曹植派の恨みを買うこともなかった。最小限の個人的リスクで、国家の安定という最大限の効果を上げる。
これこそが、彼が生涯をかけてたどり着いた、生存戦略の極致であった。
数日後、太子となった曹丕が、賈詡の屋敷を訪れた。
「此度のこと、礼を言う」
曹丕は、深々と頭を下げた。だが、その顔を上げた時、賈詡は彼の目の奥に、感謝とは違う、冷たい光が宿っているのを見逃さなかった。
「貴殿の知恵が、魏の未来を救った。その功は決して忘れぬ。……だが、」
曹丕の声が、わずかに低くなった。
「宛城の夜のことも、私は忘れぬ」
その言葉は、賈詡の心に氷の楔を打ち込んだ。
彼は、生き残った。しかし、それは決して安泰を意味するものではなかった。自らが生きるために王座へと押し上げた男は、その胸の内に、決して消えることのない怨恨の炎を宿している。
彼の「静かなる航海」は、まだ終わらない。これから先は、穏やかな凪の海ではない。氷山が潜む、極北の海を進まねばならないのだ。
曹丕の信頼を得つつも、曹丕の恨みは消えていない、という。
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