第19章:消えぬ遺恨
官渡の戦いから、七年の歳月が流れた。
曹操は北方を平定し、その威光は天に昇る龍の勢いであった。賈詡と張繡もまた、その巨大な翼の下で確固たる地位を築いていた。賈詡は曹操の傍らで常に的確な助言を与え、その信頼は日増しに厚くなっていた。張繡も官渡やその後の袁家討伐で数多の武功を挙げ、破格の領地と将軍位を与えられていた。
宛城での裏切りも、曹昂の死も、もはや遠い過去の出来事。曹操自身が水に流したのだ。誰もがそう信じ、忘れようとしていた。賈詡もまた、ようやく手に入れた安寧に、かすかな油断を覚えていたのかもしれない。覇王の許しという、絶対的な保証の上にあぐらをかいていたのだ。
建安十二年(207年)、曹操は北方の異民族・烏桓討伐のため、大軍を率いて遠征の途にあった。賈詡も張繡も、その軍に従っていた。長い行軍の道中、兵士たちが野営の準備を進める夕暮れ時のことだった。
事件は、何の予兆もなく起きた。
張繡が部下たちと談笑していると、その輪の中に、すっと一人の若者が入ってきた。曹操の次子、曹丕であった。かつての少年は、今や精悍な顔つきの青年に成長し、その瞳には父とは違う、怜悧で冷たい光が宿っていた。
曹丕は、周囲の兵士たちが畏敬の念で道を開ける中、まっすぐに張繡の前まで歩み寄ると、静かに、しかし全ての者たちの耳に届くほど明瞭な声で言った。
「―――君は私の兄を殺しておきながら、どうして平気な顔で人と会えるのか!」
空気が、凍りついた。
周囲の喧騒が嘘のように消え去り、ただ風の音だけが聞こえる。張繡の顔から血の気が引き、その表情は驚愕から恐怖へと変わっていった。七年という歳月が、まるで昨日のことのように引き戻される。許されたはずの罪が、最も鋭利な刃となって、次期君主の口から突きつけられたのだ。
【一度目の死】
その夜、張繡は震える足で賈詡の幕舎を訪れた。
「先生……私は、どうすればよいのだ。曹丕様は、私を許しておられなかった……!」
賈詡は、動揺する旧主を落ち着かせるように言った。
(曹丕はまだ若く、感情的になっているだけだ。問題はあるまい)
彼は、曹操の度量と、自らが築き上げた功績を信じすぎていた。
「ご安心ください。張繡様を許したのは、曹操様ご自身です。覇王の言葉は、この軍の絶対の法。曹丕様とて、父君の決定を覆すことなどできませぬ。何も恐れることはありません。これまで通り、忠勤に励むのです。いずれ、曹丕様の誤解も解けましょう」
それは、あまりに楽観的な、そして致命的な助言だった。
賈詡の言葉を信じた張繡は、不安を抱えながらも、これまで通りに任務に励んだ。
数日後。烏桓との激戦が始まった。張繡は、軍の一部を指揮する曹丕の配下として、最も危険な突出部への攻撃を命じられた。
「側面からの援護は、私が保証する。存分に武勇を示されよ」
曹丕のその言葉に、張繡は一縷の望みを託した。この戦で功績を挙げれば、あるいは、と。
だが、それは罠だった。
張繡軍が敵陣深くにくい込んだ瞬間、約束されていたはずの曹丕からの援護は来なかった。それどころか、退路はいつの間にか敵の別動隊に塞がれていた。張繡軍は、敵地の真ん中で完全に孤立したのだ。
「まさか……嵌められたのか!」
張繡は最後まで勇猛に戦ったが、烏桓の圧倒的な兵力の前に、彼の部隊は蹂躙され、全滅した。
その報せを聞いた時、賈詡は全身の血が凍るのを感じた。
(……甘かった!)
曹操の許しは、曹丕の私怨の前には、何の意味もなさなかった。それどころか、曹丕は父の決定を覆すのではなく、戦場の混乱を利用するという、より狡猾な方法で復讐を遂げたのだ。
そして、その復讐の刃は、当然のように賈詡にも向けられた。
「張繡将軍の部隊が孤立し、全滅したのは、軍師・賈詡が事前に敵の伏兵を見抜けなかった責である!」
曹丕の冷徹な声が、軍議の席に響き渡る。それは、あまりに理不尽な弾劾だった。だが、張繡という有力な庇護者を失った賈詡に、反論する術はなかった。古参の将軍たちは、この新参の謀略家が失脚することを、誰もが黙って見ていた。
賈詡は全ての官職を剥奪され、一兵卒として、次の戦で死ぬことが確実な、決死隊への配属を命じられた。
(覇王の許しは、未来永劫の免罪符ではない。その息子が、その跡を継ぐのだから……!)
政治の論理が、個人の激情に敗れる瞬間。その冷厳な事実を、賈詡は死の淵で思い知らされた。
―――ハッと目を開くと、そこは遠征の道中の、自らの幕舎の中だった。
外からは、兵士たちの活気ある声が聞こえてくる。まだ、あの凍てつくような言葉は、張繡に投げつけられていない。
だが、もうすぐだ。
賈詡の背筋を、冷たい汗が伝った。
(間に合わぬ……。今から張繡様に何を言っても、あの結末は変えられぬ)
曹丕の怨恨は、あまりに深く、そして彼の知謀は賈詡の想像以上に怜悧だ。張繡を生かすための策を弄すれば、今度は自分が先に「張繡と結託して次期君主を陥れようとした」として殺されるだろう。
彼の思考は、極限まで加速する。
生き残るための道は、ただ一つ。
―――張繡を見捨てる。
それは、あまりに冷酷で、非情な結論だった。共に死線を越え、自分を信じて曹操に降ってくれた旧主を、自らの手で切り捨てる。
だが、彼の脳裏で、決死隊として無残に死んでいく自らの最期がフラッシュバックする。
(すまぬ、張繡様……。貴殿の命と、私の命……。私は、私の命を選ぶ)
もはや、彼の心に迷いはなかった。
やがて、幕舎の外が急に騒がしくなった。曹丕が、張繡にあの言葉を投げつけたのだ。
その夜、顔面蒼白となった張繡が、案の定、賈詡の幕舎に駆け込んできた。
「先生!助けてくれ!私はどうすれば……!」
その必死の形相に、賈詡は一度だけ、固く目を閉じた。そして、再び目を開けた時、その瞳には能面のような、一切の感情が消え失せていた。
彼は、震える張繡から、ゆっくりと一歩、距離を取った。そして、こう告げた。
「……これは、張繡様と曹丕様、お二人の問題。曹昂様の件は、私が解決できることではございませぬ。私には、何も言うことはできません」
その言葉が、事実上の死刑宣告であったことを、張繡は瞬時に理解した。賈詡に見捨てられた。この軍で、唯一頼りにしていた男に。
彼の顔から、懇願の色が消え、絶望が浮かび上がった。
「……そうか。そうであったな。先生を、巻き込むわけにはいくまい」
張繡は、力なくそう呟くと、ふらつく足取りで幕舎を去っていった。その背中を、賈詡はただ黙って見つめていた。
数日後。
史実には「遠征の途中で病死した」と、ただ一行だけが記されることになる男、張繡は、自らの幕舎で、剣を喉に突き立てて自害した。
次期君主からの、決して消えることのない怨恨。そして、最後の頼みの綱であった賈詡からの、冷酷な拒絶。その二つが、彼の心を完全に折ったのだ。
賈詡は、旧主の亡骸を前に、静かに目を伏せた。
彼は生き残った。元の主君を見殺しにすることで。
その事実が、鉛のように重く彼の心にのしかかる。彼は誰にも何も告げず、踵を返すと、自らの幕舎へと戻った。
幕舎に入り、乱暴に垂れ絹を下ろす。外界から完全に隔絶された、自分一人の空間。そこで初めて、彼が必死に抑えつけていた仮面が、音を立てて崩れ落ちた。
(これが、正解だった)
彼は心の中で繰り返した。
(生き残るための、唯一の解だったのだ。感傷は、死を招くだけだ)
そう、頭では分かっていた。何度も何度も、自分にそう言い聞かせた。だが、脳裏に焼き付いて離れない光景があった。
曹操に降ることを決めた日、不安に揺れる張繡が、最後に自分に言った言葉。
『……先生の言葉を信じよう。もし、曹操が我らを殺すというのなら、その時は潔く死のう』
あの時、あの男は、自らの命運の全てを、賈詡という男に預けてくれたのだ。その絶対的な信頼を、自分は今日、踏みにじった。裏切った。
「……あ……」
喉の奥から、押し殺したような声が漏れた。堪えきれなくなった何かが、熱い塊となって胸からせり上がってくる。
賈詡は、その場に崩れるように膝をついた。顔を両手で覆う。
一筋、また一筋と、指の間から涙が溢れて止まらなかった。
声は、出なかった。ただ、彼の肩だけが、誰にも見られることなく、静かに、激しく震えていた。
自らが生きるために、友を殺した。その罪の重さを、彼の魂は決して忘れることはないだろう。
どれほどの時間が経ったか。
やがて、震えが収まった時、賈詡はゆっくりと顔を上げた。その目から涙は消え、代わりに、底なしの闇よりも深い、氷のような静寂が宿っていた。
彼はもう、二度と泣かないだろう。
この涙と共に、彼の内に残っていた最後の人間らしい感情は、全て死んだのだから。
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