第18章:烏巣の賭け
曹操に仕えるようになってから、賈詡は自らの才を巧みに隠し、目立たぬように振る舞っていた。彼は新参者であり、何より曹昂を死に至らしめた過去を持つ。古参の重臣たちの多くが、彼を警戒し、完全には信頼していないことを肌で感じていたからだ。波風を立てず、ただ息を潜める。それが、新たな主君のもとで生き残るための、彼なりの処世術であった。
そして建安五年(200年)、天下分け目の官渡の戦いが始まった。
戦況は、曹操軍にとって圧倒的に不利だった。兵力、物資、その全てにおいて袁紹軍が上回り、戦いは長期化。曹操軍の陣営には、焦りと疲弊、そして敗北の予感が暗い影のように漂い始めていた。
そんな絶望的な状況のさなか、事件は起きた。
ある夜、袁紹軍の参謀であった許攸が、陣営に降伏を求めてきたのだ 。彼は、袁紹軍の兵糧が全て烏巣という場所に集積されており、その守りが手薄であるという、信じがたいほどの機密情報をもたらした 。
深夜に開かれた軍議は、激しい疑念と興奮に包まれた。
「罠です!間違いなく我らをおびき出すための罠にございます!」
「そうだ!この絶好のタイミングで敵の参謀が降ってくるなど、あまりに話が出来すぎておる!」
曹操の歴戦の将軍たちのほとんどが、この降伏を偽りだと断じ、猛反対した 。許攸は貪欲な男として知られており、その言動は信用に値しない、と。
【一度目の死】
賈詡は、その場の空気に呑まれていた。
(確かに、危険すぎる賭けだ……)
新参の自分が、ここでしゃしゃり出て万が一策が失敗すれば、全ての責任を負わされ、即座に処刑されるだろう。曹操に仕えるという正解を選んだのだ。この安定を、自ら手放すような真似はすべきではない。
彼は、策の採用に慎重な姿勢を見せた 。
「皆様の言う通り、これは罠である可能性も十分に考えられます。まずは許攸の真意を、慎重に見極めるべきかと存じます」
それは、誰からも恨まれず、波風を立てない、完璧な処世術に則った発言だった。
他の重臣たちも皆、同様の意見だった。たった一人、荀攸だけが「これは好機やもしれませぬ」と呟いたが、その声は猛烈な反対意見の前にかき消された。
曹操は、信頼する将軍たちの総意を前に、ついに決断を下せなかった。好機は、指の間から砂のようにこぼれ落ちていった。
結果は、悲惨だった。
兵糧の尽きた曹操軍は、袁紹の圧倒的な物量の前に戦線を維持できず、総崩れとなった。賈詡もまた、敗走する兵士の群れに呑み込まれ、背後から迫ってきた袁紹軍の騎馬隊に、なすすべもなく斬り捨てられた 。
(……馬鹿な)
刃に貫かれ、冷たい地面に倒れながら、彼は己の過ちを悟った。
(私は、主君を間違えなかった。だが、主君への仕え方を、間違えたのだ……!)
危険を冒してでも、勝利への活路をこじ開けることこそが、軍師の役目。自らの保身のためにそれを怠った結果、主君も、自分も、全てを失った。これでは、何のために曹操を選んだのか分からない。
―――ハッと目を開くと、そこは再び、許攸が策を述べ終えた直後の、殺気立った軍議の席だった。
将軍たちの猜疑に満ちた視線が、許攸と、そして彼をどう評価するか分からない自分たちに突き刺さっている。
もう、間違えない。
「―――この策、受け入れるべきです」
凛とした声が、幕舎の沈黙を破った。声の主は、賈詡であった。
将軍たちの驚愕の視線が、一斉に彼に注がれる。古参の将の一人が、吐き捨てるように言った。
「貴様、新参者が何を言うか!罠に決まっておろうが!」
「罠ではありませぬ」賈詡は静かに首を振ると、隣に座っていた荀攸に目配せした。荀攸もまた、賈詡の覚悟を察し、静かに頷き返す。
賈詡は、玉座に座る曹操だけを見据えて続けた。
「この策を受け入れなければ、我らに勝機は万に一つもございません 。兵糧は尽きかけ、兵は疲弊している。このままでは、我らは干上がるのを待つだけです。許攸が今この時に来たのは、袁紹軍の内紛により、彼の家人が罪に問われたからに他ならない。これは、天が我らに与えた唯一の好機なのです」
荀攸もまた、力強く賈詡の言葉を後押しした 。
「賈詡殿の言う通りです。危険を冒さねば、勝利は得られませぬ!」
しかし、その必死の進言は、将軍たちの疑心暗鬼に火を注ぐだけだった。
「黙れ!貴様ら、もしやこの裏切り者と通じているのではないか!」
一人の将軍が激昂し、ついに腰の剣に手をかけた 。殺気が、肌を刺す。
だが、賈詡は一歩も引かなかった。彼はただ、曹操の目をまっすぐに見つめ続けた。
(この男は、ただの臆病者の集まりではない。私の言葉の真意を、その裏にある勝機を、必ず見抜いてくれるはずだ)
それは、自らが選び抜いた主君の「器」に対する、絶対的な信頼の証であった。
長い、長い沈黙が流れた。
やがて、曹操はゆっくりと立ち上がると、卓を強く叩き、腹の底から笑った。
「―――よし!決めたぞ!」
その声は、全ての疑念を吹き飛ばす、覇王のそれに違いなかった。
「この賭け、乗ってやろうではないか!これぞ天が我に授けた好機よ!」
曹操が決断を下すと、すぐさま軍議は奇襲部隊の編成へと移った。だが、そこで新たな問題が持ち上がる。
「お待ちください、殿!」古参の将である曹洪が進み出た。「奇襲には、一騎当千の騎馬兵が不可欠。しかし、虎豹騎をはじめとする精鋭を全て引き抜いてしまえば、この本陣の守りが手薄になります。万が一、袁紹の本隊に攻め込まれれば、我らはひとたまりもありませぬぞ!」
その懸念はもっともだった。他の将軍たちも不安げに頷く。奇襲か、防衛か。両立しがたい二つの難題に、幕舎の空気は再び重くなった。
その時、これまで黙って議論を聞いていた一人の男が、静かに進み出た。張繡であった。彼は曹操の前に片膝をつくと、力強く言い放った。
「曹操様。その役目、我らにお任せいただきたい」
一同の視線が、驚きと共に張繡に注がれる。彼は構わず続けた。
「我らが涼州兵の武勇、とりわけ騎馬の扱いにかけては、天下に並ぶ者なしと自負しております。かつては曹操様ご自身を、この腕で追い詰めたこともございます。我らであれば、虎豹騎に勝るとも劣らぬ働きをお約束いたしましょう!」
その言葉には、かつての敵としての誇りと、新たな味方としての覚悟がこもっていた。
曹操は、その申し出に目を見開くと、次の瞬間、満面の笑みを浮かべた。
「ハッハッハ!見事だ、張繡!そうだ、忘れていたぞ!余の息子の命を奪い、典韋を討ち取った、その天下無双の騎馬隊が、今や我が軍にいることをな!」
その言葉は、普通ならば皮肉に聞こえるはずだった。だが、曹操の声には、過去の恨みなど微塵も感じられず、ただ純粋に、強力な戦力を手に入れたことへの喜悦だけが満ちていた。
「許す!」と曹操は叫んだ。「この奇襲の先鋒、貴様に任せる!この戦で功を挙げ、貴様の忠誠を天下に示してみせよ!」
賈詡もまた、静かに曹操へ進言した。
「曹操様の英断、感服いたしました。張繡殿の涼州騎馬隊は、長距離の奇襲戦にこそ、その真価を発揮いたします。何より、降伏したばかりの彼らが先鋒に立つことは、袁紹の計算を狂わせましょう。これ以上の策はございますまい」
こうして、曹操自らが総大将となり、その先鋒を張繡の涼州騎馬隊が務めるという、誰も予想しなかった奇襲部隊が編成された。
烏巣への道は、闇に包まれていた。だが、張繡とその部下たちの心は、かつてないほど燃え上がっていた。
「聞け、野郎ども!」馬上で張繡が檄を飛ばす。「俺たちは一度、曹操様と戦った身だ!ここで忠義を見せずして、いつ見せる!俺たちの本当の強さを、古参の連中に見せつけてやれ!」
「「「オオオオオッ!!」」」
涼州兵たちの雄叫びが、夜の闇に響き渡った。
そして、烏巣の守備陣に辿り着いた時、彼らはまさしく神速の突風と化した。
油断しきっていた袁紹軍の守兵たちが異変に気づいた時には、すでに涼州騎馬隊の蹄が彼らの陣営を蹂躙していた。かつて曹操軍をあれほど苦しめた張繡の騎馬突撃は、あまりに鋭く、あまりに重かった。守備兵の抵抗は瞬く間に粉砕され、悲鳴を上げる間もなく兵糧の山に火が放たれる。
曹操は、先陣を切って敵を蹴散らす張繡の勇猛な戦いぶりを、後方から満足げに眺めていた。
「見ろ。あれが涼州の狼だ。敵に回せば恐ろしいが、味方とすれば、これほど頼もしいものはない」
夜空を焦がす烏巣の炎を遠くに眺めながら、賈詡は静かに息をついた。
彼は、自らの命だけでなく、主君の、そしてこの国の運命を救ったのだ。そして、この戦における張繡軍の獅子奮迅の働きは、賈詡の献策の正しさを何よりも雄弁に証明した。この日を境に、彼らは単なる「新参の客将」ではなく、曹操が最も信頼する、かけがえのない腹心の一人として、その地位を不動のものとしたのである。
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