第15章:天下の岐路
宛城での神算鬼謀から二年。建安四年(199年)、中原の空気は張り詰め、乾いた風は鉄の匂いを運んでいた。北方の二大巨頭、袁紹と曹操の対決は、もはや誰の目にも避けられないものとなっていた。両陣営は来るべき決戦――官渡の戦いに備え、味方を増やすべく各方面に盛んに働きかけていた。
そして、その触手は、荊州の北の守り手として独自の勢力を保っていた張繡のもとへも伸びてきた。
先に使者を送ってきたのは、四世三公の名門、袁紹であった。その使者は居丈高に、袁紹の威勢がいかに強大であるかを説き、味方につくよう求めてきた。兵力で言えば、袁紹は曹操の数倍を誇る。誰もが、この戦の勝敗は決したも同然だと考えていた。一方、宿敵である曹操は袁紹との決戦準備に追われ、張繡へ使者を送ってくるような余裕は見せなかった。
軍議の席で、張繡はほとんど決心したような口ぶりで言った。
「先生、どう思う。袁紹につくのが、やはり筋だろう」
居並ぶ将軍たちも、異口同音にそれに賛同する。
「兵力差は歴然。勝ち馬に乗るのが当然です」
「曹操には散々煮え湯を飲まされた。この機に袁紹殿の力をお借りして、積年の恨みを晴らすべきですぞ!」
幕舎の中は、完全に袁紹支持の熱気に包まれていた。
賈詡は、その空気を黙って聞いていた。彼の脳裏には、この選択をしなかった場合の、別の死の光景が鮮明に焼き付いていた。
【過去の死の記憶】
―――彼は今の状態に死に戻る前、劉表との同盟を頼みとし、曹操と徹底抗戦をした道を選んだことがあった。
そして数年後、賈詡が最も恐れていた事態が訪れた。―――劉表の病気と死。
後ろ盾を失い、荊州が内乱に陥った瞬間、曹操が牙を剥いた。もはや何の障害もなくなった覇者の大軍の前に、張繡軍はなすすべもなく蹂躙された。
(駄目だ……!劉表殿の寿命という、不確定なものに我らの命運を賭けてはならなかったのだ!)
同盟とは、あくまでも強力な君主が生きていてこそつながるもの。より確実で、より強大な力に身を寄せなければ、この乱世は生き残れないのだ、と。―――
「……先生?どうかなされたか」
張繡の訝しむ声に、賈詡はハッと我に返った。彼はゆっくりと顔を上げると、熱気に満ちた幕舎の空気を肯定するように、静かに、そして重々しく口を開いた。
「―――皆様の申される通り。我らが味方すべきは、袁紹殿をおいて他にありませぬ」
その言葉に、張繡は満足げに頷いた。
「うむ、先生もそう思われるか!」
「はい」と賈詡は続けた。「曹操との因縁は深く、今さら我らが降ったとて、いずれ必ず粛清されましょう。そして何より……」
賈詡は一度言葉を切り、一同を見回した。
「我らの後ろ盾である劉表殿は、おそらくお身体が弱っておられる。万が一のことがあれば、我らは完全に孤立いたします。人の命という、最も不確かなものに我らの命運を預けるわけにはいきませぬ」
賈詡は、死の経験から得た確信を、さも当然の理屈であるかのように語った。
「その点、袁紹殿の勢力は磐石。河北の四州を完全に押さえ、その兵力は曹操を遥かに凌駕しております。この戦、十中八九、袁紹殿の勝利は揺るぎますまい。巨大な影に身を寄せることこそ、我らが生き残る唯一の道にございます」
それは、誰の目にも明らかな「正論」だった。兵力差、過去の因縁、そして将来のリスク。全てを考慮すれば、袁紹につくことこそが最も合理的で、最も安全な選択に見えた。将軍たちは「さすがは賈詡先生だ」と口々に称賛した。
こうして、張繡は賈詡の進言を全面的に受け入れ、袁紹の使者と固い同盟の約束を交わした。軍の士気は天を衝くほど高まった。最強の勢力と手を結び、宿敵・曹操を討つ。その輝かしい未来を、誰もが信じて疑わなかった。
だが、賈詡だけが、その熱狂の輪から一歩引いた場所で、冷たい瞳をしていた。
(本当に、これでよかったのか……?)
論理は完璧なはずだった。死の経験から導き出した、最善の選択。
しかし、彼の心の奥底で、名状しがたい不安が黒い靄のように渦巻いていた。それは、圧倒的な兵力を持ちながら、優柔不断で、家臣団をまとめきれていないという袁紹自身の器量に対するかすかな疑念だったのかもしれない。
彼は、その小さな違和感を、論理の力で無理やりねじ伏せた。
今はただ、自らが選んだ巨大な影の下で、嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
彼の新たな選択が、どのような死の運命を自分にもたらすのか。それを知るのは、まだ少し先のことである。
袁紹と同盟を結んでしまいました。
歴史を知る我々からすると間違いなんでしょうけど、当時にいたらこれが正解だと思いますよね。
本作を楽しんでいただけましたら、ぜひ評価で応援をお願いいたします。
よい評価をいただけると執筆のモチベーションがあがります!




