第14章:諫言と敗走
宛城から敗走していく曹操軍の背中を見ながら、張繡軍の陣営は勝利の歓声に包まれていた。
「見たか!あの曹操を打ち破ったぞ!」
「これも全て、賈詡先生のおかげだ!」
勝利に酔いしれた張繡は、興奮した面持ちで賈詡の手を取った。
「先生、見事な計略であった!今こそ追撃の時だ!ここで曹操の首を取れば、我らは一躍、天下に名を轟かすことができる!」
だが、賈詡の表情は、勝利に沸く周囲とは対照的に、冷たく冴えわたっていた。彼は張繡の言葉をさえぎり、静かに首を振った。
「なりませぬ、将軍。曹操ほどの男が、このまま無策で逃げるはずがありません。必ずやどこかに伏兵を潜ませております」
しかし、大勝利を収めたばかりの張繡に、その冷静な言葉は届かなかった。
「何を臆病なことを言うか!好機は今しかないのだ!先生が反対するなら、私自ら兵を率いて追撃するまでだ!」
そう言うと、張繡は賈詡の制止を振り切り、意気揚々と手勢を率いて出撃してしまった。
その背中を見送りながら、賈詡は深いため息をついた。
(主君を御することの、なんと難しいことか……)
自らの策が成功しすぎたことが、逆に新たな危機を招いてしまった。彼は、主君の感情を操ることはできても、その暴走までを完全に制御することはできないのだと、改めて痛感させられた。
そして、賈詡の予言は、恐ろしいほど正確に的中した。
追撃を開始した張繡軍は、しばらく進んだ先の隘路で、曹操軍の完璧な伏兵に遭遇し、散々に打ち破られてしまったのである。張繡は命からがら、ほうほうの体で宛城へと逃げ帰ってきた。
大敗を喫し、意気消沈して戻ってきた張繡は、自らの過ちを恥じ、賈詡の前に頭を垂れた。
「先生の言うことを聞かなかった、私の過ちだ。もはや、我らに勝ち目はない……」
だが、そんな張繡に対し、賈詡は驚くべき言葉を口にした。
「将軍、今こそ、再び追撃の時です」
「な……何を言うか、先生!」張繡は愕然として顔を上げた。「また伏兵がいたらどうするのだ!兵たちは疲弊しきっている!」
周囲の将軍たちも、「無茶だ」「我らを死なせる気か」と口々に反対の意を示した。
だが、賈詡は揺るがなかった。
「もうおりませぬ」と彼は断言した。「一度伏兵を成功させた敵は、勝利に油断し、二度目の備えを怠るもの。そして何より、曹操自らが殿軍(最後尾の部隊)を率いて追撃に備えていたのは先ほどの戦いまで。すでに曹操はしんがりを離れているはず。その本隊さえ避ければ、手薄になった後衛部隊を打ち破るのは容易いことです」
その言葉には、絶対的な確信がこもっていた。張繡は、悪魔か神の囁きを聞くかのように、賈詡の目に呑み込まれた。彼は迷いの末、ついに決断する。
「……わかった。先生を信じよう。全軍、再び出撃する!」
兵士たちの士気は低く、半信半疑のまま再び追撃の途についた。先ほどの敗走の悪夢が、彼らの足取りを重くしていた。
だが、数里進んだ先で、彼らが目にした光景は賈詡の言葉を裏付けていた。
曹操軍の後衛部隊の陣営は、煌々と篝火が焚かれているものの、その守りは無きに等しかった。見張りの兵はほとんどおらず、幕舎の中からは勝利を祝う兵士たちの騒がしい声や、高らかな笑い声が聞こえてくる。鎧を脱ぎ捨て、酒を酌み交わしている者さえいた。先ほど自分たちを屠った精兵の姿は、そこにはなかった。
「……信じられん。先生の言う通りだ」
張繡は息を呑んだ。そして、鞘から静かに剣を抜き放つと、天に掲げた。
「全軍、突撃!曹操軍を一人残らず殲滅せよ!」
鬨の声と共に、張繡軍は雪崩を打って油断しきった敵陣へと襲いかかった。
「て、敵襲!なぜ張繡がここに!」
「馬鹿な!奴らは敗走したはず!」
曹操軍の後衛部隊は、全く備えをしていなかった。武器を取る間もなく、酒宴の席は血の海と化す。張繡は先ほどの雪辱を晴らすかのように、馬上で槍を振るい、敵兵を次々と屠っていく。
抵抗らしい抵抗もなく、曹操軍は完全に崩壊し、潰走を始めた。張繡軍はそれを執拗に追撃し、多大な戦果を挙げた。
意気揚々と宛城に引き上げてきた張繡は、もはや賈詡を人間ではなく、神か悪魔のように見ていた。彼は賈詡の前に立つと、深々と頭を下げた。
「先生……。貴方の神算鬼謀、恐れ入った」
賈詡は、ただ静かにそれを受け入れた。
敗戦の淵から一転して大勝をもたらしたその手腕は、張繡軍の将兵たちの心に、賈詡という男への絶対的な信頼と、同時に畏怖の念を深く刻み込んだ。その名は、単なる智者ではなく、戦の勝敗そのものを掌で転がす恐るべき存在として、天下に知れ渡り始めたのである。
大勝利です!まさに天才軍師。
戦略レベルでも戦術レベルでも能力の高さを感じます。
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