第12章:英雄の壁
「曹操め……我らをなぶりものにする気か!」
幕舎の中、張繡は怒りに全身を震わせ、今にも剣を抜き放ち、曹操の宿舎へ斬り込みかねない勢いであった。賈詡の新たな、そして真の戦いが、今始まろうとしていた。
【一度目の死】
「お待ちください、将軍!」
賈詡は、激昂する張繡の前に立ちはだかった。
(今は耐える時だ。ここで事を構えれば、我らに勝ち目はない)
それが、賈詡の冷静な判断だった。彼はあらゆる言葉を尽くして張繡を諌めた。
「今は屈辱に耐えるのです。曹操はすぐにここを去ります。軽挙妄動は、我らを破滅させるだけですぞ!」
「黙れ!」張繡は吼えた。「貴様の策で降伏した結果がこれだ!俺の叔母が奪われ、兵たちは侮辱されている!それでも耐えろと言うのか!」
「耐えるのです!」賈詡も声を張り上げた。「感情に任せた戦に、勝利はありませぬ!全てを失うだけです!」
だが、賈詡の必死の説得も、怒りに燃える張繡の耳には届かなかった。
「もう貴様の指図は受けん!俺は俺の誇りに従う!」
張繡はそう吐き捨てると、賈詡を振り払い、幕舎を飛び出していった。
「者ども、出陣の支度をせよ!曹操の首を獲るぞ!」
その号令に、同じく屈辱を味わっていた将兵たちは、鬨の声を上げて応じた。もはや誰にも、この激情の奔流を止めることはできなかった。
賈詡は、なすすべもなく立ち尽くした。
(終わった……)
軍師の言葉が届かなくなった軍は、もはやただの烏合の衆だ。そして、軍師は自らが乗る船が沈むと知っていても、そこから逃れることは許されない。彼は静かに覚悟を決め、指揮を執るために張繡の後を追った。
張繡軍の奇襲は、怒りに任せた無謀なものではあったが、しかし、その奇襲は当初、驚くほどの成功を収めた。
賈詡が予測した以上に、曹操軍は勝利に油断し、完全に弛緩しきっていたのだ 。張繡軍の精鋭が夜陰に紛れて突撃すると、酒に酔っていた曹操軍の兵士たちはなすすべもなく斬り伏せられ、陣営は一瞬で大混乱に陥った。
「いけるぞ!曹操の本陣は目前だ!」
張繡は自ら先頭に立ち、敵兵を蹴散らしていく。
だが、その快進撃は、曹操の本陣を守る最後の砦の前で、突如として停止した。
鬼神が、そこに立っていた。
猛将・典韋である。彼は数十人の親衛隊と共に、まるで城壁のように張繡軍の前に立ちはだかり、凄まじい武勇でその猛攻を一身に受け止めていた 。
さらに、混乱の中からいち早く事態を立て直した若武者がいた。曹操の長子・曹昂である 。彼は手勢をまとめると、側面から張繡軍に猛然と反撃を仕掛けてきた。
典韋という不動の「盾」と、曹昂という鋭利な「矛」。
この二人の傑物の存在が、戦いの流れを完全に変えてしまった。賈詡の計略なしでは、この英雄たちを打ち破ることはできなかったのだ。
勢いを失った張繡軍は、再編された曹操軍の反撃に遭い、瞬く間に包囲され、切り刻まれていく。
「なぜだ!あと一歩だったのだ!」
張繡は最後まで奮戦したが、その武勇も虚しく、ついには無数の槍に体を貫かれた。
本陣で必死に兵をまとめようとしていた賈詡もまた、押し寄せる敵兵の波に呑み込まれた。
(そうか……。敵の油断を突いても、敵の英雄を殺しきれねば、意味がないのだ……!)
主君の激情を止められなかっただけでなく、敵の個の力を計算に入れなかった己の甘さ。それを痛感しながら、賈詡は新たな教訓をその魂に刻み込んだ。
お二人には活躍してもらいました!
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