第11章:緩やかな死
劉表との同盟を成功させ、南方の憂いを断った張繡軍であったが、息つく暇もなく、最大の脅威が北から迫っていた。建安二年(197年)、中原の覇者・曹操が、地平線を埋め尽くすほどの大軍を率いて、宛城へと侵攻してきたのである。
城壁の上から、整然と進軍してくる曹操軍の威容を目の当たりにし、張繡軍の将兵たちは言葉を失った。兵の数、装備の質、士気の高さ、その全てが自分たちを圧倒していた。
張繡はゴクリと唾を飲み込み、傍らに立つ賈詡に問うた。
「先生……どうすべきだ」
「……」
賈詡は黙して答えなかった。彼の脳裏では、無数の選択肢が凄まじい速さで計算されていた。
「戦えば、いずれは我らが滅びましょう。国力、兵力、全ての面で劣っております」
賈詡は、最も合理的な、しかし最も受け入れがたい結論を口にした。
「……降伏するしか、道はありますまい」
「降伏だと!?」
張繡は激昂した。「劉表殿との同盟を成功させた我らが、戦わずして膝を屈するなど、武人の恥!それに、曹操は我らを許すだろうか?」
「許します」と賈詡は断言した。「曹操は今、北の袁紹との決戦を控えております。我らのような小勢力を無駄な血を流して滅ぼすより、降伏させて背後の憂いを断つ方が、彼にとって遥かに利が大きい。必ずや我らを手厚く遇するでしょう」
それは、完璧な状況分析だった。だが、理屈では割り切れないのが、人の心というものだ。
【一度目の死】
「断る!」
張繡は、賈詡の進言を一蹴した。「劉表殿という強力な後ろ盾を得た今、我らはもはや孤立無援ではない!戦わずして降伏するなど、死んでもできん!誇りを失って生き永らえるくらいなら、戦い抜いてみせる!」
その決意に、劉表との同盟成功で自信を深めていた将軍たちも同調した。
「そうだ、荊州の兵が我らを助けてくれる!」
「我らの武勇、曹操軍に見せつけてやりましょう!」
陣営の空気は、完全に主戦論に支配されていた。賈詡の冷静な分析は、彼らの熱狂の前にはあまりに無力だった。
(馬鹿な……!同盟とは、絶対的な保証ではない。劉表殿がいつまで我らを助けてくれるか……。これは緩やかな集団自殺だ!)
賈詡は必死に彼らを諌めようとしたが、その声は誰の耳にも届かなかった。
しかし、戦いの序盤は、張繡の楽観論が正しかったかのように見えた。
賈詡は渋々ながらもその知謀の限りを尽くし、張繡もまた勇猛に戦った。宛城の地理的利点を活かし、劉表からの援軍との連携も見事に決まり、曹操軍の猛攻を何度も撃退してみせたのである。この善戦に、張繡軍の士気は天を衝くほど高まった。
「見たか先生!戦えば勝てるのだ!」
得意満面の張繡に、賈詡は何も答えられなかった。勝っている。しかし、確実に消耗している。彼の目には、この小さな勝利の先に待つ、暗い未来が見えていた。
戦いは、なんと10年に及んだ。
局地的な勝利は、常に張繡軍のものだった。しかし、曹操は敗れても敗れても、まるで尽きることのない泉のように、兵士と物資を次々と前線に送り込んでくる。一方、張繡軍の力は、勝利の度に確実に削られていった。兵は傷つき、疲れ、城の備蓄は底をつき始めていた。
そして、運命の日が訪れる。建安十三年(208年)。
荊州から届いた一通の急報が、張繡軍の最後の希望を打ち砕いた。
「―――劉表殿、病により急死」
その報せが陣営を駆け巡った瞬間、兵士たちの顔から血の気が引いた。賈詡が最も恐れていた事態だった。劉表の後を継いだ彼の息子たちは、とても曹操に対抗できる器ではなく、荊州はあっという間に曹操の手に落ちてしまった。
張繡軍は、完全に孤立した。後ろ盾を失い、補給路を断たれた、ただの籠城軍となったのだ。
曹操は、この好機を見逃さなかった。
荊州を平定した彼が、全勢力を傾けて宛城に最後の大攻勢を仕掛けてきた。数年にわたる消耗で疲弊しきっていた張繡軍に、もはやそれを押しとどめる力は残っていなかった。
城壁は破られ、市街は火の海と化した。
「もはやこれまでか……!」
張繡は最後まで奮戦したが、ついには敵兵の刃に倒れた。本陣で指揮を執っていた賈詡もまた、乱戦の中で命を落とした。
胸を貫く槍の痛みの中、彼の脳裏に数年前の光景が蘇る。
(やはり……あの時、降伏すべきだったのだ……。どんなに強固な同盟も、相手の当主一人の死で崩れ去る。他者に依存した戦略は、砂上の楼閣に過ぎなかったのだ……)
誇りを守るための戦いは、結局、全てのものを失うだけの、最も愚かな道だったのである。
ハッと目を開くと、そこは曹操軍の侵攻を前に、軍議を開いている城壁の上だった。
「先生……どうすべきだ」
隣には、先ほどと同じ問いを発する張繡がいる。数年にわたる無益な戦争の記憶、劉表の死がもたらした絶望、そして自らの過ちへの痛烈な後悔が、生々しく蘇る。
(もう、間違えない)
賈詡は、張繡の目をまっすぐに見据えた。そして、以前よりも遥かに強く、重い口調で告げた。
「将軍。戦えば、我らは数年、持ちこたえるやもしれません。しかし、劉表殿が亡くなれば、我らは必ず滅びます」
「なっ……劉表殿が亡くなるだと?縁起でもないことを!」
「人の命は、天にしか分かりませぬ。我らの命運を、他人の寿命に委ねるような戦をしてはなりませぬ。それは戦略ではなく、ただの博打です」
彼は続けた。
「生き残るのです。自らの力で、生き残って、次の機会を待つのです。降伏は、敗北ではございません。未来の勝利のために、今の屈辱に耐える、高度な『戦略』なのです。曹操は必ず我らを受け入れます。私がこの地獄の数年間を賭して、お約束いたします」
その言葉には、同盟の脆さと人の死という不確定要素を骨の髄まで味わって死んだ者だけが持つ、絶対的な覚悟と真実味がこもっていた。張繡は、賈詡の鬼気迫る表情に呑まれ、しばらく黙り込んだ後、ついに重々しく頷いた。
「……わかった。先生を、信じよう」
こうして張繡は、賈詡の進言を受け入れ、戦わずして曹操に降伏した。
事態は賈詡の計算通りに進んだ。曹操は張繡の降伏を快く受け入れ、彼の地位を安堵し、宛城に無血入城を果たした。兵士たちは一人の犠牲も出すことなく、宛城には束の間の平和が訪れた。
だが、賈詡だけは警戒を解いていなかった。戦という直接的な死は回避できた。しかし、乱世の覇者の傍らには、また別の形の、より陰湿な死の罠が常に口を開けていることを、彼は知っていた。
その予感は、最悪の形で的中することになる。
宛城に滞在中、好色で知られた曹操は、張繡の亡き叔父・張済の未亡人であった鄒氏の美貌に目をつけ、彼女を強引に自らの側室としてしまった。
その報せを聞いた時、張繡の顔は怒りで真っ赤に染まった。一族の女を奪うことは、この時代、何よりの侮辱であった。
「曹操め……我らをなぶりものにする気か!」
張繡は剣の柄に手をかけ、今にも曹操の宿舎に斬り込みかねない勢いだった。
賈詡の新たな、そして真の戦いが、今始まろうとしていた。
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