第10章:南への布石
荊州の宛城。叔父である張済の軍勢を継いだばかりの張繡は、賈詡の来訪を心から歓迎した。彼は段煨とは違い、自らの地盤がまだ弱いことを自覚しており、賈詡のような高名な軍師の助言を切実に求めていた。
「先生!よくぞお越しくださった。これからは、貴方の知恵を存分にお貸しいただきたい!」
張繡のまっすぐな目に、賈詡はひとまずの安堵を覚えた。この男は、少なくとも嫉妬で部下を殺すような器量の小さい人間ではなさそうだ。
しかし、当時の張繡軍が置かれた状況は、極めて不安定であった。彼らが拠点とする宛城は、荊州の牧である劉表の領地を半ば奪い取った形となっており、両者の間には絶え間ない緊張が走っていた 。
【一度目の死】
賈詡はまず、目の前の脅威である劉表との戦いに全力を注ぐべきだと考えた。彼は自身の知謀を駆使し、局地的な戦闘で何度か劉表軍を退けることに成功する。だが、それは根本的な解決にはならなかった。劉表は荊州全域を支配する大勢力。兵力も物資も、張繡軍とは比べ物にならない。戦いは泥沼化し、張繡軍は日増しに疲弊していった。
この状況を打開するため、賈詡は起死回生の一手を打つ。北方の覇者・曹操との同盟である。
(劉表と戦いながら、曹操を味方につける。これぞ合従連衡の策)
だが、その目論見はあまりに甘かった。曹操からの使者がもたらした返答は、同盟ではなく、事実上の降伏勧告だった。
「貴殿らが、我が軍の指揮下に入るというのであれば、劉表との戦に力を貸してもよい」
傲岸不遜な要求に、張繡は激怒した。
「ふざけるな!我らを属国扱いする気か!」
賈詡も、この屈辱的な条件を飲むことはできなかった。交渉は決裂。
その結果、張繡軍は最悪の事態に陥った。南の劉表、北の曹操という、二大勢力を同時に敵に回してしまったのだ。もはや、なすすべはなかった。二方向から押し寄せる大軍の前に、張繡軍はなすすべもなく蹂躙され、壊滅した。
逃げ惑う兵士たちの中で、賈詡は流れ矢に胸を貫かれた。薄れゆく意識の中、彼は自らの戦略的判断の誤りを悟った。
(敵が多すぎる……。最初に、敵を減らすべきだったのだ!)
ハッと目を開くと、そこは宛城に着いたばかりの、張繡との最初の会見の席だった。
「先生!これからは、貴方の知恵を存分にお貸しいただきたい!」
張繡の期待に満ちた目が、まっすぐに賈詡を見つめている。一度目の死の記憶が、彼に全く新しい道筋を示していた。
(戦う相手を、間違えてはならない)
賈詡は深々と頭を下げ、静かに口を開いた。
「張繡将軍。お言葉ですが、我らが今戦っている相手は、本当に劉表殿でしょうか」
「どういう意味だ、先生?」
「劉表殿は確かに大敵。しかし、彼とて北の曹操の存在を無視はできぬはず。我らは、いわば曹操という巨大な津波に対する、最初の『防波堤』。我らがここで劉表殿と争い、共倒れになることこそ、曹操が最も喜ぶ筋書きではありますまいか」
賈詡の言葉に、張繡は目から鱗が落ちる思いだった。
「……では、どうしろと?」
「戦うのではなく、手を結ぶのです」と賈詡は断言した。「私が使者となり、劉表殿を説き伏せてご覧にいれましょう。『貴殿にとって我々は、曹操の南下を防ぐための、最も安価で、最も強固な盾となる』と。この利害の一致を説けば、必ずや同盟は成立いたします」
それは、常識を覆す発想の転換だった。敵対している相手と、手を組む。張繡はその大胆な策に賭けることにした。
賈詡は単身、劉表のもとへと乗り込んだ。劉表の将軍たちは、敵軍の軍師がのこのことやってきたことに殺気立ったが、賈詡は少しも動じなかった。彼は劉表に対し、冷静に、そして論理的に曹操の脅威と、張繡軍が「盾」として持つ戦略的価値を説いた。
劉表は、賈詡の言葉の裏にある、恐るべき大局観に舌を巻いた。そして、目先の小競り合いを続けるよりも、賈詡の提案を受け入れる方が、荊州全体の安全保障にとって遥かに有益であると判断した。
同盟は、見事に成立した。
この功績により、賈詡は誰の恨みを買うこともなく、軍内で揺るぎない信頼を勝ち取ることに成功したのである。彼はまず、戦うべき真の敵を見定め、それ以外の敵を味方に変えることで、自軍の生存確率を最大化させたのだ。
書いていませんでしたが、小説の中で字で呼びあう本来の言い方は人名がわかりづらくなるのであえてやっていません。あと字をほぼ覚えていないという理由もあります。
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