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フェンリルさん、おいしそう  作者: ひなみそら
第五話:始点
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ラバーキンの靴紐にて


 私がこの体になって真っ先に気付いたことがある。それはとても大切な事で、水に落とした一滴の血のようにさっと意識に染み渡って、そのまま馴染んでしまっていた。

 感情、という心を満たす血液みたいなもの。

 フェンリルの頃、長く生き過ぎて、長く戦いすぎて、流れ出し、冷え切っていた感情は、この体になった途端、失っていた分以上に心を暖めて、何もかも新鮮すぎて、楽しくて仕方なかった。時々不安になったり、悲しくなったりして泣きたくなるけど、大切にしていきたいと、今でも思ってるもの。何で再び感情が戻ったのか、とは何度も考えたけど、きっと私の中にいた氷の精霊が、眠りについたからだ。これからは、日当たりの良い表に出して、吹雪いても見失わないようにしておこうと思ってる。


 でも、フェンリルである自分らしさを大切にすると、心には冷たく雪が降るようで。

 凍えるのが嫌だと、弱さを見せれば、私自身を裏切るような気分になって。


 誰のために私があるのか、思い出して、言い訳にして、安心する。


 私は魔王のためにありたい。あいつのためだけに生きていたし、あいつの傍にいるのが、一番安心する。

 そのために、がんばる。そのためになら、心が吹雪いたって構わない。感情を包む心がかじかんで、痛くなってもいい。

 魔王に会うまでは、雪の中を歩き続けてやる。


「はっ、はっ」


 ぎらつく太陽が真上に昇り、降り注ぐ日差しがぐっと強くなった頃。私達は森を抜けて、街道をひたすら北西へと向かっていた。

 世界に私達しかいなくなったのでは? と思うほどに人の姿が見えない草原。小さな丘の続くファソリの周辺とはまた違い、ずっと遠くにあったと思っていた山が近くなるに連れて、草地に大きな灰色の岩が多くなってくる。なんだか山を槌で殴りつけて、飛んできた破片が転がってるみたいだ。

 道は徐々にやる気のないスライムみたいに平坦になってきていて、平野と言えるような形になりつつある。その分岩や、ずっと前に捨てられた建物の名残…塀とか、崩れた壁の一部とかが目立ち始める。ずっと昔に住む者が消えた町の亡骸だ。

 人のいない、荒れた土地。


「フェンリル様、大丈夫かい?」


 横に並ぶ私に、ケンタウロスのスコルが心配そうに尋ねた。私は大丈夫、と短く答える。

「ごめんよ。荷物が無ければ二人一緒に乗せられるんだけど」

 申し訳なさそうにする彼の背中には、干された布団みたいにぐったりと鞍にひっかかる、ハティの姿がある。フェンリルのローブ――紺色のヴァナルガンドを被せていて直射日光は避けているけど、ケンタウロスの早歩きに合わせて走る私なんかより、彼女の方がよっぽど心配するべきだった。

「ハティ、だいじょ、ぶ?」

 走りながら声をかけると、ハティは腕だけを緩慢に動かして、親指を立てた。すぐにぱたりと落ちてしまう。あんまり大丈夫じゃなさそう。


 テントでの出来事の後、私達は、ファソリの魔法災害を引き起こした原因である、呪いのローブを持ち出した犯人としてイメロニア王国、そしてエインヘリャルに追われるだろう、と覚悟していた。

 クライエンがどう私を庇おうと、この事は紛れもない事実で、あれだけの事を引き起こせるローブを持つ私達に追っ手が来ない方がおかしい。騎士団か、エインヘリャルのヴァルキリーか。あるいは、私のした事をありのままに話されて、アーデインが追ってくるかもしれない。誰が来ようと、今のうちに距離を稼いでおいて損はなく、がんばってる所だ。


 森をある程度進んだところで北進し、まずは国境を目指そうと北へ行くことになった。国をまたいでしまえば、少なくとも騎士団の脅威は消える、と思われたからだ。ファソリ以外の最寄の町だと、西のオリキオなのだけど、そこはまだイメロニア王国の管轄で、人の目を避けるなら、多少遠くても北の山岳地帯を抜けて『デセルタ連邦国』へ入ってしまった方がいいという、スコルの提案だ。私もハティも異論はなかったのだけど、一つだけ無視できない問題があった。

 それは、今もぐったりとしているハティの事。

 日に弱いヴァンパイアの体である彼女は、コウモリになろうと、霧になろうと、日の光の下にいると、命に関わる。多少の距離なら問題はないそうだけど、一時間が経過した時点で、まともに歩けなくなるほど衰弱してしまった。

 スコルの話では、光そのものよりも、光の届く場所にいる精霊が問題のようで、上着や毛布で覆い隠そうと、ダメージは避けられないようだ。普段は『影のデュナミス』という、光の精霊の力を抑えるデュナミスの力で過ごしていたらしいのだけど、ハティの旅の荷物は、前のスコルの体と一緒に氷の下敷きになってしまっている。取りに行っている暇なんてないし、森で夜を待つわけにもいかなかった。ファソリの北西の森、ヒヨコモドキの森は、思った以上に狭かったのだ。本気で探されてしまったら、隠れる場所なんて無いに等しい。だから、進むしかなかった。日陰なんてほとんどない道を。

 ハティには今、辛い思いをさせてる。少しでも早く楽になれるように、私も一生懸命走る…けど。


「…スコル、道だけ教えて。先に行って、ハティを、休ませてあげて」


 毎日走って体力を作っていた私も、そろそろ限界だった。もう、結構な時間走ってる。走ってるといえるような速度でもないけど。それでもわき腹痛いし、息も辛い。もう、立ち止まってしまいたい。いつもなら頭から飛び込んで草地に滑り込むレベル。

「だめですよぅ。そんな事しちゃ」

 なのに、よりによってハティがそんな事を言う。

「先に行ってる間にフェンリル様が捕まったらどうするんですか……ヴァナルガンドが戻っても、フェンリル様が居ないんじゃ意味ねぇです」

 言いたい事はわかるけど、その気持ちが私を苦しめる。肉体的に。

「…日陰を見つけて休もう。いいね?」

 スコルのこの言葉に、街道にかかるように枝を伸ばした大きな木の下で、一度休憩を挟んだ。息を整え、水を飲んで、食事は走るのが辛くなるから控えて、指先を浅くナイフで切って、ハティに血を飲ませた。魔力たっぷりのフェンリル様の血。元気にならないヴァンパイアはいない。膝枕のサービス付き。

「あの、フェンリル様。クライエンさんの事はその――」

「気にしないでいい」

 滴る血をハティの口に落としながら、そっけなく答えた。聞くな、という意味をスコルはちゃんと理解して、それ以上は何も言わなかった。今は。

 クライエンの事は、私の問題。二人が気にする事じゃない。何より今は、余計な事を考えたくない。疲れるだけだ。

 短い休憩を終え、私達は再び走り出す。やがてオリキオ方面から伸びている道にぶつかり、文字の掠れた看板を確認して北へと曲がった。この辺りでまた、景色が変わってくる。

 灰色の岩肌が目立つ山はずいぶん近くに見えるけど、平野に敷かれた道は延々と続いてる。この道はあまり使われていないようで、街道にはみ出した大岩がたくさんあった。馬車で通りたくはない道だと思う。

 古道、と言える地平線が見える広大な平野は、急いでさえなければ、ご機嫌になれる感じ。何もしないで地平線を眺めたり、走り回ったりしたい。

 見渡す限り岩と草。そんな道を一時間ほど進み、ひとまずの目標である、『ラバーキンの靴紐』という宿に辿りついたのは、午後一時になってからだった。


 平野にぽつんと存在するこの宿は、平屋が二つ並んでいて、片方には『受付はこちら』と看板がかかってる。よほど人が通らないのか、厩舎は馬を二頭も並べれば一杯になってしまいそうなほど小さい。井戸についたポンプはさびまみれで、土地を囲う柵も立派とは言い難い。

 本当に、一晩明かすだけにあるような宿だった。

「…やってるの?」

 息を整えながら聞くと、スコルはもちろん、と頷く。

「僕もファソリに来るとき使わせてもらったんだけど、面白い宿でね。この平野が『ラバーキンの庭』と呼ばれる由縁となってるくらいさ。利用者は、ほとんどいないけどね」

 スコルは背中にハティをひっかけたまま、簡素な木の扉を引いた。彼に続いて中に入ると、革の独特の匂いが鼻をつく。

 受付の建物は静かなもので、時計の一つすらなく、床を叩くスコルの蹄の音がやけに響いた。入って正面には誰もいないカウンターがあり、左側はたくさんの革靴の並ぶ靴屋になっている。どちらも無人だけど、掃除は行き届いているようで、埃の一つも見当たらない。あまりに静か過ぎて、自分の心臓の音が聞こえてきそうだ。

「フェンリル様、みてごらん」

 スコルに呼ばれて、カウンターへ。そこには、木のトレイに、畳んだ手紙と、赤い紐が結ばれた鍵が一つ。


『宿は隣の建物になります。お食事等はございません。井戸の水は飲めませんので、樽の水をお使いください。料金は一泊『600シシル』で結構です』


 シシルは大陸共通貨幣の単位。100シシルでパン一つ買えて、お釣りが出るくらいの値段だから、宿にしてはものすごく安い。私も相場がわかるわけではないけど。

 スコルが財布から1000シシル紙幣を二枚取り出して、空になったトレイに置いた。

「…誰も出てこないけどいいの?」

「大丈夫。そういう宿なんだ。さぁ部屋に行こう。ハティを休ませないと」

 カウンターに背を向けて、一度外に出て、隣の建物へ。

 こちらの建物は、入ってすぐ狭い廊下になっていた。どのくらい狭いか、というと、両側にある扉を一杯に開くと反対側の壁にぶつかるくらい狭かった。部屋数は左右含めて四つで、突き当たりは広い居間になっている。そちらのほうは、綺麗に掃除された暖炉が壁際にあり、その隣にワインでも入ってそうな大樽がある。たぶん中身は飲み水だ。樽の水とやらはあれと思われる。

 机やソファー、揺り椅子に、小さな本棚。たくさんの窓がある落ち着いた空間は、なかなか好みではある。トイレとお風呂へ続く扉も奥にあった。

 時計の音だけが響く、誰もいない宿。スコルは居間に近い扉に鍵を差し込んで、ハティと一緒に入っていった。私もついていくと、長細い空間に、ベッドが三つ並ぶだけの簡素なものだった。そのうち一つにハティを寝かせている間に、私は小さな窓を開けておく。静かな空間に鳥の声が聞こえ始め、風が舞い込み、なんだか少しだけ安心した。

 この宿はなかなか好みな感じだけど、なんだか、不思議な雰囲気のある場所だ。静寂の中に息苦しさみたいのがある。

「ここはラバーキンっていう、妖精がやっている宿屋でね。ずっと昔からあるそうだよ」

「…妖精? もしかしてレプラコーンの事?」

「ご明察。さすがです、フェンリル様」

 おどけてお辞儀をしてみせるスコルに、知らないうちに緊張していた気持ちが少しほぐれた。

 レプラコーンは、妖精の靴屋と呼ばれる、他の妖精のために靴を作る小人で、魔族とも、人間とも関わろうとしない類の生粋の妖精だ。もちろん、妖精である以上、個性があり、宿を営むレプラコーンがいてもおかしくは無いのだけど、珍しいものは珍しい。

「ファソリに来る前に一泊使ったけど、主人のラバーキンは一度も見なかった。揺り椅子が揺れてたり、物音がしたり、不気味ではあるけどね」

 窓の外は岩の転がる平野。人どころか獣の姿すらないこんな場所にぽつんと立っている宿は、存在自体が確かに薄気味悪いけど、魔王城のほうがよっぽど気味悪かったから、少し懐かしさすらある。魔力の淀みに建てられたあの城は普通に人骨が歩いてたり、知らないうちに道具が魔物化してたりする。宝箱とか。

「うー…」

 苦しげにうめいたハティの頭を撫でて、さらさらの金色の髪を指に絡ませる。ハティの腕は、紺色のローブ、ヴァナルガンドをしっかり抱きしめていた。

「…スコル、何?」

 入り口の方で視線をさ迷わせていた彼に問う。

「フェンリル様……いや、ぽるたん。本当に、よかったのかい?」

「何が?」

「…僕等を選んだ事、さ」

 また、その話。彼もクライエンと一緒だ。私の口から聞かないと、納得できないらしい。

 ハティから手を離して、ため息ひとつ。

「何か不満でもある?」

「……ないよ。スコルからしたら、とても喜ばしい事さ。彼等の前で言った事に偽りは無い。でも、ぽるたんの口からも、オーグルの彼からも、家族と言えるような関係をあっさり切らせてしまって、申し訳なくも思ってる」

「…たかが一ヶ月」

 心苦しそうだったスコルが、私の言葉に何か返そうとした。言葉にならなかったのは、きっと私の表情のせい。


「たかが一ヶ月過ごしただけ。それは五百余年生きてる私の、一瞬にも満たない時間。この体になった私が、失ったものを受け入れ、それもまた良しとして、力ない事を理由に、彼等に縋らざるを得なかっただけの事。私にかつての力のほんの一端でもあれば、あんなにグズグズする事なんて無かった。あなた達二人がこうして私の目の前に現れて、さらに私の力が戻るというなら、何も知らない奴等に縋り続ける理由も無くなる。私が本性を見せ、去った今、彼等が私達にシトリの罪をなすりつけるかどうかは、彼等次第になってる。世話になったせめてもの恩返しには、丁度いい」


 気持ちを言葉にして、音にして、胸の内側を刺す痛みがあることに苛立ちを覚えた。私らしくない。本当に、私らしくなくて、苛々する。覚悟してやった事なのに。

 言った事は全部事実のはず。一人ではどうしようもない状況だったから、アーデインに助けられて、クライエンと知り合って、眠ってる精霊が見えてしまうからとか言われて、一ヶ月山で過ごした。

 その生活の中で、アーデインも、クライエンも信頼できると思ったから、助けを借りてもいいかな、と思った。

 そんな相手を切り捨てるようにしたから、きっとこんな、刺すような痛みに襲われてる。

 裏切るような事をしなくて済むなら、それでよかった。もっといい方法があるなら、みんなで考えたかった。

 でも私は、弱くてもいいかな、なんて、己を否定する考えが、嫌だった。

 目の前でちらついた、かつての自分に力を前に、深く考えずに手を伸ばした。それが、今の結果だ。

 代償として払ったものは、得たものに比べれば、あまりに些細な事のはずなのに。

 …頭痛い。


「…シャワーあるんだっけ。ちょっと浴びてくる」


 ハティの体調含めて、追っ手が来ない限り、夜まで何も出来ない。少し汗もかいていたし、体を綺麗にしようと思ったのだけど。

 スコルの横を通ろうとした時に、肩を掴まれた。

「………すみません、もう、大丈夫です」

 目もあわせずに、それだけ言って離す。私も、特に何も返さずに居間の方へ向かった。彼が口を挟めることではないし、この話は本当にこれでもう、終わりだ。

 終わりって言ったら、終わり。私がこれ以上後悔してたら、二人に失礼だ。

 私がこんな気持ちになるのは、魔王のせいだ。魔王が最初から、力が無くとも信頼してるとか、そんな言葉を言ってくれればよかった。契約をする時、私の力を求めて契約するから、力が無い事に不安になって、焦るのだ。きっと、兄様もあの場面にいたから、私の事を想ってローブを作ってくれた。力の無い私が、魔王に切り捨てられるかもしれないと、考えたから。

 でも、もう大丈夫だ。もうすぐ、魔王の求める私になれる。シャワーを浴びて、二人と相談して、ヴァナルガンドを本来の姿に戻し、力を取り戻す。そうしたら、魔王だって心置きなく、復活できる。あいつはきっと、私を気遣って復活のタイミングを遅くしているのだ。

 いつもみたいに誰よりも先に逢いに行って、暴れる彼を氷で閉じ込めて、いつもみたいに、再開する。それを望んでるに違いない。私もそうであるように。

「ふふ、楽しみ」

 無理やり笑って、居間の扉の奥へ向かった。短い扉の奥は、手前がお風呂場、奥がお手洗いになっているようだ。建物自体も別のようで、使われてる木材の色が少しだけ違う。私は手前の扉に入って、後ろ手に鍵を閉めた。

 軋む床板が敷き詰められた狭い脱衣所は少し広く、脱いだものを入れておく藤の籠と、真っ白なタオルが詰まれた棚がある。鏡の前には髪を乾かすのに使う文明の利器、デュナミスを使ったドライヤーがあって、古い宿という割にその辺りはしっかりしてるみたいだ。客にゆっくりしてもらおう、という気遣いが感じられる。

 籠はひっくり返って置いてあるのだけど、四つあるうちの一つに服が入ってるのを見て、動きが止まってしまった。他の利用客がいるみたいだ。

 狭い宿だからお風呂は一つしかなく、男女で分けてある訳じゃない。幸い、籠に入ってるのは女物の服だからよかったけど、女性なら入り口の鍵くらい閉めておいてほしい。

 知らない人とお風呂ってなんかな…と思ったけど、三日間寝込んでてお風呂に入ってない、という事実が私の背中を押した。人の体は狼のものより汚れやすい。髪留めを外して、籠をひっくり返して脱いだものを入れて行く。

 味見したくなる類の子がいるといいなぁ、とか、湯船があるといいなぁ、なんて期待を抱きながらお風呂場の扉を開けると、丁度あがるところだったらしい、先客と鉢合わせした。


「お?」

「え?」


 お風呂場の方が少し低くなっていて、それによって身長差が調整され、お互い目線が同じ高さになっていた。となれば自然と視線も交差してしまう。きっと相手は私の宝石に劣らない綺麗な水色の瞳に驚いただろうし、私も、綺麗な夕焼け色の瞳に、正直驚いた。

 夕焼け色の瞳に、水の滴る毛の先が朱色になった、鮮やかな山吹色の髪。濡れた体は女性らしい丸みを帯びたもので、大きさと形のバランスがとれた胸元に、劣等感を覚えてしまう。おかしい、初対面のときはもっと親近感を覚える感じだったのに。着やせ、とかいうやつかもしれない。


「………此方のどこを見ているのかね。彼方もなかなか可愛らしく、それはそれで魅力だとは思うが、如何に?」


「…うるさい、嫌味にしか聞こえない。というか、ここで何してる、魔女」


 お風呂から出てこようとしたのは、まだ記憶に新しく、決して忘れることのない人物。私の知識の中に神出鬼没、とあるように、いきなり現れるだろうなとは思っていたけど、いきなりすぎて逆に驚けなかった。

 お風呂で遭遇って、予想外だ。しかし、予想外は彼女もだったらしい。

「それは此方の台詞であるよ。このような辺鄙な宿に彼方が居るとは思いもしなかった」

 言葉の割には淡々とした口調の、山吹の炎の魔女。ディアレクティカは、お風呂の方へ引き返していく。

「出るんじゃないの?」

「そのつもりではあったが、これも何かの縁だ。裸の付き合いは如何かね?」

 最初に会った時みたいに、人懐っこい笑みを浮かべる魔女。

 突然現れた事と、以前の話の続きが行われる事、罠である可能性がどかどかと思考に積み重なる。けど、私の中では『された事への復讐心』が天秤に落ち、重なっていたリスクを吹っ飛ばしてしまった。

 痺れ薬の件とか、その前の飴の件とか。


 足を踏み入れたお風呂場は少し広めの浴槽があり、壁面にシャワーが四つ取り付けられたシンプルなもの。四方はタイルの張った壁に覆われていて、足元も磨かれた石材。高いところに窓があり、浴槽から沸き立つ湯気が外へ逃げ出している。それでも中は湯気で視界が白く濁り、湿気に息苦しさがある。もっと大きな窓を作って、換気したいくらい。

 私が広いお風呂に新鮮さを覚えながら見回していると、魔女はシャワーの一つを指差して言う。そこには馴染みのあるスライムボトルがあった。

「裸の付き合いは古来より『洗いっこ』をする事で絆を深めると聞く。二人で実証してみようと思うが、如何か?」

「……いいよ、やろう」

「此方は先に洗ってしまったから、彼方から先にやってあげよう。座りたまえよ」

 椅子に座った私に、魔女はシャワーの温度を確かめながら丁寧に髪を濡らして行く。その手付きはずいぶん慣れていて、洗髪用スライムを泡立てる時なんかは目を細めるくらいに気持ちよかった。

「それで、なんでこんな場所にいる?」

 少し不機嫌な口調になってしまったけど、魔女は意に介さず答える。

「此方はヴォイドではそれなりに窮屈な立場にあるのだよ。故に、たまの休みにはこちら側で羽を伸ばしているのだ。この宿は此方のような者にも隔たり無く接し、何より静かで落ち着く。考え事をする時はこういった場所が一番なのだよ。先日彼方を見つけたのも、ここが此方の拠点になっているから、と言えばいくらか説明もつくであろう?」

「…なるほど」

 泡を洗い流して、次のスライムを搾り出して髪のケアを開始。こちらのスライムは自動で、時間が少しかかるので、その間に魔女の髪を洗う事になった。

 交代したものの、彼女の髪からはほんのり花の香りがしてる。

「一度洗ったんじゃないの?」

「洗い合う事に意味があるのだよ。よろしく頼むよ?」

 他人の頭を洗うなんて初めてなのだけど、先程彼女にやられたように、山吹と朱色の髪を濡らし、洗髪用スライム、正確にはその死骸を指先で泡立てて行く。指先を立てて、頭皮を揉むように。

「あぁ、なかなかいい感じであるよ……しかし、彼方こそ、なぜここにいるのだね? 近いうちに会う、とは言ったが、此方から彼方へ、という意味だったはずだ。先手を打たれては少し困るのだよ。此方にも予定がある」

「……意図したつもりは無い。本当に偶然。それに、正直あなたの事より面倒な事が起こってて、半分どうでもいい感じ」

「ほう、此方は彼方の事でここ三日、忙しい日々を送っていたというのにそのような事を言うのだね? いくら温厚な此方とはいえ、少し怒ろうか?」

「怒られる前に先手を打とうか?」

「なに―――うきゃぁッ!?」

 身を竦ませて、こっちがびっくりするくらいかわいい声を上げた魔女。上目遣いに睨まれた。目を瞑っていたのをいい事に用意した冷水を背中にかけてあげただけなのに。ふふふ。

「…やってくれたね。しかし彼方も迂闊だ。これから此方にも同じことをする機会はあるのだよ?」

「私は冷たいのくらい平気。あなたは炎の魔女、というくらいなのだし、冷たいのが苦手なのも頷ける。安心して、なかなかかわいい声だった」

「お褒めに預かり光栄の至りであるよ、フェンリル。どれ、交代しようじゃないか」

 魔女は自分で頭を雑に洗い流して、泡の残るまま、私に座るように促す。そのタイミングで、仕事を終えたスライムが髪先から落ちたので、残った油分を流してもらう。まだ暖かいまま。いつ冷水で責めてくるか心構えをしていたら、一度蛇口を捻って水を止め、魔女はボトルのひとつを手に取る。む、それは……。

「ヴォイドにもこちらの製品はいくつか出回っていてね。このボディウォッシュスライムは、便利ではあるが、女性には不評なのだ。売り上げも通常の液体石鹸に負けている。此方も肌を嘗め回されるようなあの感覚は、あまり得意ではないのだよ」

「……弱点を言うとは迂闊な」

「適量はプッシュ一回。多くするとどうなるか、彼方は知っているかね?」

「用量は正しくして使わないと――ッ…」

 髪を避けて、背中に垂らされた冷たいスライムが、その命に刷り込まれた役目を果たすべく肌を滑り始める。このスライムは柔らかい石鹸が肌を滑りまわってるようなもので、振り払えばお役御免を悟って消えるという、潔い性格をしてる。放っておけば泡を立てながら指先まで洗ってくれるのだけど、まじめな奴等だから、手の届かない背中や、指の間、足の裏まで丁寧に洗ってくれる。スライムの感触で。人工生物とはいえ、生き物が体を這う感触は苦手な人が多いと思う。

 ちなみに、手で潰せばそのまま石鹸として使える。便利。

 状況的に振り払えないのに、この山吹色の娘ときたら二匹目を垂らした。まぁ、フェンリルならコレくらい余裕。あの、三匹はちょっと……。

「…ッ」

 一匹目があまり触ってほしくない場所を通って、声がでそうになった、曇った鏡に映る魔女は私の背中を洗いながら楽しそうに笑う。魔女みたいな笑みで。

「ふふ、泡だらけで何がなんだかわからないが、大丈夫かね? 彼等は容赦しないが…」

「紳士的なスライムだから魔女が期待してるようなことにはなってない」

 スライムのがんばりで、私はいまや羊みたいに泡でモコモコになってしまってる。せっかくなので余裕たっぷりに体をさすって泡を細かくして、しっかり保湿をして、ついでに指の中に滑り込んできた一匹を捕まえて潰しておいた。

「潰したのかね? 潰したのだね? 耐えられなかったのだね?」

「嬉しそうなところ悪いけど、次はあなたの番」

「あー…うん。そろそろ湯船に浸かろうじゃないか。ここは源泉かけ流しの温泉でね。なかなか心地よいのだよ。此方のお気に入りの理由のひとつだ」

 洗い合いがどうとか言ってたのに、さっさと逃げた。私は残ったスライムを泡と一緒に払って、水で洗い流す。なんだかいつもより肌が綺麗な気がする。

 持ち込んだタオルと髪留めで髪が湯に入らないようにして、私も湯船へ。

 少し熱めのお湯が足先から順番に体を包み込んで、長い時間走り続けた体の疲れを解してくれる。思わず声が漏れ、なかなかご機嫌な感じ。いい宿だ。悩み事も溶けていく様。隣に魔女さえいなければ最高かもしれない。

「さて、彼方はなにやら面倒に巻き込まれていると言ったね? よろしければその面倒とやらを聞かせてもらえないだろうか」

 高い天井と石材に囲まれたお風呂は声がよく反響する。

「面倒、と言っても大したことじゃない。ちょっと国か、エインヘリャルとかいうのに追われそうになってるだけ」

「…確かにそれは面倒、であるね。かの組織に狙われた暁にはこの大陸に安息の地は無くなると聞くよ。一体全体何をしたのだね」

「えっと、町一つ、潰した?」

 私じゃないけど、私の力が原因で、とは言わない。

 魔女は目を見開き、楽しげに声を上げて笑った。

「町を潰した? ははは、それは確かに追われても仕方が無いのだよ。かわいい姿になり、中身も相応かと思えばいやはや、それでこそフェンリルであろうよ。正直少し安心したよ。しかし、妙であるね。此方はてっきり、彼方の力は失われている、と推測していたのだが、その辺りは如何に?」

「失われてる、けど、力が向うから戻ってきた。それが少し暴発した…みたいな感じかな…」

 だいぶ事実を歪めてるけど、魔女は途端真剣な表情になって考え込む。このパターンはちょっと、トラウマなので、少し離れよう。前回はこれで痺れ薬の流れになった。

「……もしや、それは彼方の…フェンリルの御力が宿ったローブの事、かね?」

「…………なんでわかる」

 まだ何も言ってないのに。こちらが驚かせようとすると、なんで皆気付くのだろう。

 警戒心を滲ませて問うと、彼女は浴槽の段差に腰掛けて、教えてくれた。

「一度目の邂逅の後、此方はヴォイドの資料館で彼方――フェンリルについて色々調べさせてもらった。戦神を喰らう魔狼、氷の狼、災禍の王の(しもべ)。フェンリルという称号の歴史も大変興味もあったが、此方が注目したのは、戦時中各地の戦場でその力が顕現し、魔女の侵攻を阻んだ、という記録だ。この事は、伝承好きの魔女共には、やれ怨念が加護がどうだと言われているが、フェンリルの力を宿した魔道具が存在した、というのが有力な説になる。だが、ある年を境にこの現象に関する記録はぱたりと消えているのだよ。我々でも正確な記録が残せないほど混沌とした時代だ。知らずうちに戦場で失われた、と考えるのが自然である……が、数年前に少々噂を聞いてね」

「噂?」

「ヴォイドの文化もここ数十年のうちに大きく様変わりしてね。いまやこちら側を乗っ取る、という考えは無いに等しいのだよ。万年物資不足であったヴォイドも、それなりに豊かになり全体的には生活に困らない程度になっている。故に次は交易ができないか、と考える魔女も居てね。こちら側の者に混じって、糸口を探っているのだよ。そんな魔女の一人から、数年前、とてつもない力を宿す魔道具を見つけた、と報告があったのだ。彼女はそれを失われた『フェンリルのローブ』と予測し、この時代に『魔狼フェンリル』が復活する、と此方に予言したのだ」

「そして、見事に当たった」

 言うと、彼女は深く頷く。

「当時此方はくだらないと笑い飛ばしたのだがね。一方で、それが本当であれば『ミデン』の事で色々問題があった。必死、という程ではないが、気に止めていたのだよ。そして三日前、その意識が此方の興味となり、彼方を見つけるに至った。彼方の事は疑いようも無かったが、此方はローブの方は疑っていた。故に色々と調べ、件の予言をした魔女と会うべきかどうか、実物を確認すべきかどうか、まさにここで悩んでいたのだよ……この因果に何か意味があるのか、と。だからこそ、ここで彼方に会ったのは、本当に驚かされ――うん? 力が向うから戻ってきた、という事は件のローブもあるのかね?」

 え? 今それに気がつくの? あるって言ったのに。

 私は湯船に肩まで浸かって、ここまでの旅の疲れを癒しながら答える。

「さぁ?」

「さぁって……彼方よ、わかっているのかね? 今の時代に守護神と崇められる者が蘇るやもしれん事態なのだよ? はぐらかさずに教えておくれ」

 自分も湯船に浸かってにじりよってくる魔女。その綺麗な目には好奇心で満たされてる。手が私の肌に触れ、指先でお腹をなぞるようにしてきた。

「別にヴォイドに攻め込もうとかは考えてない。どこ触ってる…」

「その懸念が消えたことは喜ばしい事であるよ。でも此方にはそれ以上に今の時代でフェンリルが力を得て、どう生きていくのかの方が気になるのだよ。あぁ、ところで此方はマッサージが得意でね。お疲れのようだし、良ければ揉んで差し上げるが」

「大人しく時代相応に生きるつもり。とりあえず離せ、もうあがる」

 あがるって言ったのに、立ち上がるより先に魔女が抱きついてきた。

「まぁまぁ、ゆくゆくは力を取り戻し、時代を背負うであろう守護神フェンリルと、ヴォイドの住人である此方が仲良くするのは悪い事ではあるまい? 徹底的に敵対している双方の関係改善のために、まずは代表してお友達になろうと思うが、如何に?」

 この魔女め、同性である事をいい事に体を密着させてきやがる。魔王が虜になる納得の柔らかさとか、温泉効果ですべすべの肌とか、こう、噛み付いて味見したくなる。

 フェンリルさんは狼なので、あまり狼になりそうな事を積極的にされると、食べたくなるから。ただでさえもやもやしてて、苛々してて、発散したいのに。


 食うぞ? 魔女め。食うか。


「ぐるる……」

「…おや」

 喉を鳴らして牙むいて顔を向けると、魔女は拘束を緩めた。そのままじりじりと引き返し始める。

「あー…うん、此方も悪かった。確かに、彼方にとって魔女は己や魔王の敵でもある。無理強いは良くなかったね?」

「……ディーア」

 初めて名前呼んだかも。

「う、うん?」

「いいよ、仲良くしよう。きっと、お互い興味がある」

「そうであろうね。だが、彼方よ。少し、その、怖いよ?」

「大丈夫」

 私は優しく微笑んで、魔女も、ぎこちなく笑みを浮かべた。

 魔女は箒と杖がないと、何も出来ない。彼女が言ったことだ。

「その涼しい顔がどんな風に羞恥に染まるのか、大変興味ある」

「そ、そういうのは段階を踏んでから確かめたまえ!」

 立ち上がり、逃げ出そうとした彼女の手を捕捉。そのまま湯船へと引き倒して、その背中を抱きとめた。湯船から顔を出した彼女は、すぐに暴れ始める。

「こ、こら! 女同士だからってそんなに密着するのではないよ! 胸とか当たってるじゃないか!」

「気にしない。うろたえる顔もいいと思う。あとあたってるんじゃなくて当ててる」

「当ててるんじゃなくて当てたいのではないのかね? ささやかながらも主張したいのであろう?」

 響いていた水音が止まり、お互い笑顔を見せる。感情の無い笑顔。


「ガヴッ!」


「いったぁ!?」


 柔肌おいしい。

 その後、私は溜まった鬱屈を山吹の炎の魔女にぶつけられるだけぶつけた。全身噛み付きまくる、という方法で。静かな宿に響きしみこむような、なかなか騒がしくて楽しい時間だった。



*一段落した後、話数のほうを入れ替えたりするかもしれません。内容は基本的に変えないつもりです。

次回投稿は7/24(日)を予定しています。

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