切り離すモノ
「にゃー♪」
上機嫌な少女の声が、私のすぐ近くで奏でられる。鈴を転がす声、というか、とろけるように甘える声。とろけるというか、溶解する、みたいな。
「あー…至高ですよぅ……ほんとうに幸せです。心が弾んじゃいますよぅ……嬉しすぎて死にそうです」
「…重い」
「あぁ、いいよねこういうの。なんていうか、団欒って感じでさ。僕個人としても、スコルとしても今、幸せを感じてるよ」
「暑い…」
私は今、馬の枕と、少女の掛け布団を体にかけて、ちょっとした拷問みたいな事をされている。
場所は相変わらずテントの中。机をどかして作った広めの地面に、スコル、私、ハティと折り重なるようにして横になってる。
足を畳んで座り込んだケンタウロスの背中によりかかり、伸ばした私の体に金髪のヴァンパイアが密着する形で背中を預けてる。弛緩しきったハティの肩越しに腕を回しているのだけど、彼女はそれがたまらなく嬉しいらしい。ハティの人格が男だったらこんな事しないのだけど、外見も、中身も少女のものだから、複雑な感じ。
私がフェンリルだとハティとスコルに打ち明けた後、二人はすごく緊張していたけど、程なくしてある事を欲求してきた。
それがずばり、甘えさせてほしい、というもの。
二人はフェンリルのローブ、ヴァナルガンドを私に届けるのが役目だったため、私に会う日をずっと夢見ていたらしい。私もアーティファクトになってまで会いに来たんだから、それぐらいいは許してやろうと思ったのだけど、なぜかこんな形になってしまった。甘えるってこんなのだっけ? わからない。不明。
密着するハティはもちろん、体を預けられてるスコルも嬉しそうにハーモニカを奏でていて、なんとも平和な時間が続いてる。続いているのだけど、おかげで何も話が進んでない。
ローブの事とか、二人の事とか、ユフィールって誰、など、聞きたい事は山ほどあるのだけど。
「んー」
幸せそうな顔で体を押し付けてくるハティ。金髪のおいしそうな少女がそんな表情をしてそんな事をしたら、どけなんて言えません。むしろ抱きしめてしまう。ぎゅっ。
「にゃー…フェンリルさまぁ、もっと強く抱きしめてください…」
………ハティのくせに。抱き枕にして寝てやろうか。それとも食べてやろうか。今夜はお楽しみですか?
ハーモニカの優しい曲が終わったところで、スコルが「さて」と本題に入ろうとした。幸せモードのハティが露骨に嫌そうに口を尖らせる。
「スコル、あたしの幸せタイムを邪魔すんじゃねぇですよ」
「…ハティが幸せならいいんだけどね。ケンタウロスってさ。長時間横になってると内臓とか色々辛いんだ……睡眠とか四時間超えると命に関わるからね。立って寝るのが得意なんだ」
知ってたけど、ケンタウロスって私生活はなかなか大変だと思う。
「ハティ、スコルのためにも一回どいて」
「えー…仕方ねぇですねぇ」
渋々ながらもハティは立ち上がり、ようやく私も解放された。ヴァンパイア特有の冷やっこい感触がちょっと名残惜しいような気がする。体温が低いだけでくっついてると暑いのだけど。あと、中身ハティだけど。面影微塵も無い。もはやただの少女だ。
ケンタウロスのスコルも立ち上がり、大きく伸びをした。そんな彼の背中にハティが悪戯っぽい笑みを浮かべて飛び乗り、スコルは驚いたようだけどすぐに笑みを浮かべて、それを許した。まったく、微笑ましい光景だ。
「今更だけど、二人は私の知ってるスコルとハティでいいの?」
「いえ、厳密には違うですよ」
歩き始めたスコルの背中で楽しそうにハティが言う。詳しい説明はスコルが継いだ。
「さっきも説明したけど、僕等は体を変える度に宿主の人生を追体験するんだ。スコルもハティも、何度も体を乗り継いだから最初の人格がだいぶ薄れてる。ご存知、ハティは雄の狼だったけど、女性にばかり宿っていたので、かなり人格が女性に傾いてる。まぁ元々女の子っぽい性格だったしね。ちなみにスコルに至っては、もう最初の人格がどれだったのかも、わからない」
どこか寂しそうにするスコル。そんな彼に、私は首を傾けて言ってやった。
「でも、思い出は残ってる」
「……えぇ」
「ならあなたはスコル。ハティもハティ。気にする事はない。私も、二人の事は遠い昔の事だから、忘れてしまった事が多い。一緒に思い出していけばいいだけのこと。思い出は薄れるけど、消えはしないものだから」
四百年という月日は、人を忘れるには十分な時間だ。二人も、たくさん生きて、死んだのなら、自分の事だって忘れてしまうだろう。同じ自分を続けている私だって、全てを覚えている訳じゃないのだし。
毎日多くの事を忘れて、大切だと思う記憶も薄れて、何かのきっかけで、時間という雪に埋もれた思い出を拾い上げるのだ。
生きるってそんなもの。たぶん。
「フェンリル様ってこんなに優しかったんですね…もっときっつい方だと思ってました…」
ふふ、目を丸くして言うほどの事かな? ハティ。
「僕はスコルとして目覚める前から特別な魅力を感じてました。改めて求婚してもいいですか、フェンリル様」
「スコルになったからって扱いまで変わるとは思わない方がいい」
「…はい」
さて。
私としてはそろそろ本題に入りたい。けど、それより先に入り口の幕が捲られて、光が差し込むのが先だった。現れたのは、だいぶ前に出て行った大柄のオーグル、クライエンだ。彼は背中にハティを乗せたスコルを不思議そうに見ている。
「…なんじゃ、二人ともずいぶん仲が良くなったのぅ」
「えぇ、まぁ、いろいろありまして。おかえりなさいクライエンさん」
スコルがネックレスを隠しながら迎える。ハティは彼の背中から飛び降りると、そのまま私に抱きついてきた。見せびらかすようなニマっとした彼女の笑みに、クライエンは目を丸くする。
「そ、そっちもずいぶん仲良くなったのう?」
「…色々あって」
ハティを引き剥がして、続いて入ってくるはずの人物を待つ。けど、クライエンがベッドに腰掛け、スコルから紅茶をもらっても、アルビノゴブリンは入ってこなかった。
「アーデインは?」
「あやつは少し外を周ってくるそうじゃ。ガッファスの見舞いに行くんじゃろ。その間にポルタ、その…」
ポルタ、という名にスコルとハティが少し険しい表情をする。フェンリル様と呼べ、と今にも言いそう。だけど無視して、彼の視線を辿って、何を言いたいのか理解する。アーデインが来ないなら、話を始めても問題ない。
今度は私が仕切るのがよさそうだ。
「スコル、ハティ。改めて紹介する。このオーグルはクライエン。私がこの体に転生して一ヶ月、とても世話になった恩人。私がフェンリルだと知っている唯一の人物」
三人とも「え?」と驚いた表情をした。いきなりその話をするのか、という考えが手に取るようにわかる。これが一番手っ取り早いんだから仕方ない。
「クライエン。この二人は、私の前の体の知り合い。私に届け物をしてくれた。おかげで少々厄介な事になってるけど」
「…もしやと思ったが、やはりかの……よろしくと言った方がよいか?」
ハティはさっきとは別人のような、いじめがいのありそうな強気の表情を見せる。
「は、よろしくする必要ねぇですよ。薄汚ねぇオーグルがフェンリル様のお世話を出来るなんて、一生の誉れとして死ぬがいいです」
「ハティ」
「はい!」
名を呼ぶと子犬のように駆け寄ってくるハティ。満面の笑顔でなかなかかわいい。けど、私はその柔らかい脇腹を指を立てて強めに掴んでやる。
「クライエンは本当に私によくしてくれた。家族と言っても恥はない位に。この私にそう言わせるというのは、どういう意味かわかる?」
「あだだだだだ、わかる、わかるです……フェンリルさま、内臓掴んでます、これ…」
逃げようとするハティを追い詰め、「ごめんなさい」と言わせ、お仕置きは終了。
「…このタイミングでお前さんに届け物…ちゅう事は、あの紺色のローブはやはり、フェンリルのローブ…でいいのかのう?」
彼は彼なりに結論を導き出していたようだ。わかっているなら、話は早い。
遊びは終わり。本題に入ろう。
「シトリの事が騎士団に知られた場合、彼女の無実を証明するにはあのローブが唯一の証明になる。アーデインやクライエンからしたら手渡すのが最良、と思うけど」
私が言うと、彼は視線を足元に落として、大きく息を吐き出した。
「そういう風に言う事はつまり、ポルタ、お前さんはそっち側、じゃな?」
線引きをされた。私側、つまり、スコル、ハティ、フェンリルの、ローブの持ち主側と、あくまでもシトリを救いたい、ローブ譲渡を考えている向こう側。
「…私はまだどちらでもない。なんでそれがここにあるのか、その経緯を聞いていないから。色だって違うし、偽物かもしれない」
「そんな!」
「ひどいですフェンリル様!」
二人とも詰め寄ってきそうな勢いだったけど、手のひらを見せて静止させる。ハティは憎らしげにクライエンを見て、低く唸った。
「先に言っておきますがお前等の事なんて知った事じゃねぇんですよ。あたし等は渡すべき人に渡すのが使命です。それがユフィールの願いですから、他人の手にこれ以上渡すわけにはいきません」
「……馬の人も同じ考えかの?」
スコルはネックレスを見せて、強い意志を感じさせる表情で言う。
「残念ながら。シトリさんの事は気の毒に思います。ですが、今まで手にした組織を僕等で潰してきたように、国の手に渡れば、全力で国を潰しにいきますよ。ハティにはそれだけの力がある」
「ヴァルキリー相手でも同じ事が言えるのかのぅ?」
ヴァルキリー。戦闘においてはトップクラスの魔族。そういえば、今この事件の調査に来ているとか言っていたか。天馬に跨る美女だとか、翼を持つとか噂があるけど、私は見た事無い。何を考えてるかわからない珍しい種族なのだ。
未知の敵に少し心配になったけど、ハティは少しも臆さずに返した。
「このハティ様にかかればヴァルキリーどころか、魔女相手でも余裕で潰せませすよ。魔狼と純血血統のヴァンパイアの力、なめんじゃねぇです」
空気が張り詰め、息苦しい時間が訪れた。私は手を叩いてそれを打ち破り、肝心なところに入る。
「血気盛んなのは昔から変わってないようで安心するけど、私にとって重要なのは二人がどうして、誰の差し金でこの場所に立っているのか。ユフィールは誰? ローブの色は――ハティ?」
ハティは、すごく悲しそうな表情をしていた。声をかけるとすぐに首を振って、笑みを作る。
「フェンリル様が覚えていないのは、無理ないです。覚悟はしてましたが、やはり寂しいなって思いまして」
「…ユフィールは私が会った事ある人?」
「はい。一度だけですが、その一度だけの出会いで、ヴァナルガンドはここまでやってきたんです」
「…ハティ、僕が語ろうか?」
心配するようなスコルに、ハティは再度首を横に振って、紺色のローブのある机まで歩いていった。
優しく抱き上げ、大きく息を吐いて、懐かしむように彼女は語り始める。
「このローブがこの色になり、手にする者を呪う様になったのは、一人の不幸なヴァンパイアの執念があります。フェンリル様、お願いです。この話を聞いて、尚も一人の人間のために手放そうとしないでください。ユフィールの生きた意味を、否定しないでください。お願いです」
彼女はそう私に懇願してから、語り始めた。
「そもそも、このローブは、フェンリル様の死後、転生を予見した魔狼族の総意によって上位の魔術によって生み出されました」
「魔狼族の?」
「はい。フェンリル様のご遺体は、廃都プロペディアからヤルンヴィドまで、キュクロプスという巨人の手によって運ばれてきました。その際に彼についてきたのが、ヴァンパイアのユフィールだったんです。キュクロプスは少し前に、ユフィールのいるヴァンパイアの村を攻撃してまして、魔王様の指示で彼女を保護していたんです」
キュクロプスの攻撃したヴァンパイアの村……あれ、私、たしか敗走するオーグル倒した。キュクロプスがあいつを逃がしたのはそういう繋がりがあるの?
「ユフィールはとても友好的なヴァンパイアです。それゆえというか、色々事情があって、他のヴァンパイアから孤立してました……えっと、過去に一度だけフェンリル様は背中に乗せて走られてるんです。覚えて、ませんか?」
「……覚えてない」
ハティは肩を落として落ち込んでしまった。魔王以外の誰かを乗せて走った事は何度かあるけど、ヴァンパイアを乗せたことは、ちょっと覚えてない。話の流れ的にプロペディアでの記憶のはずだから、そう昔の事ではないはずなんだけど。
「魔王様の提案で背中に乗せてもらい、短い時間ですが、色んなところを走ってもらいました。矢のように駆け、風景が次々と変わって、何よりも話に聞くフェンリル様に触れられて、嬉しかったんです。走り終わった後、フェンリル様に忠誠を誓ってるんですよ? 幼いなりに、こうやって」
ハティは私の前で傅き、深く頭を垂れる。なんだか、懐かしく、その懐かしさに身を委ね、私は右手を丸めたまま、彼女の左肩にそっと触れた。
それはかつての私が、相手を許すときにやる、意思表示だった。滅多にはやらなかったけど、だからこそ深く雪に埋もれた記憶を掘り出すきっかけになった。
「そういえば、どこかの崖の上で、子供相手にこんな事したような気がする。なんでか、私は不機嫌だったような…」
「まさにその記憶ですよ。引き継いだ記憶にも、ユフィール本人の口からも、幸せだったと言える、唯一の記憶です」
私にとってなんともない事なのに、唯一の幸せと言わせてしまうなんて、どれだけ不幸な子だったのだろう。
今聞くには重過ぎる話で、ハティもその辺りをわきまえてる様で、立ち上がり、話の続きをする。
「ユフィールはキュクロプスに保護された直後、そんな事もあったので、フェンリル様に会う事が楽しみだったんです。ですが、プロペディアに辿りついた時には遅かった。ユフィールにとって、唯一憧れていた方が居なくなってしまい、何よりこれからフェンリル様にお仕えできると楽しみにしていたので、とても悲しかったんです。せめてもの忠誠心を示すため、遠く離れたヤルンヴィドまで半ば凍りついた遺体を運ぼうと言ったのは彼女なんですよ」
彼女、とハティは自分の顔を示して見せた。笑うとかなりかわいい少女だから、どきりとしてしまう。私も少女だけど。不思議だ。たぶん魔王の影響。押し倒したい。
「到着した遺体について、埋葬すべきか魔道具にすべきか魔狼族の間で意見が割れました。ですが、最終的に実兄であられるクレイス様のご意向で、毛皮は魔道具に、骨肉は埋葬する事で皆が納得したんです。クレイス様の魔術を用いて生み出されたローブは、着る者にフェンリル様の力の一端を与える、魔狼族の宝となりました」
兄様。クレイス兄様。そうか、兄様の仕業だったのか。私が故郷から居なくなって何をしているのかと思ったら、魔術を極めていたのか。魔法について研究していたのは知っていたけど、魔術にまで手を出したか。兄様が妹である私の毛皮を使った作品なら、尚更手放すわけには行かない。
クライエンには、悪いけど。
「ローブは、ヴァナルガンドと名付けられ、ユフィールに譲られました。いつかフェンリル様に届けるために。そして、彼女の護衛のために、『支配の双牙』と『死我のネックレス』が作り出されたんです」
「…二人の遺骨から?」
「えぇ。魂が手放した記憶を寄せ集めて作った、とクレイスは言っていました。体を交換する時に自我が薄れやすいのは、魂と言える自我の器が、道具に結び付けられただけの記憶の集合体、つまり偽物だからだそうです」
つまり、二人はハティとスコルだけど、少し違う偽者という事。まぁ、既にだいぶ違うし、今更偏見とか沸かないけど。
「えっと、その後は本当に色々ありまして。分裂した魔族の抗争とか、次期魔王を決めるために魔族が人間の国に攻め込んだり…でもすぐに魔女戦争が起きて、とにかくみんな生き残るので精一杯になりました。その時にはヤルンヴィドを離れていたので、ヴァナルガンドの力に助けてもらう事もありましたよ。ユフィールは普段ヴァナルガンドを着ていたんです。フェンリル様の力と、ヴァンパイアの力で敵なしと言える強さでした。何人も魔女を殺しましたよ。ただ、その分目立ってしまい、本来の目的から逸れてしまったんです。それで、しばらくして古代遺跡の『クロノスの箱』という魔道具を使って、三人とも眠りに付く事にしたんです」
首を傾げると、説明の足りない部分をスコルが補ってくれた。
「クロノスの箱は中に入れた物の時間を止める箱です。ある錬金術が修理してくれまして、フェンリル様の魂が戻る時期に開くように、作ってくれました」
「眠るって言っても、入って出たらあたり一面草だらけになってたっていう、超不思議体験でしたが」
なにそれちょっと楽しそう。私も目覚める場所が死んだ場所と同じだったら、似たような事を感じられたのかな。
それも気になるけど、魂が戻る時期に開くよう、という言葉。それは私の復活の時期を知っていたような言葉だ。何かの方法で時期を知る事が出来たとしたら、同じ方法で魔王の復活時期もわからないだろうか?
悩む私をよそに、スコルが言う。
「おおよその時期しかわからなかったから、多少の誤差はあったんです。そこからはフェンリル様も予想がつくんじゃないかな。ギャップに戸惑いながら、三人で大冒険さ。遺跡から出るとき、世界は滅んでるかもしれないと思ってたんだけど、実に平和な世の中だった」
「デュナミスとかなんだよ! ズリーな! って感じでしたよ」
「人間と共存できてて驚いたよ」
「見た事無いもの山盛りですし」
「眼を疑う光景ばかりだった」
楽しそうな二人に、思わず笑みがこぼれる。その気持ちは、私もこれから味わうものだ。楽しみでもある。話を聞くことに専念しているクライエンの方を見ると、腕を組んだまま、あまり険しい表情はしていなかった。どこまで話を理解しているかわからないけど、今の二人の気持ちを想像するのは難しくないはず。
「…平和な時代にやってきて、ユフィールはたくさん笑ってました。彼女は普段から笑ってましたけど、こう、心から楽しんでるようでした。もうすぐフェンリル様に逢えるって、口癖になってました。心からの笑顔は本当に素敵で、本当はもっと昔にこうやって笑ってたんだろうって。だから、あの日、本当に、悔しくて……」
消え行く声。滲んだ涙に、ハティの、ユフィールの気持ちが伝わってくる。
「言わなくていい。私ももっと早く、今の時代にこれたらよかった」
ハティは強くローブを抱きしめた。今にも泣き出しそうな顔で。
「フェンリル様は悪くないです。悪いのは、守れなかった『私』です。彼女の事をもっと理解していたら、彼女の事をもっと深く知っていたら、あんな事にはなりませんでした。ヴァナルガンドが盗まれ、ユフィールが殺されて、私が体を貰った時、彼女の記憶が突き抜けて行って、最期の気持ちを知って、それで私は彼女がどんな風に生きてたのか知って、ユフィールほど強くない私は押しつぶされそうになって、それで――」
「てや」
やる気のない声と一緒に、彼女の口に指を突っ込む。がりっ、と軽く噛んだところで言葉も止まった。驚いた様子の彼女に、痛みを堪えて笑って見せた。彼女の後悔が消えるように。
「逢えてよかったね」
「…………はい」
大粒の涙をこぼし始めた彼女は、そのまま口をすぼめて血を吸い始めた。吸っていいなんて言ってないけど、まぁ、許してあげよう。この話は、ここで終わり。詳しい話はゆっくり聞いてあげよう。
ため息ひとつ。
「スコル。一応聞くけど、ローブがこの色なのは、ユフィールの願いのせい?」
イメージチェンジのために作ったときに染めました、てへーっ、みたいな事を言ったら兄様に文句を言う所。けど、スコルは頷いてくれた。
「姿を歪めるほどの想いです。フェンリル様、だからこそもう、手放したくないんです。どんな理由でも。どうか理解してください」
彼の視線はそのままクライエンへ。スコルの中には、どこか裏切るような気持ちがあるんだろう。
「……もちろん、私としてはユフィールの気持ちを考えてあげたい。それにコレは、兄様からの千年越しの届け物になる。兄様の名前が出たところで、もう疑う余地もない。故郷にろくに顔を見せなかった私に、兄様が、私を想って作ってくれたもの。正直にうれしい。みんながこうして届けてくれた事も」
ハティが抱えたままのローブに手を伸ばすと、紺色の靄のようなものが沸き立ち、私の手に絡み付いてきた。指先に絡まれただけで耳鳴りがして、そこに宿る感情が流れ込んでくる。ハティが身を引くと、すぐにそれらは波が引くように消えて行った。
悔しさと切なさの塊。それがどうやら、紺色の膜になってローブを覆っているようだ。
「…まさか、フェンリル様相手に憑り付こうとするなんて」
スコルが驚いたように言うけど、ハティはむしろわかっていたみたいだ。
「フェンリル様だからですよ。全部伝えたいんです。それこそが、呪いの根幹なんです。呪いが消えたら、ユフィールは本当に消えてしまうんです」
まじめな事を言って、ハティは再び私の指を咥えた。台無し。いや、悲しい感情を誤魔化すための行動だ。
きっと彼女は、呪いという形になってもそこにいる。ハティはユフィールの魂ともうじき別れる事に複雑な感情を抱いているのだ。
どうにかしてあげたいけど、どうすればいいのだろう。呪いを解くだけなら、私が触れるだけで済むかもしれない。ユフィールの未練が晴れれば、消えてしまうだろう。彼女の魂も一緒に。
歪んだ魂は、次の転生に耐えられないかもしれない。救う方法があればいいけど、わからない。
とりあえず、今は、決断しないと。
「…クライエンごめん。私はやっぱり、こっち側みたい」
指を引っこ抜いて、ハティの後ろに回って抱きしめて見せる。ハティとスコルは嬉しそうにしていたけど、クライエンは予想通り、困ったような表情だ。
「予想はしとったが、残念じゃ。一応理由をきこうかの?」
理由なんて聞くまでもないだろう。でも、聞かないと納得してくれない。だから聞いたんだ。
「千年前から私を追ってくるなんて健気。がんばった三人に私は応えてあげたい」
三人という言葉に、とくにハティが嬉しそうにした。尻尾があったら、膨らんで、激しく振られてるに違いない。もっと抱きしめろといわんばかりに体を押し付けてくる。ぎゅっ。
「…今の世の中、強い力などいらんかも知れんぞ?」
説得するような言葉は、やはり彼が向こう側だと証明してる。もう、私達の間には溝がある。
「なんの力が籠められてなくても、私はこっちを選ぶ。何を敵に回したっていいよ」
「………シトリはどうすればいいんじゃ? いや、お前さんはどうするんじゃ?」
無関係ではあるまい? そう言いたげな目だった。そう、無関係じゃない。けど、それがどうした。
私は優しい人間じゃない。同情はしてあげるけど、それが私の大切な物と天秤にかかるなら、関係ない。ずっと昔から繰り返した選択だ。悩んだら、苦しむだけ。
いくらクライエンでも――なんて言葉は、口にしてはいけないから、飲み込んだ。私の中に、未練がある証拠だ。
まだ、最良の手段というのを、探ってる自分が居る。
思いついている一つの事よりも、もっといい方法が無いか探してる。あるにはあるけど、これは、私の問題だ。
終わりにしよう。ポルタという少女ごっこは、もうここで終わりだ。
「さぁ?」
曖昧な返事をした。羊皮紙に包んだ、優しいナイフ。
「さぁって……元はと言えばお前さんらが持ってきたローブのせいじゃろ! 少し無責任すぎんかのぅ!」
羊皮紙なんて所詮、紙だった。突き抜けて刺さり、感情という血が溢れ出す。返り血を浴びる前に、私は彼のすぐそばにあった心を遠ざける。
「クライエン」
本音を露にした彼に、私は変わらない口調で言ってやった。
その心に刻むように。その心から思い出すように。その心が、離れるように。
「忘れないで。私はフェンリル。魔狼のフェンリル。この時代の皆が知っているような優しい存在じゃない」
ハティから離れて、スコルの腰に下がってた剣を抜く。誰もがその意味を理解できないうちに、私は笑みを浮かべて、クライエンに近づき、よく狙って、自然な動作で、そのお腹に剣を突き刺した。肉を貫く感触、なんとも嫌な感じ。
「……な…?」
驚きに見開かれたクライエンの目。大丈夫、急所は外れてる。死にはしない。痛いかもしれないけど。傷も浅いから大丈夫。皮下脂肪が多い事を期待する。
「何を、するんじゃ…」
苦しげな声。この声は、あまり楽しくない。伸ばされた手から身を引いて、遠ざけた。
「悪役でいいよ」
静かに告げて、剣を引き抜く。傷口を押さえてゆっくりと倒れる彼は、まだ理解できていないようだ。クライエンはそういうところがある。
「今までありがと。ばいばい」
お別れの挨拶。これが答えだ。
素直に逃げても、逃がしたって思われるだけ。せめて彼がそう思われないように、血を流してもらっただけの事。それがシトリの無実にも繋がるかもしれない。
彼なら、私がこうした理由もすぐにわかるだろう。時間さえあれば。そして、浅はかな考えだと、このフェンリル様を罵るのだ。
見上げる視線には、もう合わせない。
テントの壁を血の付いた剣先で引き裂いて、穴を押し広げるように外へ出た。
「二人とも行くよ」
「はい今すぐ行きますフェンリル様!」「ちょ、え? えっと、これ!」
スコルが赤い小瓶を苦しげに呻くクライエンに投げ、私の方へ。外に出てきたスコルに剣を返し、背中に飛び乗る。ハティは無数のコウモリになって、森の奥へと飛んで行った。
「さ、逃げよ?」
耳元で囁くと、スコルは私がやりたい事を理解したようだ。すぐに森へ向けて駆け出し、テントはあっという間に見えなくなってしまう。
呪いのローブは盗まれた。何者かの手によって。
=====
盗み聞きをしていたココナは、フェンリルがどうとか、そのローブの話が平然と語られ、「えー」と内心驚きまくっていた。田舎育ちのココナといえど、フェンリルがどんな存在で、その名を冠するローブがどれだけの力があるか、予測するのは簡単だった。
そして、そのローブこそ、ファソリの災害を引き起こした物だと答えを導き出し、同時に頭の回路がパンクしたのである。
報告したら昇格間違いなし、とか、つまり給料アップ! とか、そんな考えでパンクしたのだが。
挙句の果てに仲間割れが起きたようで、血のついた剣を持った少女が出てきて、その冷たい表情と、容姿に完全に思考停止した。あ、殺されるかも、と思ったのは一瞬で、彼女は結局ココナに気付かずにケンタウロスに乗って森の奥へ消えて行ってしまった。
呆然とするココナだったが、我に返ると、慌ててテントの中に駆け込む。入り口近くのベッド脇では、腹部を押さえて倒れるオーグルがいた。大急ぎで駆け寄り、荷物に常備している上位のポーションを取り出す。落ちている小瓶なんかより、ずっと治癒の力が強い物だ。体に備わっている治癒能力を高める事で、完治までの時間を短くしてくれる。
栓を切って口に押し当てようとするが、オーグルはココナの手を包み込むようにしてつかみ、それを止めた。
「お……お前さん、全部聞いとったのか?」
脂汗を浮かべ、苦しげに言う彼に、ココナは首がとれそうなくらいに、頷く。
「そのローブ、騎士団のものじゃろ? 頼む、この事は、フェンリル云々の事は内緒にしてくれんか?」
今度はぴたりと動きを止め、耳だけを動かして考える。
ココナの立場からすれば、強大な力を持つローブが、仲間割れの果てに持ち出されたというのは、イメロニア王国のみならず大陸の危機に繋がる。おまけに、話を思い返せば、フェンリル本人が復活してるとかなんとかだ。報告をしない、なんてありえない。
守護神の再誕。放っておく方がどうかしてる。大陸全土を震撼させる、大事件だ。噂に聞く守護神か、破壊神か、蜂の巣をつついたどころか、人だかりに放り込んだ位の大騒ぎになるだろう。
しかし、ココナは自分の手を強く握るオーグルに、なぜかソレが間違っているような気がした。その理由はまだ、わからない。
「頼む……頼む」
わからないが、必死の訴えに、間違いではないと心で感じたのだった。
ココナは一生懸命考えて、どうすればいいか考えて、ぎゅっと目を瞑り、最終的に、親指と人差し指を丸めてくっつけたひとつのサインをした。
オーグルは一瞬、明るい表情をした。一瞬だけ。
ココナが示したサインは、了承のサインではなかった。向きが少しおかしい。手の甲が下を向いていた。
それは、この状況において、金銭次第、という意味の、ハンドサインであった。
「…わ、わかったから、口裏合わせてくれるかの…?」
オーグルのクライエンは血を流しながらも、ポケットに入れている大陸共通紙幣の最も価値のある紙幣を、ココナに差し出した。彼女はそれを受け取り、激しく耳と尻尾を動かしながら、力強く頷いたのだった。フェンリル復活の事実が、金によって隠蔽された瞬間である。
ココナ・ロロンはアイドルなどと周りから言われているが、その中身はなかなかの、守銭奴である。
かくして、騎士団の信頼できる事務員という、最高条件の証人が、クライエンについたのであった。
*次回更新は7/15(金)を予定してます。




