奇怪な爪跡
ガッファス・グラントン。父はタルゴーツ。母はタエニア。十六年前にファソリの町の小さな診療所で生まれ、どこにでもある普通の家庭の一人息子として育った。
父のタルゴーツは少し変わり者だ。若い頃に騎士を目指し、諦め、職人を目指し、諦め、冒険者を目指し、諦め、商人を目指し、諦め、自暴自棄になって下着泥棒など始めたところ、うまく行き、なぜかそれで金を稼げてしまい、騎士に捕まった。
下着を盗み、男に売るという最低な仕事をしていた父を捕まえたのは、当時、騎士見習いだった母のタエニアだ。父に比べればずっと真っ当な生き方をしていた母は、父の悪行を現行犯で捕まえておきながら、いったいどんな奇跡が起きてしまったのか、騎士を辞め、その父と結婚。今じゃファソリで小さな服飾店を経営する事になってる。
今じゃ父は下着泥棒の経験を生かし(いやな生かし方だが)女性向けの下着のデザイナーとして活躍している。有名、という訳ではないが、際どい、が売りとか本人は言っていた。一度父のデザインした下着を見せてもらったことがあるがはっきり言って、刺激がかなり強い部類のものである。
そんな二人の間に生まれたガッファスには、歳の近い友人が町にいない。みんな五つは離れていて、畑や蜜蜂の世話が忙しく、一緒に遊んでくれる相手はいなかった。おかげでガッファスは一人遊びの達人になってしまったが、唯一、幼少の頃にずっと歳の離れた人間の少女、シトラトリ・シトリが、一緒に遊んでくれていた。女の癖に冒険者ごっこで遊んでいたのだから、嫌でも覚えてしまう。
やがて時間が過ぎて、シトリが本物の冒険者になり、町を出て行くといつしか自分も冒険者になって彼女を追うんだと、夢に描いていた。両親はどちらも旅暮らしをした事があり、冒険者になる事自体には、決して反対はしなかった。けど、シトリの両親が病に倒れ、彼女が戻ってきて、そのまま冒険者をやめてしまうと、ガッファスは自分の夢が消えてしまったような気がしていた。
十三歳の頃、夢の残骸を追うように、昔と同じように一人で遊んで、トロールに攫われてしまった。恐ろしかったけど、その時命がけで助けてもらって、冒険者がどんなものか、よく理解した。
誰かのために戦う。誰かのために勇気を出す。それが、とてもかっこいい事だと知った。こうして夢は再び冒険者だ。
あれからさらに三年。母に剣の手解きを本格的に受け、冒険者組合の授業に毎日通い、他の冒険者の話をまじめに聞く日々を送った。組合の仕事の手伝いだってした。あとは本格的に冒険者から手解きを受けたいな、と思っていたら、シトリにアーデインを紹介されたのだ。
彼ほど生き残る事に長けた冒険者はいない、と。そろそろ時期的に来る頃だから、声をかけてみるといい、と。
だからあの日、声をかけた。まさか本当に師匠になってくれるなんて。たまにどうしようもなく、ダメな時があるけど、それでもガッファスは、嬉しかった。
約束の一ヶ月が近くなるにつれて、きっと自分も近いうちに旅立つだろうとは考えていた。だけど、シトリのように旅先で両親の不幸を知ったら、と思うと怖かった。今なら引き返せる。夢を捨てて平和に暮らせる、と。それだけガッファスは両親の事が、好きだった。
反抗期など知ったことじゃない。好きなものは好きなのだ。誰になんと言われようとも、母の豪快な声や料理、父の自慢話や馬鹿げた世界観を聞くのは、冒険に釣り合うだけの確かなものだった。小さな町でも、それが確かな幸せなんだって、知っていた。
全部失ってから気付いたシトリに、教えてもらった。
でも、それでも。
ガッファスは冒険者になることを選んだ。それが、応援してくれた両親への、感謝の気持ちになるから。
冒険者になる事を後悔している、シトリを元気付ける事に繋がるから。
だから、勇気を出すのだ。
町の危機に、命を賭ける。ガッファスの冒険は、ここから始まる。
「うげぇぁッ!?」
巨大な氷の柱が倒れ、地響きが立て続けに起こる中。はっきりと聞こえた呻き声にガッファスは体がかっと熱くなった。
彼の目の前ではリュックサックを背負ったアルビノゴブリンが、紺色のローブを纏ったバケモノに体当たりをされて吹っ飛んだところだ。
「師匠!」
アーデインはクロスボウを使う後衛だ。どれだけ彼が冒険者としてベテランでも、クロスボウが変化するほどデュナミスが育っていても、一人で戦うには無理がある。そう思って戻ってきたら、案の定である。
リュックサックから地面に叩きつけられ、そのまま器用に受身を取るアーデイン。その目はこちらなんかには一切向かず、矢の無いクロスボウを、まっすぐ駆け寄る敵に向ける。
「ヴォルテックスディジャーダ!」
空気を引き千切る翡翠色の風が渦巻き、腕で防御をした夜の欠片が踏みとどまったのは一瞬。すぐに後ろに吹き飛ばされた。相手の手についていた氷の爪は今やぼろぼろになり、ローブのフードもあちこちが擦り切れてる。背中から落ち、転がる勢いで跳ね起きて、頭を振って忌々しげに唸った。
「ガッフ! 手伝え!」
邪険にするかと思いきや、アーデインはすぐに助けを求めた。ガッファスはすぐに剣を抜き、間合いを詰めに入る。
夜の欠片の注意を引くため、ガッファスは剣を振って挑発した。不気味な殺意がこちらに向き、さっきの二の舞にならないように気を引き締める。相手は身を低く屈め、獣の動きで様子を伺い始めた。
「で、どうすんの? 逃げんの?」
緊張を紛らわすためにも軽口を叩くと、アーデインも口の端を持ち上げて矢を装填。
「逃げるほどのもんじゃねぇって。これだけの事やってくれたんだ。なんとしても捕まえんぞ」
確かに。大好きなファソリの町にこんな観光名所になりそうなものを作ってくれたんだ。お礼くらいしないと。
そう考えている間に、夜の欠片のすぐ後ろに太い柱が倒れてきた。腹のそこから響く地響きと埃を立て、揺れが収まらないうちに相手は動き出す。
ガッファスに向かって右、左と飛び、獣の動きで飛び掛ってくる。爪と露出した口で食いかかってくるそいつを、ガッファスは剣を掴ませることで防ぎ、そのまま体を捻って後ろに受け流した。霜のついた草の上を滑って行き、そのままそいつは忌々しげに地面を手で叩く。
うまくいかないことに腹を立てたのか? と思ったのは一瞬。ガッファスの足元に青白い魔法陣が浮かび上がり、鋭い氷の柱が突き出てきた。大丈夫、焦るな。後ろに飛び退き避けるが、待っていたかのように続け様に三回、足を踏み込んだ場所から氷の棘が飛び出した。
最後の一本を掠りながら避けるが、次の瞬間にはもう、敵は目の前に迫ってる。いつの間にか生み出したのか、手には氷の戦斧。やはり、造形ができる魔法は応用の幅があって、相手にするには厄介だ。アーデインが散々言っていたことだ。氷のデュナミスや魔法の使い手は、人でも魔物でも、油断するなと。
だけど、こちらは二体一だ。ガッファスは冒険者見習いだが、この一ヶ月散々訓練したのだ。味方との合わせ方、という奴を。やり方は簡単。信じるだけだ。
アーデインが放った矢が戦斧の柄を打ち、肝心な刃が振られる前に地面に置いてけぼりにされる。攻撃が完全に空振りになるとわかれば、怖くなんて無い。相手が行動を切り替える前に、ガッファスは剣を振って相手の足を切り裂いた。
「ぎぃ…」
ローブの下から呻き声が聞こえ、あからさまに動きが鈍くなる。相手の爪が閃き、ガッファスは身を屈め、足払いを下がって避けだ。僅かな距離をアーデインの魔法の風の渦がさらに広げる。向こう側が歪んで見えるほどの渦はすぐに消え、顔面を覆っていたフードの黒が少しだけ薄れた。即座に避けたようだったが、掠ったようだ。
見れば、ローブの裾や袖は最初に見たときよりもずいぶん短くなってる。フードもいまや、顎の線が見えるほど、闇が薄くなっていた。
「傷つくと力が弱まるのか?」
聞くと、少し余裕が出てきたらしいアーデインが明るく答えた。
「そうだ。へへ。とんでもねぇ力を持ってたみてーだけど、やっぱ魔法は魔法だ。トークンによる魔力の補充が無けりゃ、すぐに底が尽くんだよ、な!」
乾いた音と共に矢が地面に刺されば、灰色の魔法陣が相手の足元に浮かび、敵が飛び退いた直後にガシャガシャと金属音を立てて鉄の檻が現れた。完成した檻はカラッポのままその場に転がる。
「ち、まだか」
そんな便利な魔法があるなら最初から使えよ、と言いたいところだったが、便利な魔法ほど支払うトークンの価値が上がると聞いているから、文句は言わない。それに再使用時間、というのもあって連射できるのはそういう風に組んだデュナミスだけだと聞いた。
魔法は便利だから魔法だが、制約があるからこそ真価を発揮できる。相手も、災害級の魔法を使ったからこそ、反動が今になって来ているようだ。
何度目かの地響き。見上げれば、綺麗な山の形をしていた氷の山脈は、柱を寄せ合って出来ていた形状のため今や大部分が倒れて、遅れて育った密度の低い外側の方が大きくなってる状態だ。倒れ、積み重なった柱ばかりが増えて行く。中心に近いこの場所は、柱の密度が高いためか斜めになったまま止まっている柱が多い。それの上のほうがいきなり折れて降って来て、かなり危ない。太いくせに、脆いのである。
ガッファスとしては北側、つまりは町の南側の柱が町に倒れないかが心配だ。目の前の奴を倒せばこの氷が消える――までは無理かもしれないが、成長を止めるくらいは出来るだろうと思っている。だから。
「一気に攻める!」
焦っていい相手じゃない。けど、消耗してるなら今しかない。
ガッファスは足の傷を押さえる夜の欠片に一気に近づき、低い大勢から一気に切り上げた。やはり相手は気付くのが一瞬遅く、剣を受けるのはぎりぎりになってからだ。両手で掴まれた剣は振りぬくことも引き抜くことも出来ないが、飛んできた矢が相手の肩に突き刺さり、力が緩んだ一瞬で押し返し、相手の頬を浅く切った。このまま一気に――。
「ガッフ下がれ! もういい」
畳み掛けようとしたが、ガッファスは言われた通りに半ば凍りついた地面を蹴って、後ろに下がった。相手は肩を押さえ、ゆらゆらと左右に揺れたかと思うと、あっさりとその場に倒れてしまう。
「麻痺の矢だ。大型の魔物も痺れてうごけねぇ。たく、矢を一本当てるだけで金貨一枚分使っちまったぞ」
アーデインが隣に並び、ガッファスは息を吐いて剣を鞘に収めた。倒していい魔物と違って、殺してはいけない戦いは、初めてだった。切る時も、足のほうは結構深く切ってしまった。
「じゃ、このローブ脱がせれば終わりってこと?」
単純なことを口にしたが、アーデインは首を横に振って答える。
「おれっちもわかんねーけど。とりあえず拘束して、あのぶっ飛んできた奴……たぶん先に戦ってたあいつが目を覚ますの待った方がいいだろ」
荷物を降ろし、アーデインは縄を取り出してガッファスに渡す。
「縛るくらいできんだろ? お前が来なきゃジリ貧だったんだ。お前の手柄にしてやる」
まったく偉そうに。と、思う一方で来た事に怒られると思っていたから、鼻が高い。小躍りしそうになるが、顔を引き締めて、やることをやる。
全身を覆い隠していた紺色のローブは、宿主が意識を失ったためかいくらか縮んで、内側の服とかが見えていた。声でなんとなくわかっていたが、やはり女性のようで、ローブの裾からロングスカートが見えている。足の傷は、こうしている間にもスカートを赤く染めていて、結構やばいことが伺える。縛ったら、治療が必要だろう。
ガッファスは、興味本位で顔を隠してるフードに手をかける。一応アーデインの方を見ると、彼も興味があるようで、頷いて見せた。
一体どんな人が、こんな不幸なローブを手に入れたのか。端を摘んで、一気に脱がす。
「………………え?」
現れた顔に、ガッファスもアーデインも目を見開き、呆然とする。ローブを纏っていたのは、二人が良く知る人物。それどころか、ついさっきまで『探していた』人物じゃないか。
シトラトリ・シトリ。栗色の髪をした、元冒険者の女性。誘拐されたと思って探していた彼女が、なぜ?
顔を見合わせ、混乱する頭を必死に動かす。けど、彼女の事を良く知る二人だからこそ、こんな危険なローブに手を出すとは思えなかった。陰謀や彼女の暗い一面など、様々な憶測が浮かぶが、浮かびすぎて二人の思考は停止寸前にまで陥る。
さらに遅れて、頬や足、肩に傷を作ったことを思い出し、罪悪感が二人を襲う。ガッファスは昔からよく知る優しい彼女を傷つけた事に。アーデインはこれから嫁入りするかもしれない女を傷物にしたことに。特に頬の傷を見て、青ざめていた。
このまま縛り、町に連れて行って『事件の犯人はこいつ』と突き出すわけにも行かなくなった。かと言って、隠蔽できるような規模の事件じゃない。これは『災害』だ。こうしてる間にも地響きが起こり、遠くから悲鳴が聞こえた。
冷静になれる頭じゃないが、二人は遠くの悲鳴に必死に頭を動かして、今やるべきことをやる。
「と、とにかく治療だ。ガッフ、ひっくり返せ。足の傷がやばそうだ」
「う、うん」
アーデインとガッファスは協力してまずはうつ伏せのシトリを仰向けにしようとする。
「馬鹿! そっちじゃ矢が刺さってるだろ! 逆だ逆!」
「ごめん!」
とりあえずなんとかひっくり返し、アーデインは取り出した包帯で、ガッファスが深く切ってしまった足の止血に入る。
「師匠、あの、ポーションとかないの?」
「ある。小分けになってるから見つけてくれ」
ガッファスもその間に師のリュックをあさり、内部で小分けになった中から赤と青の小瓶を見つけた。赤は回復、青は回復効果を解除し、本格的に治療をするための薬だ。ポーションの効果中では、傷が消えているので治療ができない。自然治癒できる傷ならポーションの効果で十分だが、そうでない場合は一度解除する必要があるのだ。
赤いポーションの封を切り、シトリの口に流し込む。仰向けで飲まされてむせやしないかと心配だったが、細い喉がこくりと鳴って、頬の傷が淡い緑の光に覆われて、共に薄れて行く。これでひとまずは、安心だ。
「…あれ? ポーション飲ませんならおれっち止血の必要なくね?」
根本的なところに気がついたアーデインは、ガッファスと顔を見合わせて、笑った。笑うことで、今の状況を冷静に判断する余裕が出てくる。訳のわからない状況だが、シトリが見つかった事と、元凶を止めた、という安心感からだ。
「で、どうすんの。おいら達だけで運ぶのって、結構大変だと思うけど」
「あぁ、そうだな。誰か人を呼んで……あ、シトリ。気がついたか?」
シトリの目蓋が小さく動き、二人はさらに安堵する。体が痺れて動けやしないはずだが、アーデイン、ガッファスの順で見た彼女は、微笑んで、震える手でガッファスの腕を掴んだ。
そして。
『凍て付け』
短く、そう唱えた。
「うぎっ!」
手首から軋む音が響き、ガッファスの肩までが一気に凍り付く。熱さに似た感覚が頭の中で弾け、ガッファスは出せるだけの悲鳴を上げた。
「ガッフ!」
立ち上がり、シトリの手を離そうとしたが、次の瞬間には寝ている体勢から強烈な回し蹴りがアーデインの頭に直撃し、半分凍った草地を激しく転がる。そればかりか、なんの躊躇いも無く、凍りついたガッファスの腕を捻り上げ、あまりにも軽い音と共に、彼の腕を、折った。
小枝か何かのように。
「あ……う……」
半ばから腕が取れる、という光景にガッファスは真っ青になる。直後、彼の喉に強烈な爪先蹴りが入り、アーデインの横にまで飛ばされ、気を失った。
左腕を失ったガッファスを見て、アーデインは身が内側から焼かれる思いだった。シトリの体を乗っ取ってる化け物を睨むと、苦しげに体を揺らしながらもその顔は、歪んだ笑みを浮かべていた。決して、彼女が浮かべない笑みを。
麻酔の矢が完全に効いたのか、眠たげに目蓋を閉じ、開き、もう一度閉じると、その場にゆっくりと倒れて行く。やり場の無い怒りに拳を強く握るが、次の瞬間には怒りなど忘れていた。
「シトリ!」
彼女が倒れた直後、頭上から氷の砕ける音が聞こえ、折れた氷の柱が振ってきたのだ。アーデインが足を踏み出した頃には、置きっぱなしの荷物ごとシトリは、押しつぶされる所だった。手前から先に覆い隠され、息が詰まる。
知らずうちに左胸に入れている守護神のお守りを服ごと強く握り締めていた。泣き出しそうな顔で奇跡を願い、地響きと破片が撒き散らされる中、自身の心臓が一瞬だけ止まったのを、アーデインは確かに感じ取った。
呼吸ひとつ、ふたつ。卒倒すらしそうな絶望的な状況の中、アーデインはふらふらと前に踏み出す。
倒れた柱の下に、赤い血溜りが無いだろうか。シトリの腕が見えやしないだろうか。体の一部が、あったりなんて。
怖い想像ばかりをして、短く呼吸を繰り返しながら、奇跡的に残った自分の荷物の場所にまでたどり着く。愛武器、ディーヴァと荷物は、無事だ。本当に、あと一歩こちらに落ちていたら、潰されていた。
でも、奇跡が起こるなら。
ディーヴァを失っても、良かった。
氷の柱は、シトリが直前まで倒れていた場所を、覆い隠していた。
奇跡はもはや、起こらない。柱が割れていて、その間を縫うことで助かったとか、僅かにずれたとか、そんな希望を抱けるほど細い柱じゃない。おまけに、深く地面に埋まってる。そうとう重いのだ。こんなものに押し潰されて、生きていられるわけ無い。
もはや、アーデインは何を考えればいいのか分からなかった。何に許しを請えばいいのかも。
「…またか」
無意識に呟く。
「また、俺のせいか」
見上げた月の色が、元に戻っていく。その月がじわりと滲む。その時だった。
「やぁ、こちらがシトリさんかな?」
奇跡は、示された。
折れた柱の隙間から、パッカパッカと足音を響かせながら、派手な格好のケンタウロスが現れる。
その腕には、今し方死んだと思っていた、シトリがぐったりとした姿で抱かれていた。あまりの事に、アーデインは夢でも見てるんじゃないかと疑った。
「おま…え、どうして?」
「おっと勘違いしないでおくれよ? 僕は君を助けに来たんじゃない。ガッフ君を連れ戻しにきた……んだけどもね」
アーデインの前までやってきた彼は、倒れた柱の、まさにアーデインがシトリが潰された、と思っていた場所を見る。
「こちらの女性が潰される瞬間、誰かが彼女を突き飛ばしたみたいだよ」
彼の言葉を理解するのに、呼吸三つ必要だった。
「…誰か? みたいって、どういう事だ?」
「僕も、見えた訳じゃない。けど、柱の反対側にね。千切れた腕があった。残念だけど、ぺしゃんこだと思う」
今度こそ、アーデインは全身の力が抜けてしまった。犠牲になった誰かがいる、という事も理解しているが、圧倒的に安心感の方が、大きかった。口の端が、ひきつってしまう。
よかった、とは言葉にしなかった。左胸のお守りを握って、ありがとう、と心の底から感謝を捧げる。その様子を見て、ケンタウロスは悲しげに目を伏せた。
「…これはその人の遺品だよ。落ち着いたら、ちゃんと関係者を探すんだ。いいね?」
シトリを抱えていた手にあった、動物の牙を使ったネックレスをアーデインは受け取った。軽いが、その存在がずっしりと重い。
「さぁ、はやくこの場を離れようじゃないか。ガッフ君の事も大変だ。これから忙しくなるよ」
「……あぁ。急ごう」
もう一度、顔も姿すら見れなかった誰かに心からの感謝をし、アーデインとケンタウロスは気を失ったガッファスを拾い上げ、走り出す。
柱の一本がファソリの町へと倒れて行く。これから、どうなるってしまうのだろう。確かな不安を抱えつつ、今は、無事に避難する事だけを考えた。
ファソリの魔法災害。後に『月の涙』と呼ばれるこの事件は、大陸に大混乱を招く事件の、最初の一つになる。
この日から少しずつ、世界はおかしくなり始めた。
大変なのはきっとここから、です。
*次回更新は三日後、7/3日曜日です。ちなみにこの更新日のお知らせはいつの間にか消えます。




