不安と不満
私は自分が誰だか少し忘れていたみたい。ほんと、ばかみたいだ。
「きもちわるい……」
顔色を真っ青にした女の子がガラスに映ってた。向こう側はやたらとお洒落に着飾ったマネキンがポーズを決める専用舞台になる。気を紛らわすために動きもしない彼女達を眺めていたけど、やっぱり限界で、そこに背中を預けてずりずりと滑って、蹲った。それからゴミが一杯の地面に視線を落として、肺の空気を全部搾り出す。
人、人、人。人間もゴブリンもコボルトもエルフもオークもドワーフも笑いながら往来するのは全然構わないんだけど、ちょっと多すぎる。ほんとに平和になったなぁ、なんて感慨深さは最初の一分だけだった。
南から町の中心部に差し掛かった私は、気がついたら一人で歩いてた。クライエンだと思って追ってた背中はいつの間にか知らない誰かのものになってて、振り返ったときにはもう現在地を見失ってた。町の構造を頭に入れてあるから戻ればいいや、と思ったら人が多すぎて道のぶつかってる場所がわからない。南大通りにどうやっても帰れないのだ。結界が張ってあるようにしか思えない。
馬車が二つやっとのことですれ違い出来そうな狭い道に、たくさんの人が行きかってる。そのくせ馬車が通りそうになると道を明けて、すぐに埋まって行く。馬車が通った後ならいけるかな、と思ったのだけど、もみくちゃにされて終わりそうだからやらない。
だから人ごみから離れた場所にあるお店の前で待っているのだけど、クライエンはちっとも見つけてくれない。大きな体だからたぶん動けずにいる。人ごみって怖い。魔境。
時々前を通る人が私に視線を投げていた。心配してるのか、それとも人混みに酔った私を笑ってるのか、どっちにしても見世物じゃない。私はそんな彼らを強く睨んで追い返した。
空はゆるゆると赤みが差して、すぐに暗くなり始めた。方角的に私がいるのは西の大通りみたいだ。等間隔で置かれていた柱――街灯に柔らかい橙色の光の球が宿って、夜の始まりを知らせてくれる。疲れた精神には時間が何倍も早く感じた。
暗くなっても人混みはなくならない。むしろ馬車が少なくなって大きく膨らんだようだ。離れた場所にいたと思ったのに、今じゃ人混みの末端にいる。でも動く気にならない。肉体よりも精神が疲れてた。
魔狼だった頃、私が通る度に道を空けてくれた時代が懐かしい。そうでなくてもこの中に突っ込めば、草を踏み倒すみたいに道を自由に作れた。そもそも飛び越えられる。
今じゃそんな事もできない弱い体。いっその事、私がフェンリルだって証明して信仰の対象になってやろうかな。そうしたらきっと我侭も言い放題だ。生贄にはかわいい女の子をお願いします。
はぁ、なんだかもう人を見たくない。考えてみれば私は特別他人が好きっていうわけでもない。むしろ嫌いだ。町に行く、なんて話で少しわくわくしてたけど、町って人の住む場所だった。
膝を抱えて額を膝に当てて、目を閉じて自分をそこから切り離す。誰かが私の足を蹴った。もっと小さくなる。小さくなりすぎて、近くで慌てて踏みとどまる気配を感じた。
「なにこの子邪魔」
誰かがそう言ってどこかへ過ぎて行った。邪魔、邪魔なのはどっちだろうか。こんなにゴミゴミ密集して、好き放題歩いて、そこら中で立ち止まって。そもそもなんで局地的に人が集まってるのか理解不能。町の真ん中で歩きながら喋ってるだけにしか見えない。みんなさっさと散ってほしい。
「…はぁ。クライエン探さないと」
少し頭がぼぅっとするけど、このまま蹲ってても何もないのは確かだ。こういう時、過去の自分との差異にがっかりさせられるけど、心まで弱気になってたら本当に人間になってしまう。ニンフかもしれないけど。
ふらふらと行き交う人の中を歩き始める。私の身長だと背の低い種族も背の高い種族も丁度いい感じに見れる。そのせいで余計に人混みが多く見える。その中で見慣れた大きな体を捜すのはやっぱり大変で、突然立ち止まる前の人にぶつからないようにするのが精一杯だった。そして、危ないと思って急制動をかけると後ろからぶつかられる。理不尽。
「いきなりとまんなよー」
若い人間の二人組みがそう文句を言って後ろから追い抜いていった。思わず舌打ち。文句を言った奴が振り返ったけど、私は壁際に逃げるように寄って、そのまま一番近くの路地に入った。
薄暗い路地裏は冷たい空気が流れてて気持ちがいい。さっきまでごみごみして、誰かが吐き出した息を吸い込んでるような嫌な感じは無くなった。大きく深呼吸して振り返れば、建物に切り取られた人の波が見える。
クライエンを探すには、あの石の額縁に切り取られた景色に流されなきゃいけないのだけど、もう嫌だった。みんな楽しそうに笑ってるのに、私は少しも楽しくない。不愉快なだけ。あそこに戻るんだったら、知らない町で迷子になったほうがましだ。
路地裏は窓から漏れる光で照らされて結構明るい。その中を歩くと、下品に笑う人の声が聞こえた。会話に耳を傾ければ今の時代の話が聞けそうだけど、きっと下らなくてなんの実にもならない話だろう。私はそのまま静かな方、暗い方へと進んで行く。
あぁ、これも私の悪い癖だ。喋れなかった私は誰かが楽しそうに話している中に混ざっているよりも、一人でいる方が好きだった。嫌な気持ちになってるときは誰かの声なんて聞きたくなくて、誰にも気付かれないうちに逃げ出してしまう。でもそうやって一人でいると、決まって魔王が傍にきて、くだらない話を好き勝手に喋ってくれるのだ。返事なんてしないってわかってるのに、一生懸命話してくれる。私のために。あれ、なんか泣きそう。
窓から漏れる光が少しずつ少なくなって、ひとつも無くなった頃。私は路地を抜けて、町の外に出てしまった。
冷たい風が通り抜ける草原は、人混みに酔った体には丁度よかった。空はいつの間にか曇ってて方角なんてわからない。高い所に行けば何かわかりそうだけど、このまま真っ暗な草原に出るのは、少し怖かった。暗闇そのものが怖いんじゃない。あの中に向かって進んでしまったら、本当に、一人になってしまう気がした。
もし、そうなったら、すぐに魔王が来てくれるんじゃないかな……なんて、本気で考えてしまう。
アーデインやクライエンは私によくしてくれる。けど、やっぱり、何か違う。いっその事、もう死んでるから会えないって割り切れればずっと楽だった。でも魔王は魔王だから、今も世界のどこかにいるかもしれない、これから会えるかもしれないという期待が私を苦しめていた。
この一ヶ月、何度も何度も感じた切なさ。それが疲れた精神に重なって、何倍も強く感じてしまう。
誰かに話したらこれはきっと恋心だ、とか言われてしまいそう。けど、違う。私はただ、五百年一緒にいた自分の半身を見つけて存在を感じたいだけ。魔女によって理不尽に殺された事よりも、引き離された事の方が悔しいくらいに。
あの魔女め。私が死んだ事で何が私のためになったのか。何一ついい事なんてない。千年後の世界なんて、放っておいても見れた。魔王から引き離して、前の体は勝手に使われて、今の体は弱い人の姿で、魔法のひとつも使えなくて、覚える事ばかりで、知らない事ばかりで、わけのわからないことばかりで、気に入らない事ばかりだ。
これから楽しい事で埋めていけばいい? 無理だ。楽しいで心を埋めるには大切な思い出が多すぎる。優しい人と出会っても、大切な存在の代わりになるわけでもない。もっと大切なものを見つければいいなんていう奴がいたら、噛み殺してやる。そんな事をしたら、そんな事をしてしまったら、私は私を信頼してくれた魔王を裏切る事になる。何より今までの自分を否定する事になる。
傍にいることも、どこにいるかもわからない、魔王のために、今の私が唯一できる事。それは自分の無力さをかみ締めて、地団駄を踏んで傍にいたいと願い続け、心だけは傍にあると自分自身に証明する事だった。そうしていないと、私は、ただの女の子になってしまう。
私はフェンリル、魔王のためにある者だ。ただ、それだけの存在。今も、昔も。
なんでか悔しくてぼろぼろと大粒の涙が出た。情けないけど、この悔しさも涙も魔王に捧げるものだ。この贄が、少しでも届けば、すぐにでも会える気がしてる。
だから涙を止めようなんて思わない。思っちゃいけない。体が干からびるまで泣いてやる。この苦しみさえも望むなら、捧げてやる。少しでも届けと願いをこめて、私の心を示してやるのだ。
何度も何度も押し寄せては強くなっていくこの衝動は、きっと大きな手がかりを掴む日までは続くのだろう。構わない。心が狂うほどに、求めてやる。
だから今は泣く事にした。叫ぶ事にした。みっともなく、会いたいと。
なのに――
「あ、やっと見つけた!」
甲高い声に、喉の奥の熱が奪い取られる。
振り返ると、息を切らしたコボルトがいた。子犬の顔をした二足歩行の、聖剣を作る手伝いをした、裏切り者の一族。
「えっと、ポルタ、だよね? おいらガッファス。その、クライエンがあんたの事探してて――」
ガッファスと名乗ったコボルトはへらへらと笑いながら私の前までやってきた。まだ静まりきらない衝動がそのまま怒りになって、体の内側を焦がす。
当り散らしてやりたい気分。
「…――く」
「え? 何?」
「気安く私の名を呼ばないで…!」
睨んで、牙をむいて言ってやったのに、愚かなコボルトは意味を理解してないみたいだった。私は彼の腰にぶら下がってた剣を引き抜いて、鈍色の刃を首に当ててやる。剣の扱いは初めてだけど、まずまず。手が滑ったら喉を突いてしまいそう。滑りそう。滑っちゃうかも、これ。
「うわ、わわわわちょっと!」
一拍置いて慌てて下がった彼は石に躓いて尻餅をついた。そのままずりずりと下がろうとするから、細い足を踏みつけてやった。
「痛い痛い! 足踏んでる! 踏んでるよ!」
「…踏んでるのはわざと。それとも折ってほしい?」
足に力を加えると、コボルトはキャンキャンと泣き喚いた。大丈夫、まだ折れてない。まだ、まだまだ。もう少し。
「まって! まってよ! おいらほんとにあんたを探してただけだって! 二人とも心配してたよ!」
「そう。わかった。ごくろうさま。それじゃ、死ぬ?」
もう一度剣先を喉につけた。涙目で今にも泣きだしそう。
「うわわわ! なにこの姉ちゃんやばいってか、やめてー! ほんとに死ぬから!」
ふふふ、必死なコボルトかわいい。もうすこしいじめたいけど、中途半端に泣いた気だるさが押し寄せてきた。なんか頭痛い。顔が熱い。
「はぁ、なんかつかれたな。すごい、つかれた」
なんだか足がふらふらする。剣を放り投げて、薄暗い道に足を向けた。今日はもう、このまま寝てしまいたい。何か考えるのも億劫だった。
少し進んだところで振り返って、胸を撫で下ろしてるコボルトに言ってやる。
「はやく案内してくれる?」
「…は、はい」
私はフェンリル。今は人の姿をしてる。戦う力は失ったけど、こんな私でも魔王は必要としてくれるだろうか? 今はそれだけが心配だった。
見上げた空は星の一つも見えない曇り空。町は期待してたよりもずっとつまらなくて、千年後の世界は思ってたり肌に合わなくて、私にとって不満ばかりが募って行くような世界だった。
ポルタは少し疲れているようです




