4章 天王山
土手はわずか十二日で完成した。その完成を待っていたかのように、翌日は大雨となった。増水した川の堤を切ると、水が一気に高松城に流れ込んでいく。一夜にして、高松城は「湖に浮かぶ城」となり、孤立してしまった。
「こうもうまくいくとは。」
秀吉は上機嫌だ。一方、当の官兵衛は、特に誇る様子もなく、静かなものだ。その落ち着きぶりが、ナツカゲにはまぶしくうつる。
「そうじゃ。ナツカゲ。信長様から書状が届いての。じきに京をたつとのことじゃ。信長様がこちらにいらしたら、いよいよ毛利との決戦じゃ。」
「信長様が。」
ナツカゲの声もはずむ。備中に来て一月あまりが過ぎている。さすがに、ナツカゲは信長が恋しかった。一刻も早く、信長様に会いたい。けれど・・・ナツカゲはそっと官兵衛を見た。信長に会いたい思いに偽りはない。だが、信長が備中に到着したその時は、ナツカゲは信長の下に戻らねばならない。それは官兵衛との別れを意味する。許されるなら、今しばらくは官兵衛と共にいたい―なぜかその思いがナツカゲを支配しようとする。
「では、これにて。おやすみなさいませ。」
ナツカゲと官兵衛は、秀吉に挨拶すると、それぞれの陣に戻った。ところが、その夜のことであった。ナツカゲは再び秀吉の陣に呼び出されたのである。ナツカゲに少し遅れて、官兵衛も陣に入ってきた。
「ナツカゲ・・・」
秀吉の目が真っ赤だ。泣いていたようだ。
「ナツカゲ。心して聞け。信長様が・・・信長様が・・・みまかられた・・・。」
「信長様が・・・死んだ!?」
足元が崩れていくような衝撃を感じ、ナツカゲはその場にへたりこんだ。
「そうじゃ。明智に・・・明智光秀にころされた・・・」
秀吉が差し出した紙を、ナツカゲはひったくるように取った。それは、明智光秀が毛利に送った密書であった。
「先程、見張りの者が不審な男を捕えてな、調べてみたらそれを持っていたのじゃ。」
震える手で、ナツカゲは密書を開いた。「信長を本能寺にて討ち果たし申し候」の一文がナツカゲの目に痛かった。信長に出会ってからの日々が、走馬灯のようにナツカゲの脳裏をかすめていく。
「この密書が毛利に届いていたら、大変なことになるところであった。しかるに、それも時間の問題。どうしたらよいのじゃ。」
秀吉の言葉に、ナツカゲは我に返った。そうだ、もし毛利がこのことを知ったら、毛利は勇んで攻め寄せてくるであろう。反対にこちらの士気は下がる。簡単に敗れてしまうに違いない。その前に何とかしなければ・・・そう思った時だった。
「秀吉様。ご運が開けましたな。」
はっとして、ナツカゲは官兵衛を見た。官兵衛の鋭い目がそこにあった。あの水攻めを思いついた時同様、いや、それ以上に鬼気迫る表情をしている。
「何を言う。官兵衛!」
「急ぎ毛利と和睦し、京へ戻り、他の家臣たちの誰よりも先に光秀を討つのです。天下に名乗りを上げるのです。秀吉様、天下をお取りなさいませ。」
激しい物言いで迫る官兵衛。ナツカゲは声ももなく官兵衛を見つめた。秀吉も同じであった。しかし、それもわずかな間だった。秀吉の声が響いた。
「わかった。わしが天下を取る。」
秀吉の陣を出てすぐ、ナツカゲは官兵衛を追った。幸い、まだそう先には行っていなかった。
「官兵衛殿!」
官兵衛が足を止める。その背を月明かりが照らしている。
「官兵衛殿!あなたは信長様より、秀吉様の方が天下人としてふさわしいと、思っておられたのですか!今までずっと!」
官兵衛がゆっくりと振り返る。先程の過激な言葉が嘘のように、その顔はいつもの穏やか
な表情に戻っている。
「ナツカゲ殿。あなたは信長様に長く仕えておられた。それ故に、信長様に特別な感情をお持ちなのもよく分かります。けれど、今は私情はお捨てなされ。そのようなものにとらわれていては、前には進めませぬ。」
「しかし!」
「失礼ながら、ナツカゲ殿。あなたは信長様に何を望まれてお仕えしていたのですか。
一番の理由は何だったのですか。それこそが、あなたの一番大切なものではないのですか。」
ナツカゲは言葉につまった。庶民の苦しみを救ってほしい、そう訴えた、信長との初対面が思い出される。
「その願いは、本当に信長様にしかかなえることができないものなのですか。ナツカゲ殿、今一度お考え下さい。そうすれば、これからどうすればよいのか、おのずと答えは見つかりましょう。」
「では、官兵衛殿、あなたは何を願っているのですか?何のために、秀吉様を天下人にしようとなさるのですか。」
すがるように、ナツカゲは官兵衛に問うた。
「私の願いは、戦乱の世が終わることです。 戦がなくなりさえすれば、戦に巻き込まれて死ぬ人も、家が焼け、田畑が荒れることもなくなりましょう。それを実現していただける方なら、誰が天下人となろうと、私には同じこと。ただ、信長様亡き今となっては、天下人にふさわしいお方は秀吉様だと。私はそう信じているのです。」
戦乱の世の終結!もしそれが実現すれば、ナツカゲの言う庶民の苦しみもなくなる!父シゲナツのような無念の死を迎えるものもいなくなる。それにしても、仮にも武将である官兵衛の口からその言葉を聞くとは・・・この戦国の世、どの武将も、戦功をあげることによって自身の栄達を願っている。官兵衛もそうだと言われても、ナツカゲは当然だと思っただろう。だが、官兵衛は栄達など眼中にない。それどころか、戦のない世の中を願うとは・・・。ナツカゲは頭をたれた。信長の死を嘆くあまり、官兵衛の真意を見抜けなかった自分は、なんと視野の狭いことか!ナツカゲは己を恥じた。そして言った。
「官兵衛殿。私もお手伝いいたします。」
明朝すぐ、官兵衛は毛利との和睦交渉に入った。一方で、ナツカゲは毛利の陣近くに入り、噂を流した。信長が既に秀吉の陣に入っている。和睦など生ぬるい。高松城の兵も、毛利の兵も皆殺しにせよとの命を、秀吉が必死に止めているところだ。しかし、それも時間の問題だと。
わずか三日で交渉はまとまった。高松城城主の切腹を条件に、城兵は全員助命。毛利氏の領地は一部を除いて安堵と。
「よし、これより京に向かう。」
ついに、秀吉が命を下した。急がねばならない。この頃には、信長の死の情報が各地に広まっていたからだ。信長に反感を抱いていた武将達がどう出てくるか、見当がつかない。けれど、ここでも官兵衛の策が功を奏す。和睦の際、官兵衛は毛利の旗を何本か譲りうけていた。それを道中に立てたのだ。毛利が秀吉方についた、と信じた各地の武将達は、秀吉軍をそのまま通したのである。
(ここまで先を見ないといけないのか)
ナツカゲは舌を巻いた。官兵衛の策を後押しするべく、ナツカゲは走った。京までの道には、光秀と仲の良かった織田方の諸将の領地もある。その城下に入り、ナツカゲは噂を流す。秀吉が京を目指すのは、信長様の弔い合戦のためだと。これを聞いた諸将は、光秀を見限った。中には、我らもと、秀吉軍に参加する諸将まで出る始末だ。
備中を出て十日後、秀吉軍は山崎で光秀軍と激突した。光秀は完全にふいをつかれた。
秀吉より京に近いところにいた織田家の武将達は、皆動揺して動かなかったというのに、一番遠くにいたはずの秀吉が現れたからだ。あわてて出陣したものの、天王山を抑えた秀吉軍に、ふもとにいた光秀軍はねらいうちにされ、敗走。光秀は落ち延びる途中で、農民に殺された。ここに秀吉は、天下人への足掛かりをつかんだのである




