第38話:完璧なシステムの陥落! 狙われた天才赤ちゃんと謎のウイルス
その夜、王宮はかつてないほどの『深い闇』に包まれていた。
「――ばぶぅ……う、あぅ……」
いつもなら、赤ちゃんの夜泣き(アラート)を感知して優しい子守唄を流すはずの『天才魔導ベビーベッド』が、不気味な赤と黒の魔力ノイズをパチパチと弾かせながら、完全に沈黙していた。
「な、にこれ……!? 嘘でしょ、私の防壁が……内部から書き換えられてる……!?」
私は跳ね起き、枕元の『異世界スマホ』をひったくるように掴んだ。
だが、画面に表示されているのは、見たこともない禍々しい文字列の羅列――前世の言葉で言えば、システムを根底からフリーズさせる『未知のコンピュータウイルス(呪詛)』だった。
「ユキ、離れていろ……! 宮殿の周囲に張った俺の闇結界が、外側から未知の古代呪詛によって『過負荷』を起こされている。……くそっ、空間そのものが固定されて、強制転移が使えない……!?」
隣で飛び起きたギルバートが、眼帯の外れたアメジストの瞳をかつてないほど激しく見開いていた。世界最強の彼の魔術が、発動の瞬間に「エラー:対象が見つかりません」とでも言うように、不自然に霧散していく。
『主よ、油断した……! 敵はただの人間や魔獣ではない。我が「聖獣としての気配」を完全に遮断する、特異な魔導具をこの部屋の座標に直接展開してきおった……っ!』
足元のランが、子犬の姿のまま苦しげに床へ頽れる。その背中から本来の神聖な翼を広げようとするたび、空間に張り巡らされた不可視の鎖がランの魔力を激しく縛り付けていた。
「嘘、ランまで……っ!?」
私たちが一瞬のシステムフリーズに陥った、まさにその瞬間。
ベビーベッドの真上の空間が、ガラスが割れるような音を立ててパカリと裂けた。
「ふははは! 噂に名高いアラカルト家の未知の魔導、王太子の闇魔術、そして伝説の聖獣……。貴様らの無敵を誇る防衛網も、我が組織が数年かけて解析した古代の『禁忌の呪詛術式』の前には無力だったな!」
裂け目の向こうから現れたのは、全身を不気味な魔導衣で包んだ謎の男――他国の潜入工作員にして、ユキの技術を徹底的に研究してきた天才術式解体師だった。
男の手には、空間を切り裂く特異な魔導具が握られており、その切っ先はベッドの中で怯えるレオへと向けられていた。
「レオ――ッ!!」
私が叫び、身を乗り出そうとしたが、足元に仕掛けられていた『鈍化のバグ(遅延呪詛)』のせいで、身体が鉛のように重くて動かない。
ギルバートが狂暴な殺気を放ち、物理的に男の首をへし折ろうと地を蹴ったが、男は不敵に笑い、すでにレオの小さな身体をその腕に抱き上げていた。
「この赤子の規格外の魔力ソース、我が組織が有効に活用させてもらう。……追ってこようとしても無駄だ。貴様らの使う『位置探知の魔導(GPS)』は、すでに我が特製のジャミングによって、偽の座標を掴まされているからな!」
「待って……っ! レオを返して――っ!!」
「さらばだ、無敗の聖女よ。せいぜいバグまみれの王宮で、無能の味を噛み締めているがいい!」
ズガァァァァン!!!
激しい魔力の爆発と共に空間の裂け目が閉じ、男の気配はレオと共に、完全に消失した。
あとに残されたのは、不気味にエラー音を鳴らし続けるベビーベッドと、静まり返った寝室。
「レ、レオ……? 嘘……嘘でしょ……っ」
いつもなら、手を伸ばせばそこにいるはずの愛しい我が子の姿がない。
前世のブラック企業でどんな無理難題を押し付けられても、異世界でどんな凶悪な呪いに直面しても、常に「なんとかなる」と笑ってきた私の心が、生まれて初めて、底の抜けたような絶望でガタガタと震え出した。
「ユキ……っ!」
理性を失い、ドロドロとした暗黒の魔力を爆発させようとしていたギルバートが、震える私を狂おしいほど強く抱きしめた。彼の胸の鼓動も、恐ろしいほど速く、そして激しく波打っている。
「……ユキ、すまない、俺が不甲斐ないばかりに……! だが、絶対に許さない。我が子を奪ったあの虫ケラどもを、地の果てまで追い詰めて、この手で一人残らず引き裂いてやる」
「……違う、ギルバート。怒りに任せて闇雲に動いても、敵の罠にハマるだけ。相手は私のシステムを完全に研究してる」
私はギルバートの胸に顔を埋め、奥歯をガタガタと鳴らしながらも、涙を袖で乱暴に拭った。
(落ち着け、私……! 位置情報も偽装されている。今までの『お気楽チート』はもう通用しない。だけど……私には、前世で何百回もシステムダウンの修羅場を潜り抜けてきた、泥臭いシステムエンジニアの意地がある……!)
私は、画面がノイズで砂嵐のようになっている『異世界スマホ』を、強い眼差しで見つめ直した。
「敵のウイルスが何行のコードで書かれていようが関係ない。全部手動で、力技で解析して、犯人の本当の居場所(IPアドレス)を突き止めてやる……。ギルバート, ラン、力を貸して。私たちの宝物を、絶対に奪い返すよ……っ!」
『ふん……。我が聖獣としての本気を、これほどまでに引き出した代償は高いぞ。主よ、泥臭い「デバッグ戦」の始まりだな』
これまでにない周到な敵の組織を前に、ユキたちの、命を削るような長期戦のデバッグが今、静かに幕を開けた。




