第8話 王子様の幻
京都から客が来る。
それだけ聞かされた時、翔太は正直うんざりしていた。
婚約者。
その言葉が、頭の中で何度も引っかかった。時代錯誤もいいところだ。こっちはまだ高校生で、そんな古臭い話に付き合わされるなんて、冗談じゃない。
リビングのソファに深く沈み込んで、腕を組んだまま壁を眺めていた。若い衆が二人、部屋の隅で気配を消している。親父はまだ戻っていない。
玄関の方で、人の気配がした。
「お嬢様、こちらでございます」
聞き慣れない丁寧な声。翔太は面倒くさそうに顔を上げた。
リビングのドアが開いた。
最初に目に入ったのは、深い藍色の着物だった。きっちりと締められた帯。すっと伸びた背筋。歩くたびに裾が静かに揺れる。
次に顔を見た。
……は?
翔太は思わず姿勢を正した。
なんだこれ。めちゃくちゃ可愛いじゃないか。整った顔、白い肌、品のある黒髪。目が合うと、すっとお辞儀をした。
「九条舞と申します。此度はよろしくお願いいたします」
京都弁。声まで上品かよ。
翔太は内心で舌を巻いた。ヤクザの娘って聞いてたから、もっとごつい感じかと思ってた。全然違うじゃないか。亜里沙? あいつより上かもしれない。いや、種類が違う感じか。
まあ……悪くはない。全然悪くない。
その後ろに三人の人影があった。落ち着いた女、鋭い目の女、そして金髪ストレートの少し幼い感じの女の子。全員背筋がまっすぐで、どこか普通じゃない雰囲気がある。
「護衛の者でございます」
護衛? 本格的だな。
翔太は視線を舞に戻した。
「……まあ、座れよ」
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舞は、静かに腰を下ろした。
瀬戸家のリビングを、さりげなく見回す。威圧感のある調度品。壁に掛けられた大きな絵。部屋の隅に控える男たち。こんな場所に住まないといけないのかしら、と思うと、胸の奥がひやりとした。
でも千夏たちがいる。大丈夫。
自分にそう言い聞かせながら、正面に座る男を見た。
瀬戸翔太。
悪い顔ではない。背も高い。でも。
なんとなく、違う。
幼い頃に出会った、あの人。顔までははっきりと覚えていない。でも手をつないでくれた温かさは、今でも指の先に残っている。あの日、迷子になって泣いていた私を見つけて、隣に座ってくれた人。怖くないよ、と言ってくれた声。
この人が、そうなのかしら。
期待を込めて、もう一度翔太を見た。
翔太がこちらを見ていた。
でもその視線は、顔ではなく、もっと下の方をゆっくりと動いていた。
舞はわずかに眉を寄せた。体の中で、何かが静かに冷えていく。
違う。
この人じゃない。
確信ではなかった。でも、そう思った瞬間に、胸の中で何かが音を立てて小さく崩れた。
「京都からは遠かったか」
「いいえ、慣れておりますので」
「ふーん」
会話が続かなかった。翔太はまた視線を動かした。舞は静かに目を伏せた。千夏が後ろでわずかに身じろぎするのが気配でわかった。
しばらくして、翔太の父親が戻ってきた。挨拶が始まった。形式的な言葉が続く。舞は丁寧に、でも心のどこかが遠くに行ったまま、それに応じた。
王子様のような人に会える、とずっと思っていた。
……でも、もしかしたら私の思い出は、ただの夢だったのかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、舞は小さく唇を結んだ。
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翌日、教室がざわついたのは昼前のことだった。
「転校生だって」
「京都から来たらしいよ」
千鶴ちゃんと並んで廊下を歩いていた時、そんな声が聞こえてきた。
教室に入ると、前の方に見慣れない女の子が担任の先生と話していた。制服を着ているのに、その立ち姿だけで周りの空気が変わるような、独特の存在感がある。
「……千鶴ちゃん、あの子知ってる?」
「いいえ、存じませんわ。でもとても上品な方ですわね」
私はしばらくその子を眺めた。
記憶にない。1周目で、こんな女の子を見かけた覚えが全くない。
転校生の女の子が自己紹介を終えて、席に着いた。休み時間になって、千鶴ちゃんと一緒に話しかけてみた。
「こんにちは、さっき自己紹介してた子だよね。如月亜里沙です」
「白鳥千鶴と申しますわ。よろしくお願いしますね」
「九条舞と申します。こちらこそよろしくお願いいたします」
九条。
その名前を聞いた瞬間、頭の中で何かが繋がった。
「もしかして、瀬戸くんの……?」
舞は静かにうなずいた。
「ええ。婚約者として、こちらに参りました」
千鶴ちゃんが「まあ」と小さく声を上げた。私は内心で急いで記憶を辿った。
1周目に、この子はいなかった。
あの頃、私はまだ翔太と付き合っていた。だから……翔太に彼女がいると知って、そのまま京都に帰ったんじゃないかしら。
今回は私たちが別れている。だからこの子はそのまま残った。
それだけのことなのに、何かが大きく変わり始めている気がした。
「よろしければ、これからも仲良くしてくださいませ」
舞が静かに微笑んだ。その笑顔は綺麗で、でもどこか探しているような、寂しさを含んでいた。
私はうなずきながら、胸の中で静かに思った。
この子が、この先何を見つけるのか。
まだ、何も分からない。
第8話 了




