第7章 それぞれの夜明け
翔太は乱暴に玄関のドアを開けて、靴を脱ぎ捨てた。
「お帰り、若頭」
廊下の奥から声がした。組の若い衆が二人、にやにやしながらこちらを見ている。
「若頭って呼ぶなと言っただろ」
「でも似合うじゃないですか。どうしたんです、そんな暗い顔して」
「うるさい」
「もしかして彼女にフラれたとか?」
「……」
「あ、図星だ。若頭にフラれる女がいるんですね、世の中広いなあ」
「黙れ」
低く言い捨てて、翔太は階段を上がった。後ろでまだ笑い声がしていたが、振り返らなかった。
自分の部屋に入って、鞄を床に投げた。ベッドに倒れ込んで、天井を見上げる。
亜里沙の顔が浮かんだ。公園で別れを告げられた時の、あの静かな目。怒りも悲しみもなく、ただ静かに「ごめんなさい」と言った顔。
あの目が、腹立たしかった。悲しんでくれる方がまだよかった。
部屋のドアがノックもなく開いた。
「翔太」
低い声。翔太は天井を見たまま答えた。
「……なんだよ」
瀬戸厳造が部屋に入ってきた。大柄な体躯。整えられた白髪交じりの髪。この男が笑うところを、翔太はほとんど見たことがない。
「そんな所に寝転がって、みっともない」
「自分の部屋だろ」
「ふん」
厳造は部屋の中を一度見渡して、腕を組んだ。
「翔太。お前、そろそろ家業のことを真剣に考える気はないか」
「ない」
即答だった。
「俺はヤクザになんぞなるつもりはない。前も言ったろ」
「俺はヤクザとは言っていない」
「同じだろ」
部屋に沈黙が落ちた。厳造は表情を変えない。ただ、その目だけが翔太を静かに見ている。
「お前には才覚がある。それを遊びで潰すのは惜しい」
「才覚があるなら、自分で使い道を決める」
「……そうか」
厳造はそれ以上は言わなかった。踵を返しかけて、ふと足を止めた。
「そうだ、言い忘れていた」
「なんだよ」
「九条の娘が転校してくる。こっちに泊まりに来ることになったから、そのつもりでいろ」
翔太が天井から視線を剥がした。
「……は?」
「九条舞だ。お前の婚約者だろう」
「待て待て待て。なんで急に」
「急じゃない。前から決まっていた話だ」
「聞いてないぞ!」
「言い忘れた」
厳造はそれだけ言って、部屋を出ていった。ドアが静かに閉まる。
翔太はしばらく天井を見つめてから、枕に顔を押し付けた。
「最悪だ……」
翌朝。
私は洗面台の前で、歯ブラシを持ったまま止まっていた。鏡の中の自分が、ぼんやりとこちらを見返している。
土曜日は楽しかった。本当に楽しかった。だからこそ、ずっと考えないようにしていたことが、静かな朝になると浮かんでくる。
千鶴ちゃんが紹介してくれた、結衣ちゃん、冴子さん、シエラちゃん。みんな素敵で、優しくて、一緒にいるだけで自然と笑えた。
でも。
……あの子たち、もしかして全員、蓮司くんの彼女なんじゃないの?
歯ブラシを口に入れながら、頭の中で記憶を並べ直す。
お小遣いの話。月に300万。最初は使い切れなくて、でも追加をお願いしたら増えた。誰に? 千鶴ちゃんが「共通の知り合いがいて」と言いかけて、急に早口になった時のこと。シエラちゃんの「特別な運動」発言で、結衣ちゃんと千鶴ちゃんが真っ赤になったこと。
全員、同じ額のお小遣いをもらっている。全員、同じ「秘密」を持っている。
……一人の男から、一律して。
口の中の泡を吐き出しながら、鏡を見る。
まさかね。あんな美少女たちが揃いも揃って、蓮司くんの彼女?
でも、あり得なくはない。蓮司くんはあの家の息子で、お金も地位もある。千鶴ちゃんは「お父様のご紹介」と言っていた。シエラちゃんは千鶴ちゃんの「近所に住むお友達」。結衣ちゃんは千鶴ちゃんの「お友達として紹介してもらった」冴子さんと一緒に来た。
全部、繋がっている。
……蓮司くん、今現在すでに4人の彼女がいるってこと?
水で口を濯ぎながら、頭がぐるぐるした。
覚悟は決めてきたつもりだった。未来の蓮司くんに好きだと言われて、この時代に戻ってきた。彼の隣に立つって、決めたはずだった。
でも実際に目の前に並べてみると、全然違う。
手を繋がれただけであんなにドキドキしたのは本当だ。でも、あの子たちと同じ立場に並ぶことが、私にできるのかな。翔太に散々振り回されて、やっと自由になったと思ったのに、今度は何人もの女性と関係を持つ男の恋人になるって、本末転倒じゃないのかな。
お金の力? それとも蓮司くんの人柄? どっちにしても、私にはまだ見えていない何かがある。
でも……確かに手を繋がれた時、嫌じゃなかった。むしろ、離したくなかった。
タオルで顔を拭きながら、ため息をついた。
……増えたりしないよね。まさか。
学校に着くと、昇降口で声をかけられた。
「あ、亜里沙ちゃん! おはよう」
振り返ると、結衣ちゃんがツインテールを揺らして手を振っている。隣に冴子さんもいた。
「おはよう、結衣ちゃん。冴子さんも」
「土曜日、楽しかったね。また行こうね」
「うん、本当に楽しかった。ありがとう」
「次はどこ行く? 冴子さんが美術館いいって言ってて」
「あら、言ってみただけよ」
「絶対楽しいって。ね、亜里沙ちゃんも行きたいでしょ?」
「うん、行きたい」
他愛のない会話。けれど頭の片隅に、さっきの考えがまだくすぶっている。
この子たちは、蓮司くんのことをどんな目で見ているんだろう。この笑顔の裏に、私の知らない関係がある?
……今は聞けない。まだ、聞ける立場じゃない。
「じゃあまたね」と手を振って、それぞれの教室へ別れた。
自分の教室に入る。いつもの席に着いて、鞄を下ろして。ふと、前方に視線を向けた。
蓮司くんがいた。
窓際の席で、教科書を開いている。前髪が少し目にかかって、静かに文字を追っている。周りのざわめきの中で、あの人だけが静かにいる。
その視線が、ふと動いた。
目が、合った。
一瞬だけ、時間が止まった気がした。
蓮司くんが、笑った。
今まで見たことのない笑顔だった。柔らかくて、穏やかで、こちらだけに向けられている。言葉は何もない。ただ、目が合って、笑った。それだけ。
胸が、大きく跳ねた。
さっきまで頭の中でぐるぐるしていた疑問が、その一瞬だけ、全部どこかへ消えた。
……ずるい。
そんなふうに笑われたら、何も考えられなくなる。
私は視線を手元に落として、教科書を開いた。頬が熱かった。
隣の席から、千鶴ちゃんの「おはようございます、亜里沙さん」という声が聞こえた。
「……おはよう、千鶴ちゃん」
返事をしながら、まだ胸がうるさかった。
第7章 了




