第6章 知らない世界の値段
別れた翌日、学校に行くのが少し怖かった。
翔太と廊下で顔を合わせたらどうしようとか、梨香がどんな顔をしてくるかとか、色々考えながら登校したけれど、翔太は朝のホームルームで一度も私の方を見なかった。梨香は普通に「おはよー」と話しかけてきた。何事もなかったような顔で。
それが逆に、少しだけ拍子抜けした。
でも同時に、体が軽かった。翔太の隣を歩かなくていい。肩が触れそうになって固まらなくていい。それだけで、こんなに違うんだと思った。
昼休みに、千鶴ちゃんが私の席に来た。
「亜里沙さん、今日は顔色がよさそうですわ」
「そう?」
「なんだか、すっきりした感じがされてますわ」
「それはよかったですわ」
千鶴ちゃんはにこっと微笑んで、それからちょっと嬉しそうな顔になった。
「あの、亜里沙さん。少し聞いてもよろしいかしら。今度の土曜日に、私お友達と遊びに行くのですけれど。もしよければ、亜里沙さんもいらっしゃいませんか」
「え、いいの?」
「もちろんですわ。翔太くんと別れた記念に、奢りますわよ」
千鶴ちゃんはさらっと言った。その言い方が面白くて、思わず笑ってしまった。
「みなさん、とてもできた方々で、亜里沙さんともきっと仲良くなれると思いますわ。どうかしら」
行きたい気持ちはあった。でも同時に、少し不安もあった。
「でも、本当に大丈夫かな。迷惑にならない?」
「大丈夫ですわ。みんなとても優しい方ばかりで、私もすぐに仲良くなれましたから」
「……うん、じゃあ行く。ありがとう、千鶴ちゃん」
「よかったですわ」
千鶴ちゃんはぱっと顔を明るくして、続けた。
「一人は隣のクラスの結衣ちゃんですの。とても可愛らしい子ですわよ。もう一人は二年生の生徒会長様で、とても優秀な方ですわ。それから昨日お会いしたシエラちゃんも一緒に来るので、5人で行く予定ですの。とても楽しみですわ」
「生徒会長も来るの? 千鶴ちゃん、生徒会長とも知り合いなんだ。どういうつながりで?」
千鶴ちゃんは一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、目が泳いだ。
「ええと、そうですわね。実は結衣ちゃんのお友達として紹介していただいて。それからご縁が続いているんですの。生徒会長様はとてもしっかりされていて、私もいろいろ教えていただいていて。あと、まあ、共通の知り合いもいたりして、気づいたら自然と仲良くなっていたといいますか……ほら、ご縁って不思議なものですわよね。気づいたらつながっているものですわ、うふふ」
千鶴ちゃんにしては珍しく、少し早口だった。
「……千鶴ちゃん、なんか隠してる?」
「隠してなんていませんわよ! ただ、ご縁のお話をしていただけですわ」
「顔が赤いよ」
「気のせいですわ。それより土曜日、楽しみにしていてくださいませ」
土曜日の朝、私は鏡の前で30分悩んだ。何を着ていけばいいかわからず、結局シンプルなワンピースに落ち着いた。
待ち合わせの渋谷ハチ公前には、千鶴ちゃんとシエラちゃんがすでにいた。
「亜里沙さん、おはようございます」
シエラちゃんがいたずらっぽい笑みを浮かべて挨拶してくれた。薄い銀色の髪は、今日も街中で不思議な光を放っている。
「ちーちゃーん、おまたせー!」
声と共に現れたのは、ツインテールを揺らした小悪魔的な雰囲気の結衣ちゃんと、凛とした黒髪の美しさが際立つ冴子さんだった。
五人で表参道へと繰り出し、白を基調としたセレクトショップへと入った。
結衣ちゃんが、あっという間に動き始めた。「これかわいくない?」とワンピースを手に取り、「あ、こっちもいい」と楽しそうに店内を回っている。
私も一緒に眺めながら、さりげなく値段のタグを確認した。
ワンピース——八万円。コート——十八万円。ニット——四万五千円。
黙ってタグを戻すと、結衣ちゃんが淡いグリーンのブラウスを持って来た。
「亜里沙ちゃん、これ着てみて! ママがデザインしたブランドの新作なんだ。絶対似合うと思う!」
「えっ、お母さんがデザイナーなの?」
「うん。このお店にも置いてもらってて、すごく評判いいんだよ。だから亜里沙ちゃんに着てもらえたら嬉しいな」
結衣ちゃんは誇らしげに、でもどこか愛おしそうにブラウスを見つめた。
「可愛い……。でも、お値段が……」
「いいの! ママの作品を亜里沙ちゃんに着てもらえるのが一番の宣伝なんだから。ね?」
私が遠慮していると、隣にいた冴子さんがそっと声をかけてくれた。
「如月さん。気持ちはわかるけれど、今日は素直に受け取っておきなさい。千鶴ちゃん、今日をとても楽しみにしていたのよ。あなたとこういう場所で遊びたくても、なかなか誘えなかったみたいだから」
「冴子さん……」
「遠慮されると、逆に困るのよ」
結衣ちゃんがニヤリと笑って詰め寄ってきた。
「そうだよ! 遠慮禁止! はい、試着室にゴー!」
結局、私は結衣ちゃんのお母さんが作ったというブラウスを贈られることになった。自分とは違う世界の人たちだと思っていたけれど、彼女たちの屈託のない優しさに、いつの間にか緊張がほどけていた。
お昼は千鶴ちゃんが予約していた青山のお店へ。
ランチのコースは一万二千円から。私は何も言わずにメニューを閉じた。
「亜里沙さん、今日は全部私が奢りますから、好きなものを頼んでくださいませ。翔太くんとの別れ話、本当に大変でしたもの。これくらいさせてくださいませ」
断れる雰囲気ではなく、素直に「ありがとう」と伝えた。
料理が運ばれてきた。どれも丁寧に盛り付けられていて、一口食べると素材の味がしっかりしていた。普段コンビニのパンで済ませている昼食とは、別の世界の食べ物だった。
デザートが運ばれた時、シエラちゃんのトレイを見て、思わず目を丸くした。
シエラちゃんの皿に、他の人の倍近い量のケーキとアイスとフルーツが乗っている。
「シエラちゃん、それ全部食べられるの?」
「食べられます。甘いものが好きで」
「でも、そんなに食べて太らない?」
「太らないんです。朝はランニング、夕方はヨガ……」
そこまで言って、シエラちゃんは頬を少し赤らめ、ニヤリといたずらっぽく笑った。
「……それから夜は、特別な運動をしていますし」
「ちょ、ちょっとシエラ!?」
結衣ちゃんが椅子を鳴らして立ち上がりそうな勢いで突っ込んだ。
「何言ってんのよ! 私たちの秘密をそんな風に……! バカ、バカ!」
慌ててシエラの口を塞ごうとする結衣ちゃん。千鶴ちゃんも顔を真っ赤にして俯いてしまっている。
「わ、私に振らないでくださいまし! もう、シエラちゃんったら!」
そんな騒ぎを、冴子さんが「はいはい、そこまでにしなさい」と冷静に収めた。
「如月さんが困惑しているわ。シエラ、冗談が過ぎるわよ。さあ、冷めないうちに食べましょう」
……秘密?
何か聞き捨てならない言葉が聞こえた気がした。でも千鶴ちゃんたちが真っ赤になって慌てているのを見ると、きっと私にはまだ早い話なんだろう。今は深く突っ込まないのが正解よね。
私はあえて聞こえなかったふりをして、デザートにフォークを伸ばした。
少し落ち着いたところで、結衣ちゃんがブラウスの入った袋を嬉しそうに眺めながら言った。
「こんな高いプレゼントしてもらっちゃって、ありがとね。ほんと嬉しかった」
「こっちのセリフだよ。本当にいいの? あんな高いもの」
「いいに決まってるじゃん! あたしたち、毎月お小遣いだけで300万あるんだから」
思わず固まった。
「さ、300万……?」
「結衣、いきなり言わないの」
冴子さんが苦笑いした。
「私も最初は使い切れなかったわ。あの額を一ヶ月で使うなんて、最初は想像もできなくて」
「冴子さんでも使い切れなかったんですか?」
「ええ。でもこの子なんか、最初の月に200万全部使い切って、追加までお願いしたんだから。だから今の300万になってるのよ」
「えー! だって必要だったんだもん。仕方ないじゃん」
結衣ちゃんがケロッとした顔で言った。
「あなたの『必要』の基準が、そもそもおかしいのよ」
冴子さんが苦笑いしながら返す。その隣で千鶴ちゃんは「まあまあ」と苦笑いしながら二人を見ていた。
私はその会話を聞きながら、頭の中で数字を反芻していた。
200万を使い切って、追加をお願いした。
誰に?
その疑問が浮かんだけれど、口には出さなかった。この人たちの世界には、私にはまだわからないことがたくさんある。今日はそれを少しだけ、遠くから眺めることができた気がした。
会計時、千鶴ちゃんが黒いカードでさらりと支払いを済ませた。
帰り道、夕陽に照らされた表参道の並木道を歩きながら、ふと思った。
今まで生きてきて、こんなに心の底から楽しいと感じたことがあっただろうか。
1周目で翔太に縛られ、彼の顔色を窺って生きていたのが、今になってバカバカしく感じられる。あんな狭い場所で苦しんでいたなんて。
「亜里沙さん、大丈夫ですか?」
千鶴ちゃんが隣に来て、小声で聞いた。
「うん、大丈夫。なんか……今日が人生で一番楽しいなって思って」
「亜里沙さんには亜里沙さんの、素敵なところがありますわ。私が保証しますわよ」
千鶴ちゃんはにっこりと微笑んだ。
並木道の先に、燃えるような夕焼けが広がっていた。
知らない世界の入り口で、私はかつてない自由を噛み締めていた。
第6章 了




