第5章 公園の答え
翌朝、私は翔太に短いメッセージを送った。
『今日の放課後、話したいことがある。例の公園で待ってて』
返信は、数分後に届いた。
『わかった』
それだけ。短すぎる言葉に、彼なりの苛立ちや戸惑いが透けて見えるようだった。
その日の授業は、全くと言っていいほど頭に入らなかった。
窓の外を流れる雲を目で追いながら、頭の中で何度も言葉を組み立てては崩す。何を伝えるべきかは決まっている。ただ、それを正しく「声」に出せるかどうかが、どうしても不安だった。
昼休み、私は千鶴ちゃんにすべてを打ち明けた。
「今日の放課後、翔太に別れを告げようと思って」
千鶴ちゃんは箸を止め、しばらく沈黙した。それから、静かに問いかけてくる。
「……昨日、何かあったのですか?」
「うん。色々あって、確信したの。もう一秒も、迷いはないよ」
「そうですか」
千鶴ちゃんはお弁当箱を閉じ、私の目を真っ直ぐに見つめた。
「一人で行くつもりですの?」
「うん、そのつもり」
「亜里沙さん」
「……なあに?」
「私に、近くにいさせてもらえませんか。邪魔はしませんわ。ただ、そばで待っているだけでいいので」
その控えめな、けれど力強い申し出が、冷え切っていた私の心にじんわりと灯をともした。
「……ありがとう、千鶴ちゃん」
「それと、ちょうど今日、近所に住んでいる友人が遊びに来ることになっていて。一緒に連れて行ってもよろしいかしら? とても気のいい子ですから」
「千鶴ちゃんの友達なら、大歓迎だよ」
放課後。校門を出ると、千鶴ちゃんがすでに待っていた。
その隣には、見慣れない女の子が一人。
小柄で華奢な体躯。肩のあたりで切り揃えられた、銀色に近い淡い髪が夕陽を透かして幻想的に輝いている。水色の澄んだ瞳は、中学生とは思えないほど落ち着き払っていた。
「こちら、シエラちゃんですわ。近所に住んでいるの」
「シエラです。よろしくお願いします」
丁寧な一礼。鈴を転がすような静かな声だった。
「如月亜里沙です。よろしくね。千鶴ちゃん、こんなに可愛いお友達がいたんだね」
「亜里沙さんのこと、千鶴さんからよく聞いています」
シエラちゃんが微かに微笑む。その整った横顔は、まるで精巧なビスクドールのようで見惚れてしまうほどだった。
三人で公園へと向かう。入り口に差し掛かったところで、千鶴ちゃんが足を止めた。
「私たちはここのベンチで待っていますわね。終わったら、声をかけてください」
「うん、行ってくるね」
公園の奥、あの場所へ。
翔太は、ベンチの前で腕を組み、地面を睨みつけるように立っていた。
私の足音に気づいて顔を上げた瞬間、その瞳が鋭く揺れる。
「……来たか」
「うん」
重苦しい沈黙が降りた。風が吹き、葉桜がさわさわと騒ぐ。ここで彼に告白されたのは、まだ一ヶ月も経っていない。あの時は桜が狂い咲いていたのに、今はもう、花びら一枚残っていなかった。
「話って、なんだよ」
翔太の声は、地を這うように低い。
「……ごめんなさい、翔太。別れてほしい」
翔太の眉間が、一気に険しくなった。
「は? 何言ってんだよ」
「この二週間、付き合ってみてわかったの。私、あなたのことをどうしても異性として見ることができない」
「昨日のことだろ!」
翔太が声を荒らげる。
「あれはただの気の迷いだ! 絶対にもうしないから、だから許せよ!」
「違うの」
私は静かに首を振った。
「昨日あんな場面を見て、びっくりはしたけど……ショックは受けなかった。ただ『ああ、やっぱりな』って、冷めた気持ちで見てる自分がいた。それで確信したの。私、最初からあなたのこと、好きじゃなかったんだと思う」
「意味わかんねえ……っ!」
翔太の顔が、怒りで赤黒く染まっていく。
「俺が告白した時、あんなに嬉しそうだったじゃねえか! 高校に入ってから急によそよそしくなりやがって……あの男か? 不破とかいう奴に毒されたのか!?」
「不破くんは関係ない。これは、私の心の問題なの」
「関係ないわけねえだろ!」
彼が一歩、詰め寄ってきた。私は反射的に身を引く。
「翔太……私、あなたに触れられると、虫唾が走るの」
その言葉が、弾丸のように翔太を射抜いた。
「……は?」
「自分でも理由はわからなかった。でも、拒絶反応が止まらないの。それに昨日、梨香と……あんな話をしていたでしょう? 私を力ずくでどうにかすればいいって。それを聞いて、心の底から気持ち悪いと思った。あなたに触れられたくない。これ以上、関わりたくないの」
「ふざけんなよ……!」
翔太の声が、獣のような低いうなりに変わる。
「お前が避けるからだろ! こっちがどれだけ我慢してやってたと思ってんだ! 一方的にそんなこと言われて、はいそうですかって引き下がれるかよ!」
翔太の手が、凶器のように私の腕へと伸びてくる。
「やめて――!」
咄嗟に後ろへ下がろうとして、足がもつれた。
あ、転ぶ――そう思った、その瞬間。
『バンッ!』
鈍い衝撃音が響き、視界の中で翔太の体が不自然に横へと流れた。
「え……?」
気づいた時には、翔太は地面に組み伏せられていた。
彼の背中に片膝をつき、その右腕を鮮やかに極めているのは――学校の廊下で何度か見かけたことのある、三年生の先輩だった。
いつも眠たげに目を細めている、あの「捉えどころのない」先輩。
「いやー、あきませんなあ」
場に似つかわしくない、のんびりとした関西弁が響く。
「たまたま散歩しとったら、こないな場面に出くわしてしもて。兄ちゃん、女の子を力ずくで押さえようとしたらあきまへんで?」
「なっ――てめえ、離せ! 誰だお前!」
翔太が必死に暴れる。けれど、先輩の体は山のように動かない。まるで駄々をこねる子供をあやすように、冷徹なまでの精度で翔太を制圧していた。
「まあまあ、落ち着きなはれ。何があったか知りまへんけど、暴力はあきまへん。それだけは、筋が通りまへんのやわ」
「うるさい、離せって言ってんだろ!」
「離しまへんよ。あんたの頭が冷えるまではな」
先輩の声は、終始穏やかだった。怒鳴ることも、脅すこともしない。けれど、その奥に潜む「底知れなさ」が、暴れていた翔太を沈黙させた。
「お嬢さん、大丈夫でっか?」
不意に、先輩が私を見た。細められた瞳の奥で、鋭い光が私を案じている。
「……はい、大丈夫です」
「そら良かった。怪我はないですか」
「ありません……助けていただいて、ありがとうございます」
「そうか」
先輩は翔太に視線を戻した。翔太の抵抗は、もう完全に消えていた。
「兄ちゃん。ワイはあんたを責めたいわけやない。ただな、女の子に手を出すのだけは、どんな理由があってもあきまへん。それだけや」
先輩がゆっくりと立ち上がり、翔太を解放した。翔太は地面に手をついたまま、しばらく項垂れていた。
「お騒がせしました。お気をつけて帰りなはれ」
それだけ言って、先輩はひらひらと手を振り、のんびりとした歩調で去っていった。まるで本当に、散歩の途中に迷い込んだ一般人のように。
嵐が去った後のような静寂。
翔太がゆっくりと立ち上がり、服の汚れを払った。その顔からはもう、先ほどの狂気は消えていた。ただ、ひどく疲れ切った、惨めな男の顔だった。
「……わかったよ」
彼は絞り出すように言った。
「別れる。それでいいんだろ」
「うん」
「俺のこと、最初から好きじゃなかったのかよ」
「……ごめんなさい」
正直に言えたのは、それだけだった。
翔太はしばらく私の顔を見つめ、「そっか」とだけ呟いた。
彼は一度も振り返ることなく、公園の出口へと消えていった。
終わった。
胸の奥が軽くなるかと思ったけれど、実際はただ、静かな空虚があるだけだった。風が、また私の髪を揺らす。
「亜里沙さん!」
千鶴ちゃんの声。振り返ると、彼女とシエラちゃんが駆け寄ってくるところだった。
「大丈夫でしたの!? 途中から声が聞こえてきたので、居ても立ってもいられなくて……」
「うん、大丈夫。ちゃんと、お別れしてきたよ」
千鶴ちゃんは私の顔をじっと見つめ、それから優しく私の手を包み込んだ。
「よく頑張りましたわ、亜里沙さん。本当によく頑張りました」
その言葉が、ようやく私の心を解凍していく。
少し離れた場所で、シエラちゃんがじっと私を見ていた。
彼女は何も言わなかった。けれど、その澄んだ瞳はすべてを見通しているようで、そこにいてくれるだけで、不思議な安心感に包まれた。
三人で並んで、公園のベンチに座る。
夕焼けが、木々の隙間から私たちを赤く染めていた。
もう、怯える必要はない。
新しい人生の幕開けを祝うように、夕風が優しく吹き抜けていった。
第5章 了




