第4章 空き教室の真実
付き合って、二週間が経った。
翔太とは相変わらず学校では距離を置いている。彼が二人きりになろうと画策するたび、私は千鶴ちゃんの背中に隠れるか、適当な用事を作ってその場を切り抜けてきた。
翔太が納得していないのは痛いほどわかる。
でも、体がどうしても拒絶してしまう。彼に近づかれるだけで肩が強張り、呼吸が浅くなる感覚。その生理的な嫌悪感は、時間が経っても一向に薄れる気配がなかった。
別れなきゃいけない。
その決意は揺るがないけれど、決定的なタイミングを掴めないまま、ただ時間だけが無情に過ぎていく。
その日の朝も、私は梨香と並んで廊下を歩いていた。
「ねえありさ、最近翔太と上手くいってんの?」
隣でケラケラと笑いながら、梨香が探るような視線を向けてくる。
「まあ、普通だよ」
「ふーん。なんか翔太、最近ちょっとイライラしてるっぽかったけど?」
「そうなの?」
「うん。まあ、彼女に避けられてたらそうなるよねー」
さらっと告げて、梨香はまた面白そうに笑った。
私は何も答えられず、視線を落とす。
「ありさってさ、翔太のこと本当に好きなの?」
「……どうしてそんなこと聞くの?」
「なんとなく。一緒にいる時、あんまり楽しそうに見えないからさ」
梨香の言葉はどこまでも軽い。なのに、どうしてこんなに核心を突いてくるんだろう。
「まあ、色々あってね」
「そっか。まあ翔太って、一緒にいると飽きないタイプだと思うけどね。私的には、だけど」
「じゃあね」とひらひら手を振って、彼女は自分のクラスへと消えていった。
その後ろ姿を見送りながら、私はふと立ち止まる。
梨香は、私の知らない翔太をよく知っている。……その事実に、胸の奥がざわついた。
その日の放課後。担任に呼び止められ、職員室の教材整理を手伝うことになった。
「助かったよ、如月。ありがとうな」
作業を終えた頃には、窓の外はすっかり濃いオレンジ色に染まっている。
私は一人、忘れ物を取りに自分の教室へと向かった。放課後の校舎は静まり返り、遠くから運動部の掛け声が響いてくるだけ。
三階の廊下を歩いていた、その時だった。
少し先の空き教室のドアが、中途半端に開いているのが目に入る。
普段は施錠されているはずの場所から、忍び笑いのような声が漏れていた。
男の声と、女の子の甘ったるい声。
心臓が嫌な跳ね方をして、足が勝手に止まった。
「どうしたの、急に。もうこういうのやめるって言ってたじゃん」
「……最近、ありさに避けられてるんだよ。キスもさせてくれない。マジで意味わかんねえ」
その声に、全身の血が引いていく。
翔太だ。
「やだー、何それ! めっちゃウブじゃん」
「笑えねえよ。嫌われてるのか何なのか。それにあの不破って奴が、ありさにちょろちょろ近づいてるのもムカつくんだよ」
「えー、浮気? ありさって順調そうに見えて、案外裏がありそうな感じー?」
「なわけねえだろ。あいつはお前と違って、男と遊び回るような女じゃない」
「失礼しちゃうな、私をビッチだって言いたいの?」
「……間違ってねえだろ。今だって何人かと繋がってんじゃねえの?」
「やだー、それは乙女の秘密! でもいいじゃん、お互い割り切れるから便利なんでしょ? 二週間前に急に『やめる』とか言われた時は驚いたけど、結局こうなるんだよね」
「うるせえ。……本当だったら今頃、ありさとヤッてるところだったんだよ」
「あはは、素直じゃん。じゃあ今日はそのうっぷん、私で晴らしなよ」
会話が途切れる。
私は吸い寄せられるように、ドアの隙間から中を覗き見ていた。
薄暗い教室、夕陽の残光が差し込む床の上。
翔太が梨香を後ろから抱き込み、彼女の乱れた制服の隙間に手を滑り込ませている。梨香はそれを当然の特権のように受け入れ、艶然と微笑んでいた。
体の中が、音を立てて冷えていく。
怒りや悲しみよりも先に、鋭い氷を飲み込んだような冷徹な感覚が全身に広がった。
二週間前に、やめると言った……?
その言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
つまり翔太は、私と付き合い始める前から梨香と関係を持っていたのだ。
そして私と付き合うから一度は清算しようとしたけれど、私が彼を拒絶したから、またすぐに彼女のところへ戻った。
一周目の私は、この裏切りに全く気づいていなかった。
それどころか、彼の執着を「愛されている証拠」だと信じて疑わなかったのだ。
なんて滑稽なんだろう!
結局、昔の私は翔太に恋をしていたのではない。
ただ、恋をしている自分という形に酔っていただけだったのかもしれない。
踵を返そうとした瞬間、持っていたバッグが廊下の壁に当たった。
乾いた音が、静まり返った廊下に響く。
部屋の中の空気が、ぴたっと止まった。
翔太が顔を上げ、私と目が合った。
彼の瞳が、驚愕で凍りつく。
梨香もこちらに気づき、唇を歪めた。その顔には、気まずさよりも「面白がっている」ような色が透けて見えた。
「ありさ……っ」
翔太が絞り出すような声を上げたけれど、私はもう走っていた。
廊下を駆け抜け、階段を一気に飛び降り、昇降口で靴を履き替えるのももどかしく校舎の外へ飛び出す。
冷たい夕方の空気が、火照った頬を叩く。
校門を出て、電柱の陰でようやく足を止めた。
膝に手をつき、荒い呼吸を整える。
不思議と、涙は一滴も出なかった。ただ、胸の奥に澱んでいた迷いが、あの光景を見た瞬間にすべて消え去っていた。
別れよう。もう一秒だって、あの男に私の時間を奪わせない。
明日、ちゃんと終わらせる。
そう心に決めて、顔を上げた時だった。
夕闇が迫る道の向こうから、見覚えのある長身の影が歩いてくる。
「……亜里沙さん?」
低いけれど、どこか透き通った声。
蓮司くんだった。
彼は私の乱れた呼吸と、何かに取り憑かれたような表情を見て、微かに眉を寄せた。
「……蓮司、くん」
名前を呼ぼうとしたけれど、声が掠れてうまく出ない。
夕陽を背負った彼のシルエットが、私の前に静かに立ち止まる。
彼は私の肩が小刻みに震えていることに気づいたのか、一歩、間を詰めた。
何かあったのか。何を見たのか。
彼はそれを問い詰めるようなことは一切しなかった。
ただ、静かに私の瞳をじっと見つめてくる。その眼差しは驚くほど優しくて、それだけで胸の奥の冷たい氷が、音を立てて溶け出していくのがわかった。
「……送ります。家まで」
短く、それだけ。
「大丈夫?」とも「何があった?」とも聞かない。
そのぶっきらぼうなまでの気遣いが、今の私には何よりも救いだった。
「……ありがとう」
私は小さく頷いて、彼の隣を歩き出した。
二人で歩く夕暮れの道。会話は何一つない。
けれど、隣を歩く彼の体温や、規則正しい足音を感じるだけで、さっきまでの絶望が遠い過去のことのように思えてくる。
彼は時折、チラリと私の方に視線をやる。
何かを察しているのは明白だった。私の表情から、絶望と、それから……「決別」の覚悟を読み取っているのかもしれない。
それでも彼は、私が自分から話し出すのを待つように、ただ沈黙を守り続けてくれた。
何も言わなくても、伝わっている。
私を、守ろうとしてくれている。
その確信が、形のない温かな信頼となって、二人の間にゆっくりと満ちていった。
明日、翔太と対峙する。
その恐怖はもう、どこにもなかった。
夕暮れの道を、二人で歩く。
足取りは、来る時よりもずっと軽かった。
第4章 了




