第3章 それぞれの思惑
入学式から数日が経った。
新しいクラスの空気に、少しずつ体が慣れてきた頃。翔太とは学校では距離を取ることにした。翔太は納得していない様子だったけど、「恥ずかしいから」と言い張ると、それ以上は追ってこなかった。
それだけで、ずいぶん楽になった。
一時間目が終わって、休み時間になった。
窓の外を眺めながら、ぼんやりしていると、千鶴ちゃんが隣の席に来た。
「亜里沙さん、今日は顔色がよさそうですわ」
「そう?」
「ええ。なんだか、入学式の日よりもすっきりされた感じがいたしますもの」
「翔太くんと距離を取ることにしたから、ですかしら」
「……まあ、そうかもね」
それ以上は言わなかった。でもその目が、どこかほっとしているように見えた。千鶴ちゃんは翔太のことがあまり好きじゃないんだろうな、とは薄々感じていた。聞かなかったけど。
その頃、廊下では……
一時間目を終えた翔太が、友人と肩を並べて廊下を歩いていた。まだ入学したばかりで、どこかざわついた空気が廊下にも漂っている。
そこに、向こうから歩いてくる女子が目に入った。
明るい茶色の髪。折り上げたスカート。つやつやとした唇が、人混みの中でもやけに目を引く。翔太は思わず顔をしかめた。
「ヤッホー、翔太。今日から同じクラスだね。どう、記念にうち来ない? サービスするよー」
梨香は人目もはばからず、明るい声で言った。
「何言ってんだ。もうお前とは関わらないって言っただろ。てかよくこの高校に入れたな」
「ひどい。私だってちゃんと頭使ったんだから。とある先生にサービスしてあげたの。私、賢いでしょ」
「はあ? おっさん相手にまでかよ。節操ないな」
「またひどいこと言った。私だって傷つくんだからね。もーやだ、ひどすぎ」
悪びれる様子は一切ない。口では傷ついたと言いながら、その目は笑っていた。翔太は溜め息をついた。
「あーそうかよ。とにかく関わらないから、ほかの男とでも遊んでろ。俺には今、上玉の女がいるんだよ」
「うわ最低。それ、ありさに聞かれたら引かれるよ」
「言うわけないだろ。さりげなく誘っていけばいいんだよ。一回流れに乗ったらこっちのもんだ」
「まあ、ありさちゃん、押しに弱そうだもんね。あ、授業始まっちゃう。じゃあ気が変わったら呼んでね、相手してあげる」
梨香はひらひらと手を振って、廊下の先に消えていった。
翔太はその背中を見送って、舌打ちした。
上玉の女、という言葉が自分の口から出た瞬間、亜里沙の顔が浮かんだ。最近ずっと避けられている。二人きりになろうとすると、どこかに行ってしまう。何が気に入らないのか、さっぱりわからなかった。
わからないから、余計にイライラした。
同じ頃……
教室に一人残った千鶴ちゃんは、窓の外を見ながら静かに心の中でつぶやいていた。
ありさちゃんが翔太くんと付き合い始めた時は、本当に驚いたわ。正直、翔太くんってあんまり好きじゃないのよね。いつもいやらしい視線が体の方に向いていて、本当に気持ち悪かったですもの。ありさちゃんはとても優しい子なのに、あんな男性を好きになったのかしらって、ずっと心配していたの。できることなら別れてほしいですわ。
でも今朝、学校では距離を取るって言ってくれた時は、少しだけほっとしましたわ。
窓の外では桜の葉が風に揺れていた。花びらはもうほとんど残っていない。
それに比べて……蓮司様は今日も静かに教室にいらして。同じ教室にいるのに話しかけるタイミングが掴めないのが寂しいですわ。みんなには早く告白しなさいって背中を押されているのに、いざとなると足がすくんでしまって。私なんかで本当に満足してもらえるのかしら。お父様のご紹介で、仕方なく私のそばにいてくださっているだけなんじゃないかって思うと不安で。
……結衣ちゃんが言っていたわね。蓮司様は一人の女性だけだと持て余してしまうって。今は三人でお相手しているから満足していただけているけれど、女性は増えた方がいいって。それに結衣ちゃん、たまには私の限界なんか気にしないで蓮司様のしたいようにめちゃくちゃにしてほしいって、あの顔で言うんだから。
……いけない、顔が熱くなってしまいましたわ。でも……いつか蓮司様に、私の全てを余すところなく捧げられる日が来るかしら。その時はどうか、私のことも愛してくださいませ……みんながいてくれているから、私も踏み出せる気がするの。
お昼休みになった。
購買でパンを買って教室に戻ろうとしていた時、人混みの中に蓮司くんの姿が見えた。
廊下のざわめきの中で、あの人だけが静かにいる。それがなぜかすぐにわかってしまうのは、きっと目が慣れてきたからだ。
「ありささん、同じクラスになれて嬉しく思います。まず一年間、よろしくお願いします」
「蓮司くん、私のことはありさでいいよ。私も名前で呼んでいいかな」
「もちろんです。昔みたいに呼んでくれるのは嬉しいです、ありささん」
「うん、そっちの方がいいね。こちらこそ、これからもよろしく」
短い会話だった。それだけ。
でも教室に戻りながら、ずっと顔が緩んでいた。パンを食べながら、何度もあの声を頭の中で再生してしまった。
昔みたいに、という言葉が、胸の奥でじんわりと温かかった。
放課後、下駄箱で靴を履き替えていると、隣に蓮司くんが来た。
「ありささん、今帰りですか」
「うん、帰りだよ」
「よかったら、途中までご一緒しませんか」
「もちろんいいよ。蓮司くんとちゃんと話してみたかったの」
「そうですか、嬉しいです」
二人で並んで校舎を出た。夕方の空気が柔らかく、桜の葉が風に揺れている。帰宅する生徒たちの声が遠ざかっていくにつれて、二人の周りだけ、静かになっていった。
「ありささん、一つお聞きしたいことがあるのですが」
「何でも聞いて」
「翔太さんについてなのですが……付き合っているという噂を聞いたのですが、本当ですか」
思わず、蓮司くんの顔を見た。
「え……ま、まあ。一応付き合ってる、かな」
「一応?」
「何というか、色々あって流れで付き合ったんだけど、まだ1週間だよ。でも正直、もう別れたいんだよね」
「え、どうしてですか。彼がありささんに何か……」
「あー何もされてない、大丈夫。だけどやっぱり合わないかなって。翔太に触れられるの、なんか嫌なんだよね。気持ち悪くて」
蓮司くんが、足を止めた。
夕方の道に、二人分の影が伸びている。
「ありささん、男性に対して全般的にそういう感覚が?」
「違う違う、翔太にだけ。わからないんだけどね」
少しの間、蓮司くんは黙っていた。何かを考えるような、静かな間だった。
「すみません、嫌だったら断ってください。手を触ってもいいですか」
「え、どうして」
「本当に翔太さんにだけ嫌な思いをするのか、確認したくて。嫌ですか」
「嫌じゃないよ、全然。はい、触ってみて」
蓮司くんの手が、私の手に重なった。
そのまま、指が絡んだ。
恋人繋ぎだった。
心臓が、ひとつ大きく鳴った。体のどこも、固まらなかった。翔太に触れられそうになる時の、あの感覚が全くない。
「どうでしょう、嫌でしたか」
頬が熱かった。
「嫌じゃない、よ」
「翔太さんに対して、本能的に拒否反応が出てしまうということでしょうか」
「わかんない。でも、やっぱり別れた方がいいよね」
蓮司くんははっきりと言った。
「そうですね。別れられた方がよろしいかと。何かありましたら、私が必ずサポートします」
「ありがとう。じゃあ私、こっちの道だからまた学校でね」
早足でその場を離れた。
顔が熱かった。心臓がうるさかった。翔太に手を繋ごうとされた時の、あの固まる感覚が、蓮司くんの時は欠片もなかった。
むしろ……離したくなかった。
その気持ちだけが、夕暮れの道にぽつんと残った。
少し離れた道で、蓮司の隣に人影が並んだ。
いつの間にそこにいたのか、龍二は欠伸をかみ殺しながら歩いていた。常に眠そうに見える目が、今日も細いままだった。
「坊ちゃん、ええもん聞けましたなあ」
「盗み聞きするな」
「盗み聞きちゃいますよ。たまたま近くにおっただけで」
龍二の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「それにしても不思議なもんやな、付き合って1週間で別れたがってるなんて」
「ところで、翔太について調べてきてくれ」
「ほう」
一拍の間があった。
「始末しましょか」
「そこまでやらなくていい。今はとりあえず警戒してくれ。ありさに何かあったら、絶対に許さない」
「わー怖い怖い。そないに本気になったら逃げられてしまいますよ、ありさはんに」
「お前に言われたくない」
「まあ、わいは手っ取り早いのが好きですからね。そっちの方が楽やし」
「……」
「冗談ですって。了解です、あの男の情報、調べてきまひょ」
龍二はゆっくりと歩き去っていった。その背中は相変わらず、どこかのんびりとして見えた。
蓮司はありさが消えた方向に、静かに視線を向けた。
手を離した後、頬を染めたまま早足で去っていくあの後ろ姿。
胸の中で、静かに何かが固まっていく。
急がなくていい。でも……必ず、そばにいる。
第3章 了




