第2章 桜の下で交わる視線
「覚えていてくれた。ただそれだけで、胸が震えた」
入学式の朝、校門までの坂道は桜のトンネルになっていた。
風が吹くたびに花びらが舞って、制服姿の新入生たちの肩に降り積もる。みんなどこかそわそわしていて、それでいて嬉しそうで、春の空気がそのまま人の形をしているみたいだった。
私も、その中の一人として歩いていた。
でも胸の中にあるのは、みんなと同じ期待じゃない。もう一度やり直せる。その一点だけを、ぎゅっと握りしめながら。
「ありさ、待ってよ」
後ろから翔太の声がした。小走りで追いついてきて、当然のように隣に並ぶ。
「おはよ」
「おはよう」
歩きながら、翔太の手が私の手に触れようとした。
半歩、横にずれた。
「……ありさ?」
「もうすぐ校門だから。人がいっぱいいるし」
「別にいいじゃん、付き合ってんだし」
「私はちょっと恥ずかしい」
翔太は何か言いたそうな顔をしたが、黙った。
触れられそうになった瞬間、体がほんの少し固まった。翔太は気づいていない。気づいていないから、不満そうな顔だけして、それ以上は追ってこない。
校門の手前まで来た時、翔太が「あ、健吾いた」と言って友人の方へ駆けていった。
一人になった瞬間、静かに息が出た。
桜の並ぶ通路を歩いていると、少し先に一人で立っている男子生徒が目に入った。
前髪が少し長くて、手に教科書を持ちながら、どこか遠くを見ている。地味な印象。目立たない立ち方。周りの騒がしさの中に、静かにいる。
でも私には、わかった。
不破蓮司。
胸が、静かに跳ねた。
「如月さん」
向こうから声がかかった。こちらへ歩いてくる。
「……不破くん?」
「覚えていてくださいましたか。如月亜里沙さん、ですよね」
穏やかな声。落ち着いていて、でもどこかに確かな温度がある。
「もちろん覚えてるよ。びっくりした、不破くんこそ私のこと覚えてくれてたんだ」
「もちろんですよ。あなたとの思い出は、私にとってとても大切なものですから。忘れませんよ」
まっすぐだった。その目に、嘘がない。あの頃の私を、ちゃんと覚えていてくれていた。
「ところで、隣にいらっしゃる男性はどなたでしょうか」
振り返ると、いつの間にか翔太が戻ってきていた。腕を組んで、不破くんをじっと見ている。
「あ、えっとこの子は翔太くん。私の幼馴染、かな」
「おい亜里沙、何言ってんだよ。俺たちは——」
ごっ、と鈍い音がした。
翔太のわき腹に、思い切り拳を当てていた。
「っ……いてえ! 何すんだよ!」
「大丈夫ですか」
不破くんの声は、少しだけ笑いを含んでいた。
「大丈夫大丈夫、気にしないで」
「ところで」
不破くんが、また私の方を向いた。
「ずいぶんと雰囲気変わったね。前はもうちょっと……王子様って感じだったのに」
「まあ、色々ありまして。がっかりさせてしまったなら、すみません。今後とも、学園生活をよろしくお願いします」
「私こそ、仲良くしてくれると嬉しいな」
「では僕はこれで。同じ教室で慣れるといいですね」
「あはは、またね」
不破くんは小さく会釈して、校舎の方へ歩いていった。
その背中が遠ざかっていく。
緊張が、ゆっくりとほどけていく。会えた。話せた。ちゃんと、覚えていてくれていた。それだけで、今日ここに戻ってきた意味がある気がした。
「ありさ」
翔太の声が、隣から飛んできた。
「今のあの男、誰だ」
「昔の友達。小学校の頃に別れて以来かな」
「ふーん」
不破くんが消えた方向を、翔太がしばらく見ていた。
「てかなんで俺を殴ったんだよ。俺は彼氏だぞ」
「だって恥ずかしいじゃん。私たち、まだ付き合って一週間も経ってないのに。学校では秘密にしてほしい」
「は? そうしたら学校でイチャラブできないじゃないか」
「するわけないでしょ、人前で。私に触れないでよ」
「ありさ、今日おかしいぞ。急になんだよ」
「とにかくそういうことだから。私、千鶴のところ行ってくるね」
「おい待てよ、話は——」
そのまま翔太から離れた。後ろから名前を呼ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。
足が、軽かった。
校門の脇の車寄せに、黒い高級車が静かに止まっていた。
後部座席のドアが開いて、千鶴ちゃんが降りてきた。
ふわっとした淡い色のワンピース。柔らかそうな髪。丁寧に結んだリボン。降り立った瞬間から、周りの空気が少しだけ変わる。
「千鶴!」
気づいた瞬間、走っていた。
「ありさちゃん!?」
思い切り抱きついた。千鶴ちゃんの体が、ふわっと柔らかかった。
「ちょ、ありさちゃん、どうしましたの、急に」
「うん、なんとなく抱きしめたくなって」
「もう、びっくりしましたわ」
千鶴ちゃんがそっと抱き返してくれた。
「おはよう、千鶴ちゃん」
「おはようございますわ。今日から同じ高校ですわね」
「嬉しい。高校からはもっと遊びに行きたいな。中学の時はなかなかタイミングが合わなくて」
「ええ、もちろんですわ。私もずっとそう思っていましたから。楽しみですわね」
しばらくして、千鶴ちゃんが少し声を落とした。
「そういえば、翔太様とお付き合いになったと聞きましたのですが、そちらは大丈夫ですの?」
「大丈夫大丈夫。学校ではあんまり関わらないようにしようと思って」
「あら、珍しいですわね。いつも一緒にいたイメージですのに、付き合ってから逆に離れるんですの?」
「あはは、まあちょっと照れくさくて」
「あらあら。それならありさちゃんを取られる心配はないですわね」
「もちろんだよ。今まであんまり会えなくてごめんね」
「構いませんわ。私も色々ありましたもの。これからの学園生活が楽しみですわ」
「うん。新しいお友達もできるといいね」
「ええ……そうですわね」
千鶴ちゃんの声が、ほんの少しだけ温度を変えた気がした。
微笑みはそのまま。でもその「そうですわね」の中に、何か含みがある。すでに誰かのことを思い浮かべているような、そういう目だった。
「千鶴ちゃん?」
「なんですの?」
「なんか、今ちょっと違う顔してた」
「そんなことありませんわよ」
それ以上は聞かなかった。
二人で並んで校舎に向かいながら、人混みの中に自然と視線を走らせていた。
どこかにいるはずだ。
校舎の入り口の手前、桜の木の陰に、不破くんがいた。こちらには気づいていない。ただそこに立っているだけなのに、周りの騒がしさから少しだけ切り離されているような、独特の静けさがある。
その背中を、ただ目で追った。
言葉は何もいらなかった。
今度は間違えない。
花びらが一枚、不破くんの肩に降り積もって、風に飛ばされた。
「ありさちゃん、行きますわよ」
「うん、行こう」
千鶴ちゃんと並んで、校舎の中に入った。
校門から少し離れた木陰で、不破蓮司は一度だけ後ろを振り返った。
如月さんが白鳥と並んで校舎に入っていく。隣にあの男の姿はない。
胸の中で、何かがゆっくりと動いた。
覚えていてくれた。あの頃と同じ笑顔で、ちゃんと自分を認識してくれた。それだけのことなのに、思っていたより、ずっと大きく響いた。
ただ——隣にいたあの男が気になった。
幼馴染、と彼女は言った。でもその言い方が、どこかぎこちなかった。
まあいい。今はまだ、それだけでいい。
不破蓮司は前を向いて、校舎に向かって歩き出した。
その頃、白鳥千鶴は如月亜里沙の隣を歩きながら、心の中で静かに息をついていた。
新しいお友達ができるといいですね、とありさちゃんは言った。
その言葉が、胸の奥でじわっと温かくなった。
ありさちゃんにも、いつかあの人たちのことを知ってほしい。蓮司様のそばにいる、あの素敵な人たちのことを。きっと仲良くなれる。きっと。
でも今は、まだ早い。
千鶴ちゃんは微笑みを保ったまま、ありさちゃんの隣を歩き続けた。
第2章 了
亜里沙の二度目の春、いよいよ動き始めました。蓮司くんとの再会、どうか温かく見守ってください




