第40話 変わりゆく日々
朝、亜里沙が登校の支度をしていると、いつもより少し、足取りが軽かった。
ここ数日、めまぐるしく日々が過ぎていく。倉庫での事件、千鶴ちゃんたちとの距離、月島さんのこと。一周目では決して味わえなかった、賑やかで、温かい毎日。
(……今日も、何かあるのかな)
そんなことを思いながら、亜里沙は家を出た。
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教室の扉を開けて、亜里沙は、思わず足を止めた。
教室の中が、なんだか、ざわついている。
その視線の先にいたのは──一人の、見慣れない美少女だった。
艶やかに整えられた髪。すっと伸びた背筋。自然で品のあるメイク。仕立ての良さがにじむ着こなし。誰もが、思わず振り返ってしまうような、可憐な少女だった。
「ねえ、あの子、誰?」
「うちのクラスに、あんな子いたっけ?」
「転校生?」
ひそひそと、そんな声が飛び交っている。
亜里沙は、その子の顔を見て──思わず、目を見開いた。
(……えっ、月島さん!?)
昨日、美容院と結衣ちゃんの家で見たはずなのに、制服姿の月島は、また一段と、印象が違って見えた。
その月島が、亜里沙に気づいて、ぱっと顔を輝かせた。
「あ……如月さん、おはようございます……!」
ぺこりと、丁寧に頭を下げる。
「お、おはよう、月島さん。……うわ、すごい。メイク、すごく上手にできてるね」
亜里沙が感心すると、月島は、嬉しそうにはにかんだ。
「冴子さんが、LINEで……学校で使ってもいい化粧品とか、メイクの方法を、丁寧に教えてくださったんです」
「そうなんだ。とっても自然で、可愛くできてると思うよ」
「は、はい……! ありがとうございます……!」
月島の表情は、昨日までの、おどおどとしたものとは、まるで違っていた。きちんと前を向いて、自分の足で立っている。そんな、芯のある明るさがあった。
(……変わったなあ、月島さん)
亜里沙が、しみじみとそう思った、その時だった。
教室の入り口から、蓮司が入ってきた。
その瞬間──。
月島が、ぱっと立ち上がって、まっすぐに蓮司のもとへ向かっていった。
「不破くん、おはようございます……!」
弾むような、声だった。
「……ああ、おはよう。月島さん」
蓮司が、いつも通り穏やかに、けれど、ほんの少しだけ困ったように、挨拶を返す。
その瞬間、教室の空気が、ざわっと揺れた。
「……えっ?」
「ちょっと、何あれ」
「なんで、あんな可愛い子が、不破くんなんかに……」
「ってか、あの子、さっき月島さんって呼ばれてなかった? 月島って……あの、地味な?」
「うそ、別人じゃん」
「もしかして……あの二人、付き合ってるの? だから、急に変わったとか……」
ざわめきが、波のように広がっていく。男子の何人かは、あからさまに、蓮司を睨むような視線を向けていた。
亜里沙は、内心で、ひやりとした。
(……まずい)
蓮司くんは、正体を隠している。こんなふうに注目を集めるのは、彼にとって、避けたいことのはずだ。
その時だった。
「──月島さん」
すっと、千鶴が、月島の隣に歩み寄った。
そして、ごく自然に、けれど有無を言わせない優雅さで、その肩にそっと手を添える。
「ごめんなさい、少し、こちらへいいかしら。お話ししたいことがありますの」
「え、あ……は、はい」
千鶴は、にこやかな微笑みを浮かべたまま、月島を、さりげなく蓮司から引き離していった。
その鮮やかな手際に、ざわついていた教室も、なんとなく毒気を抜かれたように、少しずつ静まっていく。
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廊下の隅。人気のないところまで来ると、千鶴は、ふっと表情をあらためた。
「月島さん。──蓮司様には、あまり、学校で話しかけないほうがよろしいですわ」
「……えっ」
月島が、きょとんとする。
「気づきました? さっきの、教室の空気」
「……あ」
月島の顔が、さっと青ざめた。
「先ほど、あなたが蓮司様に話しかけた途端、教室中の視線が、お二人に集まりましたでしょう。──蓮司様は、目立つことを、避けていらっしゃるの。それは、あなたも、もう知っているはずですわ」
「……っ、す、すみません……!」
月島が、しゅんと肩を落とした。
「私、嬉しくて……つい。不破くんに、おはようって、言いたくて……。考えが、足りませんでした……」
その、しょげかえった様子に、千鶴は、ふっと表情をやわらげた。
「ふふ。お気持ちは、わかりますわ。私だって、本当は、学校でも蓮司様とお話ししたいんですもの」
「白鳥さん……」
「でも、今は、我慢の時。彼の正体を守るためにも、ね。──だから、学校では、あまり目立つことはしないように。いいですわね?」
「……はい。わかりました。気をつけます」
月島が、こくりと頷く。
「それと」
千鶴が、続けた。
「これからは、なるべく、私たちと一緒にいるようにしてくださいね。──今のあなたは、とても素敵ですもの。きっと、放っておかない殿方も、出てきますわ」
「……そ、そんな。私なんて」
「あら、本当ですわよ」
千鶴が、くすりと笑った。
そんな会話を交わしながら、二人は教室へと戻っていく。
やがて、予鈴が鳴って、慌ただしく一日が始まろうとしていた。
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けれど──その一部始終を、じっと見ている男がいた。
教室の隅。窓際の席で、一人の冴えない男子が、変わり果てた月島の姿を、食い入るように見つめていた。
地味で、目立たない男。これまで、誰にも気に留められたことのない、そんな男だった。
その男は、ずっと前から──月島のことを、密かに、見ていた。
誰にも相手にされず、いつも俯いて、本ばかり読んでいた、地味な月島。そんな彼女のことを、自分だけが見ていた。自分だけが、知っている。そんな、歪んだ独占欲を、心の奥で、ひそかに育てていた。
それなのに──。
(……なんだよ、あれ)
男の目が、暗く濁る。
(なんで、急に……あんな、綺麗になって。あんな、目立つ連中と、一緒になって……)
ぎり、と、奥歯を噛みしめる。
(……俺の、月島さんなのに)
その視線に、誰も、気づく者はいなかった。
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昼休み。
亜里沙が、お弁当を広げながら、ふと月島の方を見た。月島は、鞄から、自分のお弁当を取り出している。
「ねえ、月島さん。よかったら、私たちと一緒に食べない?」
亜里沙が誘うと、月島は、少し申し訳なさそうに首を傾げた。
「あ……ありがとうございます。でも、私、いつも、図書室で食べるようにしているんです。お当番も、ありますし……」
「えー、毎回、図書室まで行くの、大変でしょう」
亜里沙が言うと、月島は、はにかんだ。
「いえ、慣れていますから……」
その時だった。
「よ、月島さん」
一人の男子が、にやけた顔で、月島の席に近づいてきた。クラスでも、それなりに目立つ、軽薄そうな男だった。
「いやー、びっくりしたわ。月島さん、めっちゃ変わったね。マジで可愛くなったじゃん」
「……っ、え、えっと……」
月島が、戸惑って、身を縮める。
「ねえ、よかったらさ。今日の放課後、一緒に帰らない? ちょっと、話そうよ」
馴れ馴れしく顔を近づけてくる男に、月島が、おどおどと後ずさる。
「あ、あの、私……」
「いいじゃん、ちょっとくらい」
「──ねえ」
すっと、千鶴が、二人の間に割って入った。
その顔には、にこやかな微笑み。けれど、その目は、まったく笑っていなかった。
「あなた、何か勘違いしていらっしゃるみたいですけど」
凛とした、冷たいほどに澄んだ声だった。
「彼女、あなたが気軽に声をかけて、振り向いてもらえるような子では、ありませんのよ。──おわかり?」
「……っ」
その圧倒的な気品と、有無を言わせぬ眼差しに、男は、たじろいだ。
「あ……いや、その……」
「ご用が済んだのなら、どうぞ、お引き取りくださいませ」
にっこりと、けれど、ぴしゃりと言い放つ。
男は、すっかり気圧されて、「す、すんません……」と、すごすごと退散していった。
「……だ、大丈夫だった、月島さん?」
亜里沙が聞くと、月島は、ぽかんとした顔で、千鶴を見ていた。
「し、白鳥さん……すごい……」
「あら。これくらい、当然ですわ」
千鶴が、ふふっと笑う。
「とにかく……ここで食べるのも、落ち着きませんわね。場所を、変えましょうか」
そう言って、千鶴は、すっとスマホを取り出した。
「毎回図書室まで行くのも大変でしょうし……これなら、任せてくださいませ」
手早く、冴子にメールを送る。
ほどなくして、返事が来た。
「冴子さんが、このクラスから近い、使われていない教室を、教えてくださいましたわ。ここなら、図書室まで行かずとも、ゆっくりできますわね」
そこへ、結衣からも、メッセージが届いた。
「あら。結衣ちゃんは、今日は蓮司様と約束があるから、来られないそうですわ。冴子さんも、生徒会室で召し上がるとのことですわね」
結局、結衣と冴子を除いた、亜里沙、千鶴、舞、千夏、月島の五人で、冴子に教えられた空き教室へと移ることになった。
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落ち着いた空き教室で、お弁当を広げる。
ふと、舞が、さりげない様子で、千鶴に尋ねた。
「あの……千鶴さん。結衣さんが、蓮司様とお二人ということは……千鶴さんは、寂しくないんですの?」
「ふふ。お気遣い、ありがとうございます」
千鶴が、おっとりと微笑んだ。
「大丈夫ですわ。私たち、たまに話し合って、お一人ずつ、蓮司様と二人きりの時間を作っていますの」
「そうなんだ」
亜里沙が、感心したように言った。
「やっぱり、人数がいると、いろいろ大変だね」
その言葉に、月島が、あわわ、と落ち着かなげに、話を聞いている。
「そうですわね。今は、だいたい、月に二日か三日ほど、お一人ずつ、二人きりで過ごす時間を取っていますわ。──もし、これ以上人数が増えれば、その時間も、さらに減ってしまいますわね」
千鶴は、そう言って、ちらりと月島を見た。月島が、ぴくっと肩を震わせる。
「でも、それは、今だけの話ですわ」
千鶴は、安心させるように続けた。
「もし、これ以上増えることになれば……その時は、蓮司様と話し合って、学校でも、もっと普通にお話しできるように、してもらうつもりですの。だから、月島さん。あまり、気にしないでくださいね」
「……は、はい」
「今、学校でこうして隠れているのが、本当に正しいのかも……正直、まだ、わからないところがありますし」
千鶴が、少し苦笑する。
「そうですわね」
舞が、頷いた。
「以前、女子の方たちが話しているのを、耳にしたことがありますの。……私たちのグループの、悪口を」
「お嬢様、そういうのは、気にしなくて大丈夫です」
千夏が、すかさず言った。
「暇な方は、何に対しても、文句をおっしゃいますから」
「ふふ。わかっていますわ。気にしていませんもの」
舞が、おっとりと笑う。
「ただ……今回のように、殿方から絡まれることがあると、少し困りますわね」
「それなんですけど」
千鶴が、ふと、声を落とした。
「最近、龍二さんが、お忙しいようで……学校に、いらっしゃっていないんですの。それを狙って、近づいてくる殿方も、いるかもしれませんわ。ですから、皆さんも、気をつけてくださいね」
「龍二さんが……」
亜里沙が、少し首を傾げた。
「まあ、大丈夫じゃないかな。さすがに、このグループに話しかけてくる度胸のある男なんて、そういないでしょ」
それから、亜里沙は、月島の方を向いた。
「でも、月島さんは、特に気をつけてね。今の月島さん、学校でも、なかなかの美少女だから。──前の月島さんを知ってて、今になって狙おう、なんて男が、現れてるみたいだし」
「は、はい……。わかりました」
月島が、神妙に頷く。
それから、ふと、思い切ったように口を開いた。
「で、ですが……私も、不破くんと、お話がしたいです。そういう時は、どうすれば、いいんでしょうか」
その、まっすぐな問いに、亜里沙は、ちょっと驚いた。
(……あれ。月島さん、なんだか、前向きになったなあ)
ついこの間まで、自分なんて、と俯いてばかりだった子が。
「なんだか、月島さん、変わったね。すごく、前向きになった」
亜里沙が言うと、月島は、こくりと頷いた。
「……はい。昨日、皆さんのお話を聞いて。私、堂々と生きることに、決めたんです」
その瞳には、静かな決意が宿っていた。
「不破くんに、釣り合う女性になりたくて。それに……周りに流されないように、なりたいんです。毎回、皆さんに助けてもらうわけには、いきませんから」
「……月島さん」
「別に、そんな、気にしなくてもいいのに」
亜里沙が、くすりと笑った、その時だった。
千鶴のスマホが、ぴこん、と鳴った。
画面を確認した千鶴が、ふっと微笑む。
「あら。──月島さん、よかったですわね」
「え……?」
「蓮司様が、月島さんに会いたいと、結衣ちゃんに相談なさったみたいですわ」
「……っ!?」
月島の顔が、ぱあっと赤くなる。
「今日の放課後、蓮司様のお家に、行きませんか?」
「い、行きます……! 行かせて、ください……っ!」
月島が、声を弾ませた。その横顔は、これ以上ないほど、幸せそうに輝いていた。
その様子を眺めながら──。
亜里沙の胸に、ふと、小さな寂しさが、よぎった。
(……みんな、どんどん、進んでいくなあ)
千鶴ちゃんも、結衣ちゃんも、冴子さんも、シエラちゃんも 月島さんも。そして今、舞も、千夏も、なんだか不思議と。みんな、蓮司くんへの想いを、まっすぐに進めていく。
それなのに、自分だけは──。
(……私は、どうしたいんだろう)
蓮司くんに惹かれている。それは、もう、わかっている。でも、自分がこの先、どうしたいのか。みんなのように、まっすぐに進んでいいのか。それすら、まだ、決められずにいた。
なんだか、自分だけが、置いていかれているような。そんな、淡い寂しさを、亜里沙は、そっと胸の奥にしまい込んだ。
「……さ、ご飯食べよ」
ことさら明るく言って、亜里沙は、お弁当に箸を伸ばした。
賑やかな笑い声に包まれた教室で、亜里沙だけが、ほんの少しだけ、遠くを見ていた。
第40話 了




