第36話 依存しない関係
蓮司くんの車は、驚くほど静かに、夜の街を走っていた。
ふかふかのシートに身を預けながら、亜里沙は、隣で運転する横顔を、そっと見つめた。
ハンドルを握る、長い指。前を見据える、落ち着いた眼差し。街灯の光が、その横顔を、ちらちらと照らしては流れていく。
(……綺麗な人だな)
ふと、そんなことを思って、亜里沙は、慌てて視線を逸らした。なんだか、見ていると、胸の奥がそわそわする。
「……ねえ、蓮司くん」
「ん?」
「今日いた、あの子……月島さんだっけ。あの後、どうなったの?」
「ああ」
蓮司くんは、前を見たまま、穏やかに答えた。
「駅まで送って、そのまま帰ったよ。──そういえば、結衣に連絡したら、結衣にも同じこと聞かれたな」
「ふふ。みんな気になるんだよ」
亜里沙は、少し迷ってから、思い切って聞いてみた。
「それで……あの子のこと、どう思ったの?」
蓮司くんは、しばらく考えるように、間を置いた。
「そうだね。正直、驚いたよ」
「驚いた?」
「昨日、みんなが帰った後、残ってた仕事を終わらせて、冴子と合流しようとしたんだ。そうしたら、前を歩いてた女の子が、急に転んでね」
蓮司くんが、その時のことを思い出すように、目を細める。
「手を差し伸べて、埃を払うのにハンカチを渡したんだけど……その時、彼女の顔を見たんだ。あの瞳に、吸い込まれそうになったよ。俺と同じで、髪で顔を隠してるみたいだったけど……すごく、綺麗な子だった」
「……それで、口説いたってわけ?」
亜里沙が、半ば呆れたように言うと、蓮司くんは、ふっと笑った。
「そうなるかな。あんまり自分を否定するから、もったいないと思ってね」
「彼女にしようとしてる、とかじゃないの?」
「はっきり言えば……欲しいね」
あまりにあっさりと言うので、亜里沙は思わず固まった。
「でも、それは、彼女と、結衣たち次第だよ」
「……聞きたいんだけどさ」
亜里沙は、ずっと気になっていたことを、口にした。
「どうして、そこまで彼女を増やそうとするの?」
「増やそうとは思ってないよ」
蓮司くんは、静かに首を振った。
「でもね。好きになった女の子を、常識にとらわれて手放して……その子が、他の誰かのところに行ってしまう。それは、やっぱり嫌なんだ」
「何それ」
亜里沙は、思わず噴き出してしまった。
「蓮司くんって、案外、子供なんだね」
「そうかもしれない」
蓮司くんは、悪びれもせず頷いた。
「だけど、我慢するのが大人だっていうのなら……俺は、子供のままでいいよ。彼女たちが許してくれる限り、俺はこの性格を、変えるつもりはない」
「後で、後悔するかもしれないのに」
「そこは……俺の、力の見せ所かな」
その横顔には、迷いがなかった。
「こういう話は、彼女たちともしてあるんだ。俺たちは、お互いに依存しない。それを、ちゃんと決めてる」
「依存しない……」
「うん。彼女たちには、ちゃんと自分のやりたいことをやってほしいんだ。だから、嫌なことがあったら、必ず言ってくれって、伝えてある。そこは、しっかりしてるつもりだよ」
その言葉を聞きながら、亜里沙の胸に、ふと、一周目の記憶がよぎった。
翔太に依存して。彼の言いなりになって。自分のやりたいことも、自分の意志も、全部明け渡して……そうして、何もかもを失った。
(……確かに、そうなのかもしれない)
依存し合う関係は、一見、深く結びついているように見えて、その実、どちらかがどちらかに呑み込まれてしまう。あの頃の自分が、まさにそうだった。
「そうなんだね……」
「千鶴にも話してあるけど」
蓮司くんが続けた。
「特に結衣と冴子は、増えることに大賛成、って感じだな」
「やっぱり、そうなんだ」
「結衣とは、あるルールがあってね。彼女にとっては、俺に彼女が増えると、自分も得をするみたいなんだ。冴子は……まあ、女の子が可愛ければ問題ない、っていう考えだね」
「シエラちゃんは?」
「あの子は、ちょっと俺を信仰してるところがあるかな。『マスターが喜ぶことなら、私も嬉しい』って言ってたよ」
亜里沙は、苦笑した。
「一番、一般的な考えを持ってるのは、千鶴ちゃんかと思ってたんだけど」
「それがね。この前のことで、考えが、冴子とシエラの中間くらいになったみたいなんだ」
「……やっぱり、そうなんだ」
亜里沙は、ため息をついた。
「前にも思ったけど、なんだか……蓮司くんを好きになる女の子って、普通じゃない気がする」
「俺にとっては、みんな可愛い子たちだけどね」
蓮司くんが、楽しそうに笑う。
「本当だよ」
亜里沙は、しみじみと呟いた。
「みんなと一緒にいると、自分の価値観が、どんどん変わっていくのがわかる。……末恐ろしいよ」
そんな話をしているうちに、車は、亜里沙の家の前に着いた。
「送ってくれて、ありがとう。蓮司くん」
「俺も、ありさと直接、こうやって話せて良かったよ」
シートベルトを外しかけた亜里沙に、蓮司くんが、静かに言った。
「君には、ちゃんと俺の考え方を、伝えておきたかったからね」
その声に、亜里沙は、ふと手を止めた。
「それを踏まえて……君が、本当はどうしたいのか。よく考えるといい」
蓮司くんの目が、まっすぐに亜里沙を捉えた。
「君の選択なら、俺は尊重するよ」
亜里沙は、その瞳を見返して、小さく頷いた。
「……うん。わかってる」
(……この人は、やっぱり)
「じゃあね。また明日」
「ああ。おやすみ、ありさ」
車を降りて、亜里沙は、走り去っていくテールランプを見送った。
蓮司くんが、どういう人物なのか。少しずつ、わかってきた気がする。そして彼もまた、なんとなく、亜里沙の考えていることを察しているようだった。
(……あれは、みんな惚れちゃうよね)
あれだけまっすぐで、揺るぎなくて、それでいて優しい人なら。周りの女の子たちが、次々と心を奪われていくのも、無理はない。
そして──。
ふいに、車の中で過ごした時間が、胸に蘇る。
不思議だった。あの助手席に座っている間、亜里沙は、ずっと穏やかだった。何も飾らず、何も怯えず、ただ静かに、息ができた。隣にあの人がいるというだけで、張り詰めていた心が、ゆっくりとほどけていくようだった。
(……そうか)
一周目の自分を、思い返す。
翔太の隣では、いつも怯えていた。機嫌を損ねないかと顔色をうかがって、すり減って、安らげる瞬間なんて、一度もなかった。あれを、恋だと思い込んでいた。
でも、蓮司くんの隣は、まるで違う。
ただ、安心する。ただ、落ち着く。そばにいるだけで、ここにいていいんだと、思える。
(……こんな気持ち、知らなかったな)
翔太とは、もう決別できた。だったら、無理にあの人と向き合う必要なんて、ないのかもしれない。そう思う自分も、確かにいる。
それなのに。
あの隣の、温かな静けさを、もう一度味わいたいと、心のどこかが願っている。
(……まいったな)
ほんのり火照った頬に、夜風を感じながら。亜里沙は、その胸の温もりを抱きしめるように、とことこと、我が家へと帰っていったのだった。
第36話 了




