第35話 二つの家
「あの……これ、お返しするわね」
少女たちが帰り支度をしていると、カウンターの奥から、老主人がそっと封筒を差し出した。
「え?」
冴子さんが、目を丸くする。
「あの時は、状況が状況だったから受け取ったがね。もともと、客もいなかったんだ。それに、君たちはうちのコーヒーを、美味しそうに飲んでくれた。それだけで、十分だよ」
「でも、ご迷惑をおかけしたでしょうに」
「いいのよ」
おばあさんが、ころころと笑った。
「こんなに若くて可愛いお嬢さんたちが来てくれるなんて、いつぶりかしらね。……ところで、あなたたち、あの男の子のお知り合いかしら?」
「はい、そうです」
冴子さんが頷くと、おばあさんは、ふふっと悪戯っぽく笑った。
「あらあら。私はてっきり、彼氏を奪われそうになったから、あの子を威圧しに来たのかと思ったわ」
「こ、こら、ばあさん。失礼だろう」
おじいさんが、慌ててたしなめる。
「ふふ、冗談よ。でも……安心したわ」
おばあさんの目が、少し優しくなった。
「あの子ね、月島さん。とってもいい子なの。いつも一人で、本ばかり読んでてね。それが今日、初めて、誰かを連れてきたのよ。あんなに嬉しそうな顔、初めて見たわ」
その言葉に、少女たちは、そっと顔を見合わせた。
「だから、もし……あの子が失恋しちゃうんだとしても。それも、一つの経験よね」
「まだ、失恋すると決まったわけじゃないですよ」
ぱっと口を開いたのは、結衣ちゃんだった。
「蓮司くん、あの子のこと、結構気に入ってたみたいだし。……そこから先は、あの子次第ですけどね」
それから、結衣ちゃんは、ぐっと拳を握った。
「うん、決めた。私、燃えてきました。デザイナーの娘として、あの子を素敵なレディーにグレードアップさせなきゃ。──ねえ、千夏ちゃん」
「え、わ、私ですか!?」
突然名前を呼ばれて、千夏が目を白黒させる。
「うん。ちょっと買い物、付き合ってよ。色々見たいの」
「私も手伝うわ」
冴子さんも、静かに頷いた。
「え、彼女を、応援するんですか……?」
亜里沙が、驚いて聞くと、千鶴ちゃんが、ふふっと笑った。
「そうですわね。蓮司様は、そこまで意識してはいないでしょうけれど……でも、悪い子ではなさそうですもの」
「マスター、楽しんでた」
ぽつりとシエラちゃんが言う。その横顔は、まるで宝物を見つけたかのようだった。
老夫婦は、少女たちの会話の意味がよくわからず、きょとんとしている。
「おじいさん、おばあさん、心配しないでくださいね」
結衣ちゃんが、にっこり笑った。
「私たちも、あの子と仲良くなりたくなっただけですから」
「そうなのかい。……だったら、嬉しいね。あの子のこと、よろしく頼むよ」
「はーい、任せてください」
結衣ちゃんが、元気よく頷いた。
それから、ぱっと振り向く。
「じゃあ、千夏ちゃん、借りていくね。──みんなは、蓮司くんの家で待っててくれる? 買い物済ませたら、合流するから」
「え、あ、はい……!」
戸惑う千夏の手を引いて、結衣ちゃんは店を出ていった。
「では、私たちは蓮司様のお家へ参りましょうか」
千鶴ちゃんの言葉に、亜里沙、舞、冴子さん、シエラちゃんも、店を後にした。
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しばらく歩いて、一行はとある家に着いた。
普通の住宅よりは、かなり大きい。けれど、千鶴ちゃんの屋敷のような豪邸とは違う。洗練された、最新型の一軒家といった佇まいだった。
冴子さんが、玄関にスマホをかざすと、ぴっと電子音がして、扉が静かに開いた。
「すごい……かざすだけで開くんですね」
亜里沙が感心すると、冴子さんが頷いた。
「顔認証もされてるから、私以外が私のスマホを使っても、開かないようになってるの。最新式のセキュリティよ」
中に入ると、外から見るよりも、ずっと広かった。
「もっと、豪邸に住んでいらっしゃるものかと思っていました」
舞が、きょろきょろと見回しながら言う。
「使用人の方も、いらっしゃらないんですね」
「ここは別邸なの」
冴子さんが説明した。
「シエラちゃんの中学と、私たちの高校に近いところに引っ越したのよ。狭くても、必要なものは全部揃ってるから、不便はないわ。ジムもプールもあるし、リビングも大きめに作ってあるから……このサイズのほうが、みんなで集まる時、落ち着くのよ」
亜里沙は、改めて室内を見回した。
(……これで、狭いって)
自分からすれば、十分すぎるほどの広さだった。キッチンは広々として、床は石畳の部分と高級な木材の部分に分かれている。ソファの周りには大きなカーペットが敷かれていて、寝転がってもぐっすり眠れそうだった。
「では、お菓子を用意しますわね」
千鶴ちゃんが、キッチンへと向かう。
「私もお手伝いします」
舞も後に続いた。
キッチンは、かなり大きめに作られていて、見たこともないような調理器具がずらりと揃っていた。
「蓮司くんって、お料理されるんですか?」
舞が聞くと、千鶴ちゃんが頷いた。
「しますわよ。蓮司様のお料理、とっても美味しいんですの。でも、キッチンは主に、結衣ちゃんのテリトリーになっていますわね。私も、まだどこに何があるのか、全部は把握できていませんの」
「意外ですね。結衣さん、お料理ができるんですね」
「あら、そうよ」
リビングから、冴子さんの声がした。
「あの子、結構家庭的なの。ここにいる中で、一番お嫁さんスキルが高いのよ」
「そうなんですね……」
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その頃、リビングで室内を眺めていた亜里沙の目が、ふと、一枚の写真に留まった。
棚の上に、小さな写真立てが飾られている。そこには、幼い子供と、二人の大人が写っていた。
「……この子って、もしかして」
亜里沙は、思わずその写真に近づいた。
幼い子供の面影に、見覚えがある。落ち着いた目元。整った顔立ち。
「蓮司くん……?」
子供の隣には、優しそうな女性と、背の高い男性が立っていた。その男性は、亜里沙が一周目で死ぬ前に見た、大人になった蓮司くんの姿と、どこか重なる。頼もしくて、穏やかな佇まいだった。
「ええ、そうですわよ」
いつの間にか、千鶴ちゃんが隣に来ていた。
「蓮司様の、ご両親ですわ。私も、一度お会いしてみたかったものですわね」
「本当ですか? 見てみたいです」
声を聞きつけて、舞も近づいてきた。
亜里沙が、その写真をそっと手渡す。
写真を覗き込んだ瞬間──舞の動きが、止まった。
「……っ」
舞の目が、大きく見開かれる。
その瞳から、つうっと、一筋の涙がこぼれた。舞は、はっと口元を押さえる。
「舞さん……? 大丈夫? どうかした?」
亜里沙が、心配そうに声をかけた。
舞は、慌てて表情を取り繕おうとした。
「す、すみません……あんまり、可愛らしくて、驚いてしまって」
「わかるわ」
冴子さんが、くすりと笑う。
「今の蓮司くんもいいけど、小さい頃の蓮司くんって、本当に可愛らしいのよね。つい、見入っちゃうの」
「……そうですね」
舞は、控えめに微笑んだ。
けれど、その心の中では──。
(……間違いない)
写真の中の少年と、記憶の奥にいる、あの日の幼子。その二つが、今、完全に重なった。
(あの日、私を助けてくれたのは……翔太くんなんかじゃない。この人だったんだわ)
「……ちょっと、お手洗いをお借りしてもよろしいですか」
「そこをまっすぐ行って、二つ目の扉よ」
冴子さんの言葉に頷いて、舞は、ふらつく足で洗面所へと向かった。
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洗面所に入ると、舞はその場に、ぺたりと座り込んでしまった。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
今まで、蓮司くんに感じていた、あの不思議な感覚。ただ少し惹かれているだけだと思っていた。でも、そんな甘いものじゃなかった。
(私が、覚えていなかったとしても……私の心が、ずっと叫んでいたのね)
婚約相手を、ずっと間違えていた。あのゲスな男と、この人を比べることすら、失礼だった。
(こんなの……もう、運命でしかないわ)
胸の奥から、抑えきれない喜びが、ふつふつと込み上げてくる。心が、飛び上がりそうなくらい、嬉しかった。
火照った顔を冷まそうと、洗面台に立つ。
ふと、台の上に、男性用のものらしき歯ブラシが、一つ置かれているのが目に入った。つい、手を伸ばしかけて──その隣に、女性用らしき歯ブラシが、四つ並んでいることに気づいた。
(……そうでした)
舞の胸が、すっと冷える。
(あの人には、もう……千鶴さんたちが、いる)
喜びと、現実が、舞の中でせめぎ合った。
(でも……複数の女性と付き合っているということは。もしかしたら、私も、入れてもらえるかもしれない)
(……でも、そんなの、わからないわ)
お父様に、お母様に、どう伝えればいいのだろう。ここに来るために、すでにたくさん迷惑をかけたのに。子供の頃に結んだ婚約を、勝手に破棄して。しかも、相手を勘違いしていたからと言って、すでに何人もの女性と関係を持っている男性と付き合いたいだなんて。
(許して、もらえるのかしら)
それでも──。
(諦めたくない)
舞は、ぎゅっと拳を握った。
「舞さん? 大丈夫? 紅茶の用意、できてるけど」
扉の向こうから、亜里沙の声がした。
「……大丈夫です。すぐ行きます」
舞は、立ち上がって、鏡の中の自分を見つめた。
(今、考えても仕方ないですね)
(とりあえず、また出会えたこの喜びを、噛みしめましょう。どうするかは、後で考えればいい。……もう、この出会いを、逃したくはないもの)
(来月、お父様がいらっしゃる。その時に……打ち明けよう)
決心を固めて、舞はリビングへと戻った。
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リビングに戻ると、思いがけない光景が、舞を出迎えた。
なぜかメイド服に着替えたシエラちゃんが、冴子さんの膝の上に乗って、お菓子を食べていたのだ。
「……え?」
舞が、ぽかんとする。
「びっくりしたよね」
亜里沙が、苦笑いした。
「私も驚いちゃった。着いた途端、急にシャワー浴びに行ったと思ったら……戻ってきたら、メイド服なんだもん」
「私は、マスターのメイドです」
シエラちゃんが、もぐもぐとお菓子を頬張りながら言う。
「家にいる時は、メイド服が私の私服です」
そして、その頭を撫でているのは、あの凛とした生徒会長、冴子さんだった。学校での張り詰めた様子とはまるで違い、すっかり緩みきった顔で、シエラちゃんを愛おしそうに見つめている。
「そうよねえ、シエラちゃんはメイドさんだものねえ。はい、あーん」
甘ったるい声で、シエラちゃんの口に、ひょいとお菓子を放り込む。
舞は、目を丸くした。
「ふふ。お二人とも、驚かれましたわよね」
千鶴ちゃんが、楽しそうに言った。
「冴子さん、外ではしっかりやろうと張り切っていらっしゃいますもの。それが外れると、いつもこうなりますのよ」
(……冴子さんに、こんな一面が)
舞は、また一つ、新しい発見をした。なんだか、張り詰めていた心が、ふっと和らいでいく気がした。
それから、みんなでゲームをして、リラックスした時間を過ごす。
しばらくして、玄関の方が賑やかになった。
「ただいまー!」
結衣ちゃんと千夏が、そして蓮司くんが、たくさんの化粧品や服、アクセサリーを抱えて帰ってきた。
「お、お邪魔してます……」
亜里沙が、ぺこりと頭を下げる。
「気にしなくていいよ。ゆっくりしてって」
蓮司くんが、穏やかに笑った。
その時だった。
舞が、すっと立ち上がって、蓮司くんの前まで歩いていった。
そして、まっすぐにその顔を見上げる。
「……蓮司くん」
「ん? 何かな」
「あの……私のこと、覚えていますか。子供の頃に、お会いしたことがあると思うのですが」
舞の声が、わずかに震えていた。
蓮司くんは、少しだけ目を細めて、優しく微笑んだ。
「もちろん、覚えてるよ。君に初めて会った日からね。……驚いたよ。まさか、こういう形で、また会えることになるとは」
その言葉を聞いた瞬間──。
舞の顔が、かああっと真っ赤に染まった。
「っ……!」
嬉しさと、照れと、こみ上げる想い。全部が一度に押し寄せて、舞は、もう立っていられなくなった。
「きょ、今日はお邪魔しました……! 先に、帰りますねっ……!」
「え」
「千夏、帰るわよ……!」
舞が、真っ赤な顔のまま、ぱたぱたと玄関へ向かう。
「あ、ちょっ……お嬢様!?」
突然のことに、みんながぽかんとする。
「お、お待ちくださいませ」
千鶴ちゃんが、慌てて立ち上がった。
「お迎えを、用意いたしますから……あ、蓮司様。今日のところは、私もこれで失礼しますわ。また、遊びに参りますので」
そう言って、千鶴ちゃんは、つま先立ちで、ちゅっと蓮司くんの唇に、自分の唇を重ねた。
「……っ、また、明日」
名残惜しそうに、千鶴ちゃんが身を離す。
そうして、舞、千鶴ちゃん、千夏は、慌ただしく帰っていった。
廊下の方から、千鶴ちゃんの、少しすねたような声が聞こえてくる。
「もう、舞さんったら……せっかくの、蓮司様とのお時間でしたのに」
亜里沙は、ぽかんとした顔で、その一部始終を見送っていた。
「……びっくりしたね」
結衣ちゃんが、けらけらと笑う。
「うん……びっくりした」
亜里沙も、思わず苦笑した。
「ありささんは、この後どうする?」
「あ、そうだね。私も、そろそろ時間だから、帰ろうかな」
「そうなんだ。じゃあ、また明日、学校でね」
結衣ちゃんが、手を振る。
そこで、亜里沙は、ふと疑問に思った。
「あれ……結衣ちゃんたちは、帰らないの?」
「帰らないよ」
結衣ちゃんが、当たり前のように言った。
「今日はもともと、泊まるつもりだったから」
(……泊まる)
あまりに自然に言う結衣ちゃんに、亜里沙は、苦笑いするしかなかった。
「ありささんは、俺が送っていくよ」
蓮司くんが言った。
「え、いいんですか?」
「当たり前だよ。女の子を、一人で帰らせるわけにいかないからね。車で送るから、ついておいで」
「車で……? でも、蓮司くん、まだ高校生なのに」
亜里沙が首を傾げると、蓮司くんは、悪戯っぽく笑った。
「大丈夫。免許もあるし……俺の車は、警察に止められないようになってるから」
「……っ」
亜里沙は、驚きながらも、妙に納得してしまった。
(……これが、お金持ちの常識なんだ)
第35話 了




