第30話 はじまりの記憶
「あれは、中学に上がったばかりの頃でしたわ」
湯気の向こうで、千鶴ちゃんが静かに語り始めた。
「その日、私は珍しく、お父様と一緒にあるパーティーに出席しましたの。お父様がパーティーに連れて行ってくださることなんて滅多になかったので、私、朝からそわそわしていて」
懐かしむように、千鶴ちゃんの声が柔らかくなる。
「会場で、お父様が『紹介したい子がいる』とおっしゃって。連れて行かれた部屋に、あの方がいらしたんですの」
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広い会場の喧騒から、少し離れた一室。
扉を開けて中に入った瞬間、千鶴は、その場の空気に戸惑った。
奥のソファに、一人の少年がゆったりと腰かけていた。歳は千鶴と変わらないくらい。それなのに、まるでその部屋の主のように、堂々とくつろいでいる。傍らには、品のある年配の紳士が、静かに控えていた。
そして、お父様はというと──その少年を相手に、まるで旧知の友のように、気さくに話していたのだった。
「いやあ、すまんすまん。待たせたか、不破くん」
「全然。構わないが 急にどうしたんだ 白鳥さん」
少年が、子供とは思えない落ち着いた口調で応じる。お父様も、それを当たり前のように受け流していた。
千鶴は、目を瞬かせた。
(お父様が……あんなに気を許して……)
会社を率いる、あの豪放なお父様が。自分より、ずっと年下の少年と。まるで対等の友人のように。
「実はな、今日はこいつを紹介したくて連れてきたんだ。うちの娘の、千鶴だ」
お父様が、千鶴の背にぽんと手を置いた。
少年の視線が、ふっと千鶴に向く。
「へえ。白鳥さんの娘さんか」
「お嬢様でいらっしゃいますか。これはこれは、お父上に似て、聡明そうなお嬢様ですね」
傍らの紳士が、目尻を下げて、柔らかく微笑んだ。長く人に仕えてきた者特有の、穏やかな品格が、その物腰ににじんでいた。
「ほら千鶴、ご挨拶しなさい」
「……白鳥千鶴と、申しますわ」
千鶴は、戸惑いながらも、ぎこちなく頭を下げた。
「不破だ。よろしくね、千鶴ちゃん」
少年が、軽く片手を上げる。
「さて、と。悪いが不破くん、俺はまだ挨拶回りが残っててな。あとは若い二人で、ゆっくりしててくれ。ダッハッハ!」
お父様は豪快に笑うと、紳士を伴って、さっさと会場へ戻っていってしまった。
部屋に、千鶴と少年だけが残される。
千鶴は、つんと顔を背けて、部屋の隅の椅子に腰を下ろした。
(若い二人で、ですって……)
やっぱり、そうなのだ。お父様があんなに気を許す相手に、こうして二人きりにされた。これはきっと、そういう話に違いない。
少年は、そんな千鶴をしばらく眺めていたが、やがて静かに立ち上がると、テーブルからグラスを一つ手に取り、千鶴のそばまで歩いてきた。
「これ、オレンジジュース。喉、渇いてない?」
千鶴は、ちらりとグラスに目をやって、すぐにまた顔を背けた。
「……結構ですわ」
「そっか」
少年は無理に勧めることもなく、グラスをそっとテーブルに置いた。それから、千鶴から少し離れた場所に腰を下ろす。
「こういう場所、退屈だよね。俺もあんまり得意じゃないんだ」
穏やかに話しかけてくる少年に、千鶴はかえって警戒を強めた。
(やっぱり、そういうことですのね)
優しくして、油断させて、それから本題を切り出すつもりに違いない。
千鶴は意を決して、口を開いた。
「あの。私に、そこまで気を遣ってくださらなくて結構ですわ」
「ん?」
「私、政略結婚なんて、まっぴらですの」
少年が、きょとんとした顔で千鶴を見た。
それから、ふっと口元を緩める。声を立てて笑うのではなく、ただ穏やかに目を細めるような、静かな笑み方だった。
「……なるほど。そういうことか」
「何が、おかしいんですの」
「いや。ずいぶん不機嫌な顔をしてるなと思ってたけど、そんなことを考えてたのか」
「だって、こういう場合は、婚約のお話に決まっていますわ。この前、漫画で読んだんですもの」
「へえ。なんていう漫画?」
「『悪役令嬢は逃げ出したい』ですわ。……って、話をそらさないでくださいませ!」
少年は、ふっと笑った。けれど、その目はもう、からかうような色をしていなかった。
「悪いけど、君のお父さんは、そんなこと考えてないよ」
「どうして、わかるんですの」
千鶴は、唇を引き結んだ。
「お父様は、私よりお仕事のほうが大事なんですもの。あなた、本当はとても偉い方なんでしょう?」
「まあ、そうかもね」
少年は否定しなかった。
「君のお父さんの会社くらいなら、潰そうと思えば、潰せる立場にはいる」
「……っ、それは、脅しですの?」
「まさか」
少年は静かに首を振った。その声に、揺らぎはなかった。
「俺はただ、君と仲良くなりたいだけだよ。それに……君のお父さんは、俺と君を婚約させるつもりなんてない。むしろ君は、お父さんに、誰よりも大事にされてる」
「どうして、そんなことが言えるんですの」
気づけば、千鶴の声は震えていた。
「お父様は、毎日お仕事で、滅多に帰ってこないの。お母様もいなくなって、お父様まで帰ってこなくて……千鶴は、ずっと一人で、寂しかったんですの」
こぼれ落ちた本音に、少年はすぐには答えなかった。
ただ、まっすぐに千鶴を見つめて、少しの間、何かを考えるように口を閉ざしていた。
やがて、静かに告げた。
「……それ、たぶん、俺のせいなんだ」
「あなたの、せい……?」
「俺の両親は、もういない」
千鶴は、息をのんだ。
「ご、ごめんなさい、ですの」
「気にしないで。もう、昔のことだから」
少年の表情は、不思議と穏やかだった。悲しみを抱えているはずなのに、それを微塵も人に背負わせまいとするような、静かな強さがそこにあった。
「両親がいなくなって、一緒に働いてきた人たちの会社が、いくつも潰れそうになった。それを守るために、みんな必死で働いてきたんだ。君のお父さんも、その一人だよ」
「……それで、守れたんですの?」
「今日のパーティーが、何のためのものか、知ってる?」
千鶴は、首を横に振った。
「いいえ。久しぶりにお父様と出かけられると、はしゃいでいたものですから、聞き忘れてしまいましたわ」
少年の目元が、ふっと和らいだ。
「七つの会社が、潰れずに守りきれた。しかも、前よりも大きくなった。今日は、その記念のパーティーなんだ」
「では……お父様も、守りきったんですのね」
「ああ。君のお父さんは、よく頑張ったよ」
少年の声に、確かな熱がこもる。
「会社に泊まり込む夜は、いつも君のことを心配してた。よく俺に愚痴をこぼしてたんだ。いい大人が、子供相手にね。それだけ、君のことが大事なんだよ」
千鶴の目に、じわりと涙が滲んだ。
「本当、ですの……?」
「本当さ」
少年は、ゆっくりと頷いた。
「でも、もう大丈夫。これからは、お父さんも少しは時間が作れるはずだ。たくさん話すといい。──俺からも、言っておくよ」
その一言が、千鶴の胸の奥で、長く凍りついていた何かを、そっと溶かしていった。
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「あの人……そんなふうに、言ってくれたんですの」
湯気の中で、千鶴ちゃんの声が潤んでいた。
「あの日まで、私、お父様に嫌われてさえいると思っていましたわ。でも、そうではなかった。それを教えてくれたのが、あの方だったんですの」
亜里沙は、黙ってその話に聞き入っていた。
「ねえ、千鶴ちゃん」
ふと、亜里沙が口を開く。
「中学の頃、千鶴ちゃん、いつも一人でいることが多かったよね」
「ええ」
千鶴ちゃんが、静かに頷いた。
「小学校の頃から、私の周りには、たくさんの人が集まってきましたわ。でも……そのほとんどは、私ではなく、私のお父様に取り入ろうとする人たちでしたの」
湯の表面に、小さな波紋が広がる。
「そんな中で、亜里沙さんだけは、違いましたわ。『一緒に遊ぼう』って、言ってくださったでしょう? 私を、ただの私として見てくれた、初めてのお友達でしたの」
亜里沙は、照れくさそうに頬をかいた。
「そうだったっけ……。私、あの頃、千鶴ちゃんの家のことなんて全然知らなくてさ。ただ、可愛い子だなあって。仲良くなりたいなって、思っただけなんだよね」
「ふふ。その、純粋なお心が、私を動かしたんですの」
千鶴ちゃんが、嬉しそうに笑った。
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「話を、あの日に戻しますわね」
千鶴ちゃんが続けた。
「あの方は、最後に、こうおっしゃったんですの」
「じゃあ、なんで……私を、あなたに引き合わせたんですの」
千鶴が尋ねると、少年は少し考えてから答えた。
「一つは、君に友達ができればいいと思ったから。お父さんは、君がずっと一人でいることを、気にかけてたみたいだよ」
「お友達……」
「それと──まあ、君の言ってたことも、三割くらいは当たってるかな」
「三割……?」
「仲良くなって、あわよくば、俺が君を好きになって、君も俺を好きになってくれたら。そう思ってないと言えば、嘘になる」
少年は、まっすぐに千鶴を見た。けれど、その眼差しに、押しつけがましさはなかった。
「でも、無理に好きになってもらおうなんて思ってない。俺もまだ、君がどんな子か、知らないからね。これから、ゆっくり知っていけたらいい」
千鶴は、その言葉に、不覚にも胸が高鳴るのを感じた。
「あ、それと」
少年が、ふと表情を改めた。
「一つ、先に言っておかないといけないことが──」
その時だった。
勢いよく、部屋の扉が開いた。
「蓮司くーん! これ食べてみて、すっごく美味しいよ!」
ツインテールの女の子が、お菓子を手に飛び込んできた。
千鶴は、目を丸くする。
「あなた誰ですの?」
「ゆい? ゆいはゆいだよ!」
女の子が、元気いっぱいに答えた。
少年が、少し苦笑して口を開く。
「ああ、さっき 伝えようとしていたんだ 紹介するよ。この子は、俺の彼女の結衣。仲良くしてくれると嬉しいな」
「……彼女、ですの」
千鶴が呟くと、結衣が今度は少年に向かって首を傾げた。
「ねえ蓮司くん、この子は誰? 新しい彼女?」
「違うよ。俺のグループの、会長さんの娘さんだ。よかったら、仲良くしてあげて」
「ふうん。私、結衣! 君、名前は?」
「……千鶴と、申しますわ」
「千鶴ちゃん! よろしくね! ねえねえ、一緒にあれ食べよ!」
結衣の屈託のない笑顔に、千鶴は思わず気圧されてしまった。
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「それが、あの方と、結衣ちゃんとの出会いでしたの」
千鶴ちゃんが、優しく目を細めた。
「その後も、何度かみんなで遊んだり、あの方のお家にお邪魔したりしているうちに……私、少しずつ、あの方に惹かれていきましたの」
湯気が、ゆっくりと立ち上る。
「でも、あの方には、結衣ちゃんがいましたから。私は、ずっと『お友達のままでいい』と、自分に言い聞かせていましたわ」
千鶴ちゃんの声が、少し切なげに揺れた。
「そうしているうちに、冴子さんがいらして……あの方と、お付き合いを始められたんですのよ。次に、シエラちゃんが来て、あの子も、あの方と」
「……それで、幻滅はしなかったの」
亜里沙が、そっと尋ねた。
「もちろん、何度も悩みましたわ」
千鶴ちゃんが、静かに頷く。
「何度も、諦めようとしましたの。でも……彼女たちと話しているうちに、気づいてしまったんですの」
千鶴ちゃんが、亜里沙をまっすぐに見た。
その瞳には、もう迷いの色はなかった。
「私は、やっぱり……あの方を、諦めることなんてできないって」
湯気の向こうで、千鶴ちゃんが、ふわりと微笑む。
「だから私は、自分の気持ちに正直になることにしましたの。彼女たちと一緒に、あの方を支えていく。それが、私の選んだ道ですわ」
亜里沙は、その横顔を見つめながら、胸が温かくなるのを感じた。
千鶴ちゃんは、ちゃんと自分で選んだのだ。誰かに流されたわけでも、利用されたわけでもなく。自分の心で、あの人のそばにいることを。
「……素敵だね、千鶴ちゃん」
亜里沙が、思わず呟くと、千鶴ちゃんは少し恥ずかしそうに笑った。
「ふふ。亜里沙さんに言われると、照れてしまいますわ」
湯気に包まれた浴室に、四人の穏やかな笑い声が、そっと広がっていった。
第30話 了




