第29話 白鳥家の夜
千鶴ちゃんの車が大きな門の前で止まると、亜里沙は思わず息をのんだ。
門の向こうに広がっていたのは、屋敷と呼ぶにふさわしい大きな邸宅だった。手入れの行き届いた庭園が夕日に照らされ、玄関までまっすぐに伸びる石畳が静かに光っている。門の脇には制服姿の警備員が立ち、こちらに小さく頭を下げた。
「ここが、千鶴ちゃんの家……?」
「ええ。ようこそ、いらっしゃいませ」
そう言って微笑む千鶴ちゃんの横で、亜里沙はただ立ち尽くすしかなかった。
車を降りると、ちょうど別の車も滑り込んできて、中から見覚えのある二人が姿を見せた。あの夜、倉庫の近くで会った、舞の使用人たちだった。
「お嬢様、お待たせいたしました」
「ご足労おかけしますわ」
舞がねぎらうと、二人は深く腰を折る。
そこへ、千鶴ちゃんがそっと歩み寄った。
「あの夜は、本当にありがとうございました。皆さんが動いてくださったおかげで、私も助かりましたわ」
「もったいないお言葉です。お役に立てたなら、何よりでございます」
恐縮したように頭を下げる二人を見ながら、亜里沙の胸に、ほのかな温かさが広がっていく。
あの夜、誰もが必死に動いてくれた。その時に結ばれた繋がりが、今こうして一つの場所に集まっている。そう思うと、不思議と心が満たされた。
「さあ、入りましょう」
千鶴ちゃんに促され、一行は屋敷の中へと足を踏み入れた。
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玄関を入ると、メイドが恭しく出迎えてくれる。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま戻りましたわ。お父様は、いらっしゃる?」
「はい、書斎にいらっしゃいます」
「そう。よかったら皆さんも、一緒にご挨拶に来てくださる? お父様に紹介したいので」
その言葉に頷いて、一行は書斎へと向かった。
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扉をノックすると、低く穏やかな声が中から返ってくる。
「入りなさい」
扉の向こうには、大きな机に向かう壮年の男性がいた。千鶴ちゃんによく似た、品のある顔立ちの人だった。
「お父様、ただいま戻りましたわ」
「おお、千鶴。おかえり」
顔を上げたお父さんは、千鶴ちゃんの後ろに続く面々に気づくと、少し意外そうに目をしばたたかせた。
「おや、お客さんかい」
「はい。今日、お友達が泊まっていくことになりましたの。如月亜里沙さんと、九条舞さん、朝倉千夏さんですわ」
「如月亜里沙です。お邪魔します」
「九条舞と申します。突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」
「朝倉千夏です。お世話になります」
三人が頭を下げると、お父さんは目尻を下げ、豪快に笑い飛ばした。
「かはは、構わんよ。娘の友人なら、いつでも歓迎だ。好きなだけ泊まっていきなさい」
「ありがとうございます」
「特に……千鶴は昔から、友達が少なくてな。心配していたんだ。こうして友人を連れてくるなんて、父さんは嬉しいよ」
「お父様! 余計なことを言わないでくださいませ」
頬を膨らませる千鶴ちゃんに、お父さんはまた声を上げて笑う。
それから、ふと表情を和らげると、娘をまっすぐに見つめた。
「……ところで、千鶴」
「なんですの?」
「不破くんとのことだが」
その名前に、亜里沙の心がわずかに揺れる。
「お前たちが付き合っていることは、聞いている。父さんとしては嬉しいよ。だが……父さんのために、無理をしているわけではないだろうね」
静かで、けれど真剣な声だった。
「父さんにとっては、お前の幸せが何より大事なんだ。会社のことも、家のことも、お前が背負う必要はないんだよ」
千鶴ちゃんは、まっすぐに父を見返した。
「お父様、ご心配なさらないでください。私は、心からあの方をお慕いしておりますわ」
「本当か。彼には……他にも女性がいることは、知っているね。それでも、しっかりと共に行くのか」
「はい」
迷いのない声だった。
「私は、彼女たちと共に、あの方を支えていきたいんですの」
しばらく娘の顔を見つめていたお父さんは、やがて、ふっと頬を緩めた。
「……そうか。そうか。それなら結構。これで、うちも安泰だな」
「お父様ったら」
「早く孫の顔が見たいものだ」
「お、お父様! 気が早すぎますわ!」
真っ赤になる千鶴ちゃんを見て、お父さんはまた豪快に笑う。
その微笑ましい光景を眺めながら、亜里沙の胸の奥に、ふいに冷たいものがよぎった。
孫。
一周目のことだ。病院のベッドに横たわっていた亜里沙のもとへ、千鶴ちゃんと蓮司くんが見舞いに来てくれた日があった。その時、二人に連れられてきたのが、双子の子たちだった。よく笑う、可愛い子たちで、小さな手で亜里沙の布団をぎゅっと握ってくれたのを、今でも覚えている。
でも、今は。
私が過去を変えてしまったことで、あの子たちは、生まれてくるのだろうか。それとも、もう。
考えれば考えるほど、胸の奥に冷たいものが広がっていく。自分のしたことは、誰かの未来を消してしまっているのかもしれない。そんな思いが、影のように忍び寄ってくる。
「亜里沙さん?」
千鶴ちゃんの声に、はっと我に返った。
「あ……ごめん、なんでもない」
慌てて笑顔を取り繕う。
考えても仕方ない。今はまだ、何もわからないのだから。そう自分に言い聞かせて、亜里沙は胸の奥のざわめきに、そっと蓋をした。
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書斎を出る間際、お父さんが舞に声をかけた。
「九条さんといったね。事情は千鶴から少し聞いたよ。何ヶ月でもいていいからね。自分の家だと思って、ゆっくりくつろいでいきなさい」
「……ありがとうございます」
深く頭を下げた舞の目が、わずかに潤んでいた。
「では、お父様。私たちは部屋に戻りますわ」
「そうか。父さんも、仕事に戻るとしよう」
「お体に、お気をつけくださいませ」
「心配するな」
穏やかに言って、お父さんは続けた。
「今回の事件は、私の管理の甘さも原因の一つだ。これからは仕事を部下たちに任せて、重要なことだけにするよ。警備も増やした。もう二度と、あんなことは起こさせないさ」
その言葉に、千鶴ちゃんは安心したように微笑んだ。
「……わかっておりますわ」
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「さあ、みんな。お部屋に案内しますわ」
書斎を出る頃には、千鶴ちゃんはすっかり明るい表情を取り戻していた。
「今夜はここに泊まっていってくださいませ。ベッドもパジャマも、ちゃんとご用意してありますのよ」
「至れり尽くせりだね……」
苦笑いする亜里沙に、千鶴ちゃんが嬉しそうに笑う。
広い廊下を抜けて客間へと向かう途中、すれ違うメイドたちが、一人ひとり丁寧に頭を下げていった。
「まずは、お風呂にご案内しますわ。汗を流して、さっぱりしましょう」
通されたのは、まるで旅館の大浴場のように立派な風呂だった。
「こんなに広いお風呂……!」
「みんなで一緒に入れますわよ」
四人は髪を上げ、湯にそっと身を沈めた。
温かい湯に包まれた瞬間、亜里沙の口から、ほっと息がこぼれる。今日は本当に色々あった。蓮司くんとの話、そして翔太との対決。張り詰めていたものが、湯気の中でゆっくりとほどけていくようだった。
「……ねえ、舞さん」
しばらくして、亜里沙はそっと口を開いた。
「聞いてもいいかな。舞さんは、どうして翔太くんと婚約することになったの?」
舞の視線が、ふと遠くを彷徨う。
「……子供の頃の話なんです」
湯気の向こうで、舞は静かに語り始めた。
「幼い頃、家の方々と一緒に、瀬戸家へご挨拶に伺ったことがあったんです。私はその時、屋敷を抜け出してしまって……迷子になって、心細くて泣いていました。そんな私を、一人の男の子が見つけて、励まして助けてくれたんです。それが、私の初恋でした」
亜里沙は黙って、その言葉に耳を傾けた。
「その子のことが、ずっと忘れられなくて。後になって、その子が瀬戸家の方だと聞かされて……だから私は、自分から婚約を望んだんですの」
「瀬戸家の子が、助けてくれた……?」
その瞬間、亜里沙の中で、何かが小さく引っかかった。
翔太が。子供の頃に、泣いている女の子を見つけて、励ました。
……あの翔太が?
昔の蓮司くんならともかく、あの翔太がそんなことをする姿は、どうしても結びつかない。胸の奥に、小さな違和感が残る。けれど、それを口にするのは、まだ早い気がした。確証もないのに、舞をいたずらに混乱させるだけかもしれない。
「……ううん。なんでもない。気のせいだよね」
亜里沙は、その思いを、そっと胸の内にしまい込んだ。
だが、舞は亜里沙の言いかけた言葉を、聞き逃さなかった。
「亜里沙さん……今、何か言いかけませんでしたか」
「え、あ……」
「翔太くんが、泣いている子を励ます。確かに……今日のあの方を見ていると、想像がつきませんわね」
そう言う舞の表情が、わずかに翳る。
「実は……今日、翔太くんに言われたんです。『助けた覚えなんてない』と」
亜里沙は、言葉を返せなかった。
「あの時は、とぼけているだけだと思いました。でも……」
自分の手のひらを見つめながら、舞は続けた。
「私に、あれは瀬戸家の坊ちゃんだと教えてくれたのは、静江という、私の世話役の者なんです。幼い頃から、ずっと私のそばにいてくれた人で。その静江が、子供の頃の私に、はっきりと言ったんですの。『お嬢様を助けたのは、瀬戸家の坊ちゃんですよ』と」
「世話役の人が……?」
「ええ。だから、疑ったことなんて、一度もありませんでした。でも……まさか、嘘ついてたやなんて、そないなことあるんやろか……」
動揺のあまり、ふと京都の言葉が漏れる。舞ははっとして、口元に手を当てた。
その時、それまで黙っていた千夏が、静かに口を開いた。
「……ありえない話では、ないと思います」
「千夏?」
「あの頃は、瀬戸家のほうが、九条家よりも力を持っていたと聞いています。静江さんが、お嬢様を瀬戸家と結びつけようとした……そういう可能性も、考えられるかと」
「そんな……」
舞は、言葉を失った。
長い付き合いの世話役が、自分に嘘をついていたかもしれない。その事実は、舞の心に重くのしかかっていた。
「……後で、必ず問い詰めなければいけませんね」
静かに、けれどはっきりと、舞は言い切った。
「千夏。来月、お父様がこちらにいらっしゃいます。その時、静江も一緒に来るはずです。その時に、必ず」
その瞳に、芯のある光が宿る。
あまりに真剣なその横顔に、亜里沙も、千鶴ちゃんも、千夏も、思わず黙り込んでしまった。
ふと、座を包んだ沈黙に気づいて、舞ははっと顔を上げる。
「……ごめんなさい。重い話をしてしまいましたわね」
慌てたように、表情を和らげると、舞は千鶴ちゃんへと話を向けた。
「それより――千鶴さんが、蓮司くんとお付き合いされているなんて、思いませんでしたわ。教室でのお話は、よくわかっていなかったのですが……そういうことだったのですね」
「あ、梨香さんが絡んできた時のことね」
亜里沙が言うと、舞は少し申し訳なさそうに目を伏せた。
「あの時は、すみませんでした。出過ぎた真似を」
「いいえ。気にしないでくださいませ」
千鶴ちゃんが、優しく微笑む。
「ねえ、千鶴ちゃん」
亜里沙は、湯気の向こうの千鶴ちゃんへと視線を向けた。
「私もずっと気になってたんだけど……どういうきっかけで、蓮司くんを好きになったの? その……何人もの女性と関係を持っている人を好きになるって、簡単なことじゃないと思うから」
千鶴ちゃんは、湯の表面を見つめながら、少し考えるように首を傾けた。
「……そうですわね」
ふわりと、湯気が揺れる。
「大したきっかけは、なかったと思いますわ。でも……あの人と出会った日のことだけは、今でもはっきりと覚えていますの」
そう語る千鶴ちゃんの瞳が、遠い記憶を辿るように、優しく細められた。
第29話 了




