第28話 毒を孕む囁き
苛立ちを抱えたまま、翔太は夜道を歩いていた。
舞のあの態度。婚約破棄。何もかもが気に入らない。
ポケットからスマホを取り出して、梨香に電話をかけた。数コール後、相手が出る。
「おい、今日相手してくれよ」
返ってきたのは、くぐもった喘ぎ声だった。
『……今、無理』
「は?」
電話の向こうで、別の男の声がした。
『誰だよ、この女の彼氏か』
『ガキから電話だよ』
『今この女は忙しいんだ。だそうだぜ、坊主。明日にしな』
通話が、ぷつりと切れた。
「……ふざけんな」
翔太は、苛立ちのままスマホを地面に叩きつけた。
「どいつもこいつも、ふざけやがって」
荒れた足取りで家に帰ると、玄関先にいた子分の一人が声をかけてきた。
「坊主、どうした。また女に振られたか」
「うるせえんだよ、黙ってろ」
「なんだとガキが。大人に向かってその口の利き方は何だ。おやっさんの息子だからって、調子に乗ってんじゃねえぞ」
「うるせえな。ヤクザごときが」
「……あ? なんだと、もう一回言ってみろ」
子分が凄んだ。
「誰のおかげでこの家に暮らせると思ってんだよ。俺たちがおやっさんに払ってる金のおかげだろうが」
その時、賢そうな男が二人の間にすっと割って入った。
「まあまあ、落ち着いてくださいよ」
穏やかな声だった。
その直後、奥から低い声が響いた。
翔太の父――瀬戸組組長だった。
「なんだお前ら、喧嘩か。俺の息子を傷つけたら、ただじゃおかねえぞ」
「違いますよ、おやっさん。ちょっと教育をと思いましてね」
子分が慌てて言い訳すると、組長は鼻を鳴らした。
「うるせえ。さっさと掃除でもしてろ」
「はい〜」
子分たちが、バタバタと走り去っていった。
「翔太、なんだあの態度は」
組長が翔太を睨んだ。
「親父には関係ねえだろ」
翔太は吐き捨てて、階段を上っていった。
組長は、その背中を見送りながら、深くため息をついた。
「まったく……子供というのは、わからんものだな。妻が死んでから、男手一つで育ててきたが……やはり、ダメなのかね」
「ここは、私にお任せください」
割って入った男が、静かに言った。
「ええ。子供の扱いには、慣れていますから」
「……そうか。鵜飼、頼む」
「お任せを」
鵜飼宗一は、穏やかに微笑んで、階段を上っていった。
翔太の部屋の扉を、鵜飼が軽くノックした。
「翔太くん、ちょっといいかな」
「なんだよ、また説教か。鵜飼さん」
翔太は不機嫌な声を出したが、扉は開けた。
翔太は、この男にだけは少し気を許していた。子供の頃から何かと面倒を見てくれて、父よりも話しやすい相手だった。
「いやあ、違いますよ。ずいぶん荒れてましたが、何があったんです?」
鵜飼が、部屋に入りながら穏やかに聞いた。
「……この前、この家に来た女だよ。俺の婚約者だって言っといて、抱かせもしねえ。挙句、婚約破棄するときやがった。意味わかんねえ」
「あらまあ。そうなりましたか」
鵜飼は、わざとらしく眉を下げた。
「私も驚きましたよ。急に翔太くんの婚約者だという方が来て、しかも京都であの有名な九条家じゃないですか。対応に困りましたよ」
「……なんだよそれ。そんなに有名なのか」
「ええ。うちと違って、ここ数年で急に力をつけている家です。昔はこちらに頭を下げに来るような家でしたが、今ではこっちが頭の上がらないほどのところになりましたね」
「なんだよ、それ」
「まさかとは思いますが……暴力を振るったりは、していませんよね?」
「してねえよ。前のことで、そういうことには気をつけてる」
「それは一安心。あそこが本気で攻めてきたら、うちは一日と持ちませんからね」
翔太の眉が、ぴくりと動いた。
「……うちって、そんなに力がねえのか」
「そうですね。今、翔太さんが子分に舐められたのも、この家が舐められているからですよ」
鵜飼の声が、少しずつ低くなっていく。
「あなたのお母さんが亡くなってから、おやっさんも随分と大人しくなった。そのおかげで、うちは島をいくつも失いました。なんとか今の状態で抑えているのが現状です」
「……情けねえな」
「ですから私としては、翔太さんに後を継いでもらって、この家をもう一度大きくしたいんですよ。おやっさんも、翔太くんがやりたいと言えば応援すると思いますよ」
「俺はヤクザなんざにはならねえ」
翔太がそっぽを向いた。
「困りましたね。なぜです?」
「それは……」
「言えないでしょう。もともとは、あの如月とかいう女のために、普通の男子になろうとしたんでしょう? ですが、それは無理ですよ」
翔太の肩が、びくりと震えた。
「結局、その女とは別れた。次に来た女性とも婚約破棄。あなたには、何の力もない」
鵜飼が、ゆっくりと近づいた。
「本当に、このままでいいんですか?」
「それは……」
「よくないでしょう。私と手を組めば、あなたを侮辱したあの女たちにも、男たちにも立ち向かえる。すべてを薙ぎ払えるほどの権力を、あなたに差し上げますよ」
「……それは、本当か」
「本当ですとも」
鵜飼が、にっこりと微笑んだ。その目だけは、少しも笑っていなかった。
「さあ、どうします。このまま泣きべそをかくか、それとも私と共に、すべてを手に入れるか。あなた次第ですよ」
「……」
「もしこのまま負け犬として過ごすなら、ここを出ていく手助けもしますよ」
「……なんだと」
翔太が顔を上げた。
「そうじゃないですか。家を継ぐ気もないのに、このまま居続けたら、いずれ大変なことになりますよ」
「お前、まさか……」
「とんでもない。仮の話です」
鵜飼が、両手を軽く上げた。
「ですが、残るというなら――私は全力で協力しますよ」
部屋に、沈黙が落ちた。
「負け犬か、勝ち組か。選んでください、翔太くん」
長い沈黙の後、翔太がゆっくりと口を開いた。
「……わかった」
その目に、暗い光が宿っていた。
「お前には、子供の頃から色々教わってる。俺の役に立てるなら、役に立ってもらおうじゃねえか」
翔太が、拳を握った。
「親父の後を継いで、俺を舐め腐ったやつら全員に、一発かましてやる」
「その意気ですよ」
鵜飼が、満足そうに頷いた。
「では、準備がありますので、私はこれで。後ほど、また合流しましょう」
階段を下り、鵜飼は静かに玄関を出た。
待たせていた車に乗り込むと、運転席の男が振り返る。
鵜飼は窓の外を眺めながら、口元を吊り上げた。
そして、スマホを取り出して電話をかける。
「作戦変更だ。あのガキが乗りやがった」
『マジすか』
電話の向こうの声が、少し戸惑った。
『大丈夫なんですか。あいつ、ヤクザ嫌いとか言って、嫌ってる連中もいるんですよ』
「大丈夫だ。俺がコントロールして、最後にはボロ雑巾みたいに捨ててやる。すべては、俺のものだ」
『了解す。ここからが、俺たちの会心ですね』
通話を切ると、鵜飼は静かに笑った。
車が、夜の闇の中へと滑り出していく。
平穏な日常の裏側で、毒を孕んだ歯車が、静かに回り始めていた。
第28話 了




