第24話 もう一つの教室
「千夏ちゃん、おはよー!」
明るい声と一緒に、特徴的なツインテールを揺らした女の子――小鳥遊結衣が教室に入ってきた。
けれど、その明るい声を向けられた朝倉千夏は、すぐには反応しなかった。
窓の外の景色をぼんやりと見つめたまま、完全に何かを考え込んでいる。
「千夏ちゃん?」
「……っ! あ、小鳥遊さん。おはようございます」
ようやく我に返ったように振り向く。だが、その瞳は明らかに上の空だった。
結衣は千夏の隣の席の椅子を軽く引いて、ちょこんと座った。
「どうしたの? さっきからずーっと上の空だよ? 何か悩み事?」
「いえ、その……少し、考え事をしていて」
「考え事?」
千夏は少しためらうように視線を彷徨わせてから、白い肌をうっすらと赤く染めた。
「小鳥遊さん……その、不破くんって、どういった方か……ご存知ですか?」
結衣の動きがぴたりと止まる。
結衣は、メイドのシエラから金曜日の夜に何があったかをすべて聞いていた。
だから千夏が蓮司の「もう一つの姿」を見ていたことも知っている。
でも、まさかこうして本人の口から、蓮司について直球で聞かれるとは思っていなかった。
(千夏ちゃん……まさか、蓮司くんに一目惚れしちゃったのかな?)
結衣は少し悪戯っぽく微笑んだ。
「……千夏ちゃんって、もしかして面食いだったりする?」
「うぅ……完全には否定できません……」
千夏はバツが悪そうに、複雑な苦笑いを浮かべた。
その少女らしい反応を見て、千夏が蓮司のあの圧倒的な姿に心を奪われたのだと確信した結衣は、千夏をまっすぐに見つめた。
「でも、小鳥遊さんも……不破様の、あのお姿を……ご覧になったことがあるのですね?」
「まあ、そうだね。よく知ってるよ」
「もしかして……不破様とお友達、なのですか?」
千夏は食い気味に、身を乗り出して聞いてくる。
「友達っていうか……うーん」
「……っていうか?」
「まあ、千夏ちゃんなら信頼できるし、言っちゃってもいいかな!」
結衣は少しだけ声を潜め、千夏に顔を近づけた。
「絶対に秘密にしてほしいんだけどね……私と、あと何人かの子で、蓮司くんと付き合ってるんだよね」
千夏の思考が完全に停止した。
丸く目を見開いたまま、目の前の少女が口にした規格外の事実に対して、理解が全く追いつかないという顔をしている。
「……私の、聞き間違い、ですよね?」
「聞き間違いじゃないよ。二股とかじゃなくて、何人かと同時に。ごめんね?」
千夏は頭を激しく殴られたようなショックを受け、顔から血の気が引いていくのがわかった。
そんな千夏を見て、結衣は慌ててフォローを入れる。
「あ、でも千夏ちゃん大丈夫だよ! 千夏ちゃん可愛いから、他に素敵な人が絶対見つかるよ!」
しかし、千夏の瞳からはすっと光が消え、冷たい目で呟いた。
「不破くんって……ヤバい人ですか?」
「違うよ、違うよ! 私たちはみんな、本当に真剣に付き合ってるんだよ!」
「『私たち』ってことは、他にも女性をはべらせているということですよね。それって……ただのクズじゃないですか」
「千夏ちゃん、怒るよ」
「……っ!」
結衣のいつもの天真爛漫な瞳が、すっと鋭い光を帯びた。
一瞬にして空気が張り詰めたことに、千夏自身も気づき、体をごわつかせて口元を押さえる。
「ご、ごめんなさい……ショックで、態度が悪くなりました……」
結衣もすぐに冷静さを取り戻し、少しだけ表情を和らげた。
「……ううん。こっちこそ、急にこんなぶっ飛んだ話してごめんね」
「……」
「そうだよね。普通の女の子から見たら、そう思うのが当然だよ。でもね、元々は私から始まったことなの」
千夏が驚いたように顔を上げる。
「あの人にはね、ずっと一途に好きな人がいたんだよ。それでも私は諦めたくなくて……他の人を一番に好きでもいいから、私のことも見てほしいって、私から頼み込んだの。彼の中にもね、不器用だけど私を好きな気持ちがあるのは分かっていたから」
「……そんな、小鳥遊さんから……?」
「うん。だから彼は私の告白をオッケーしてくれた。だけど、そのあの子への気持ちはなくならなかった。だから彼はずっと、その本命の子にふさわしい男になろうとして、裏ですっごく頑張ってきたの」
「その、本命の方というのは……どなたなのですか?」
「さすがにそれは教えられないなー。蓮司くんのトップシークレットだしね」
千夏は言葉を飲み込み、黙って結衣の続きを待った。
「彼もね、自分のことを最低のクズだって、ずっと責めてるよ。だけど彼は、自分の好きな女が他の男のところに行くのは絶対に耐えられないんだって。だから、もし両思いになった瞬間に覚悟を決めて告白をすれば、彼とは付き合えるよ」
「付き合える……」
「うん。でもね」
結衣はにこっと、太陽のように眩しく笑った。
その笑顔はいつも通り可愛らしいのに、奥にある歪みのない瞳には、底知れない真剣な眼差しがあった。
「彼はいつだって、本気で私たちに向き合ってくれる。私たちが『嫌だ』って言ったら、その子とは絶対に付き合わない。だから今となっては、彼は私たちのことを本当に、命がけで大事に思ってくれてるよ。……彼の初恋よりもね。だけど、私たちだって彼の初恋の相手には結ばれてほしいって本気で思ってる。これはただの遊びじゃないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、千夏は胸の中で何かがガラガラと崩れ落ちるのを感じた。
ただ、顔がいいと思った。
強くて、圧倒的にかっこいいと思った。
それだけの、表面的な憧れだけで一目惚れしてしまっていた。
でも、この人たちは違う。
もっと深く、もっと重く、もっと本気で、一人の男のすべてを受け止めて想っている。
(私みたいな中途半端な気持ちでは、到底叶わない……)
自分の恋心のあまりの軽さを思い知らされ、急に恥ずかしくてたまらなくなった。
そんな千夏の様子を見て、結衣は優しく肩を叩いた。
「でもね、蓮司くんはもの凄くかっこよくて、頼りになって、世界一素敵な男性だから、好きになっちゃうのは当然だよ! だから、もし本気で競り合う覚悟ができたら、考えてあげてもいいよ?」
「小鳥遊さん……」
「もし蓮司くんが本当に千夏ちゃんのことを好きになったら、私は邪魔なんてしないよ。私、千夏ちゃんのこと好きだし、可愛いしさ! だから、そんなに重く考えないで!」
「えっ……」
「あ、そうだ。さっき蓮司くんからメール届いてたんだっけ。放課後に色々説明するから、千夏ちゃんも一緒に連れてきてって。だから、放課後一緒に行こ?」
あまりにも真っ直ぐに、器の大きいことを言われて、千夏は言葉を失った。
この人は、強い。そして、美しい。
自分の気持ちに正直で、決して揺るがなくて、それでいてライバルになるかもしれない相手のことまで真っ直ぐに受け入れる。
(この子のようになりたい……)
生まれて初めて、他人にそんな強い憧れを抱いた。
「色々教えてくれて、ありがとうございました、小鳥遊さん。もちろん、一緒に行かせてください」
「ううん! あ、予鈴鳴っちゃう。じゃあ授業始まっちゃうから、また後でね!」
結衣が軽やかに立ち上がり、自分の席へと戻っていく。
千夏はその背中を見送りながら、まだ胸の奥の激しい鼓動が収まらないのを感じていた。
◇
放課後。
九条舞に声をかけられ、千夏は教室を出た。
静まり返った廊下には、すでに如月亜里沙、白鳥千鶴、そして小鳥遊結衣の三人が集まっている。
「来てくれてありがとうございます、千夏さん」
舞が先頭でそう言うと、千夏は小さく頭を下げた。
「いえ……こちらこそ、お声がけいただきありがとうございます」
千鶴はいつも通り上品な笑みを湛え、亜里沙はどこか緊張した面持ちで立っている。
結衣だけが、いつもと変わらない明るいオーラを放っていた。
「じゃあ、みんなで行こっか!」
「ええ」
「はい」
五人は並んで、校舎三階の人気のない奥まった廊下の突き当たりへと向かう。
一歩、歩を進めるたびに、周囲の雑音が消え、空気が少しずつ静謐なものへと変わっていく。
もう、引き返せない場所に近づいている。
そんな確信めいた予感が、彼女たちの胸を支配していた。
その重厚な部室の扉の前に、一人の女性が静かに佇んでいた。
艶やかな黒髪。
凛とした隙のない立ち姿。
大人の鋭さと、底知れない落ち着きを同時に纏った、圧倒的な美人。
生徒会長、上条冴子だった。
「皆さん、揃いましたね」
冴子が彼女たちを静かに見据え、告げる。
「では、入りましょうか。彼が中で待っています」
扉の向こうに、まだ見ぬ世界の真実が待っている。
重い扉が、ゆっくりと開かれた――。
第24話 了




