第23話 それぞれの月曜日
金曜日の夜から、ずっと考えていた。
蓮司くんのこと。
千鶴ちゃんのこと。
舞さんのこと。
シエラちゃんのこと。
あの倉庫の中で感じた、あの恐ろしい恐怖。
全部が頭の中でぐるぐると回り続けて、土曜日も日曜日も、ほとんど何も手につかなかった。
土日の間、千鶴ちゃんに何度もメッセージを送ったけれど、既読すらつかなくて連絡がとれなかった。そのことが、余計に私の不安を大きくさせていた。
あの日は帰りが遅くなってしまって、両親にはひどく心配をかけた。
けれど剛田さんとシエラちゃんが上手に取りなしてくれたおかげで、どうにか大ごとにはならずに済んだ。
それでも、胸の奥に残ったざわめきだけは、月曜日の朝になっても消えてくれなかった。
制服に着替えて、鏡を見る。
映っているのは、いつも通りの自分の顔。
でも、心の中は全然いつも通りじゃない。
(千鶴ちゃん、ちゃんと学校に来られるかな……)
そのことばかり考えながら、亜里沙は学校へ向かった。
校門の前に着いた時、黒い高級車が静かに滑り込んでくるのが見えた。
思わず足が止まる。
後部座席のドアが開いて、そこから白鳥千鶴が降りてきた。
「千鶴ちゃん!」
亜里沙はほとんど反射的に駆け寄っていた。
千鶴がこちらを振り向く。
その顔を見た瞬間、胸の奥の塊がふっと解けるのがわかった。
無事だった。
ちゃんと学校に来てくれた。
「亜里沙さん、おはようございますわ」
いつものように、やわらかく微笑む。
それだけで、亜里沙は泣きそうになるくらい安心した。
「よかった……ちゃんと来られたんだね。土日、全然連絡がつかなかったから、すごく心配したんだよ」
「ええ。スマートフォンを確認する余裕がなくて……ご心配をおかけしてしまって、申し訳ありませんでしたわ」
「ううん、体は大丈夫?」
「大丈夫ですわ。亜里沙さんこそ、あの後は大丈夫でしたか?」
「うん、私は大丈夫」
そう答えながら、亜里沙は千鶴をそっと見つめた。
(やっぱり……どこか違う……?)
顔立ちも、髪型も、着こなしている制服も、何一つ変わっていない。
なのに、纏っている空気だけが先週までと明らかに違っていた。
なんというか――艶っぽい。
女の子としてのやわらかさや、大人の女性のような艶が、不意に増している気がする。
その理由に、亜里沙はすぐに思い当たった。
金曜日の夜、千鶴ちゃんは蓮司くんと結ばれたのだ。
そう思った瞬間、少しだけ自分の頬が熱くなったけれど、亜里沙は気になっていたことを思い切って尋ねてみた。
「あのさ……千鶴ちゃん、あの後、蓮司くんに連れて行かれたけど……その、家まで送ってもらったの?」
千鶴の白い頬が、ふわっと朱に染まった。
視線がわずかに泳ぎ、形の良い唇がもごもごと動く。
「そ、そうですわね……」
(あ、これ、嘘だ)
千鶴は嘘をつくのがあまり上手じゃない。
亜里沙は愛おしさが込み上げてきて、思わずクスッと笑ってしまった。
「千鶴ちゃん」
「な、なんですの?」
「告白、成功したんだね」
千鶴が完全に固まった。
それからゆっくりと、耳の裏まで真っ赤になっていく。
「……亜里沙さんには、すべて見抜かれてしまいましたわね」
「うん」
「……はい」
小さく、でも、はっきりと頷く。
その表情があまりにも幸せそうで、亜里沙は自然と心からの笑顔になっていた。
「そっか。よかった、本当に……!」
「ありがとうございますわ」
千鶴は恥ろいながらも嬉しそうに微笑んで、それから少しだけ胸を張った。
その些細な仕草さえ、どこか堂々として見える。
二人で並んで校舎に入る。
教室の引き戸を開けた瞬間、亜里沙はすぐに気づいた。
視線が多い。
正確には、千鶴に向けられる視線が異常に多いのだ。
廊下側の席の男子が、はっとしたように千鶴を目で追っている。
近くの女子生徒たちも、ちらちらと視線を投げかけていた。
先週までだって千鶴は誰もが振り返る美少女だった。けれど今日は、その視線の集まり方が明らかに違う。
まるで、今まで以上に目を離せなくなっているみたいに。
亜里沙はその理由を知っているし、千鶴自身もきっと気づいている。
けれど千鶴は少しも気後れする様子を見せなかった。
いつも通り静かに自席に着き、鞄を置き、背筋を伸ばす。
その一連の美しい所作すら、今日は不思議なくらい人目を引いた。
「おはよう、亜里沙さん、千鶴さん」
声をかけてきたのは、いつの間にか登校していた舞だった。
「舞さん、おはよう」
「おはようございますわ、舞さん」
舞は、千鶴の姿を認めると、心底ほっとしたように息を吐いた。
「……本当に心配しました。あの後、お怪我などはなかったですか? お電話してもお出にならなかったので……」
「ええ、大丈夫ですわ。スマートフォンの電源を切っておりましたの。ご心配をおかけしてしまって、申し訳ありませんでした」
「いえ……無事でいてくださって、本当によかったです」
舞の声音は優しかった。
ここで、亜里沙は舞に向き直り、ずっと伝えたかった言葉を口にした。
「舞さん、あの時は本当にありがとう。舞さんのおかげで、私、助かったから……」
「そんな、私は当然のことをしたまでですから」
「でも……まさか舞さんがあんな風に、槍を持って戦えるなんて思わなかったから、本当にびっくりしちゃって。普通の女の子だと思ってたから……」
亜里沙が率直な驚きを伝えると、舞は少しだけ困ったように微笑んだ。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいましたね。少し、家のお稽古で嗜んでいるだけですのよ」
そんな二人のやり取りを見て、千鶴が舞をまっすぐに見つめ返した。
「わたくしも、助けに来てくださったこと、とても嬉しかったですわ。まだお友達になって日が浅いですのに……本当にありがとうございました」
「いえ……そんなふうに言って頂けるなら、行ってよかったです」
舞が少し照れたように視線を落とする。
それから改めて千鶴の顔を見つめ、静かに、しかし不思議そうに言った。
「でも、千鶴さん……なんだか雰囲気が変わられましたね」
「そう、でしょうか?」
「はい。うまく言えませんけれど……先週までと、少し違う気がします。なんというか、より魅力的になられたというか……」
その言葉に、千鶴の頬がまたわずかに赤くなる。
亜里沙は心の中で(やっぱり舞さんも気づくよね)と微笑ましく思っていた。
その時だった。
「ありさ、おはよー」
軽い声と一緒に、横からひょいと顔が割り込んできた。
内田梨香だ。
品性のないにやにやした笑みを浮かべたまま、梨香は亜里沙の返事も待たずに千鶴へ目を向けた。
「ていうかさ、白鳥さん。なんか今日、色気すごくない? なんかあったの?」
教室の空気が、ぴくりと揺れた。
近くの席にいた何人かが、あからさまに耳をそばだてる。
亜里沙はすぐに顔をしかめた。
梨香は最近、亜里沙に対して張ろうとしたマウントに失敗したばかりだ。
だから今度は千鶴を相手に、自分の優位を確かめたいのかもしれない。
それに、梨香は前から千鶴のことを快く思っていなかった。
お嬢様で、綺麗で、成績もよくて、周りから一目置かれている千鶴の存在が、自分を脅かすようで気に入らないのだ。
「梨香、急に何言ってるの」
亜里沙が低い声で窘めるが、梨香は肩をすくめてせせら笑う。
「何って、見たまんまじゃん。白鳥さん、なんか今日めちゃくちゃ女っぽいっていうかさ。もしかして彼氏でもできたの?」
下卑た好奇の視線。
しかし、千鶴は少しも動じず、穏やかな笑みを絶やさないまま答えた。
「ご想像にお任せしますわ」
「えー、何それ。図星ってこと?」
「どう受け取られるかも、貴女様のお任せにしますわ」
あっさりと受け流されて、梨香の眉がぴくっと跳ねる。
「感じ悪。隠すことないじゃん」
「そうでしょうか」
「そうだよ。普通、こういう恋バナってもうちょっとノってくれるもんでしょ?」
「内田さん」
千鶴の声は、柔らかいままだった。しかし、その奥に冷徹な響きが混ざる。
「さほど親しくもない方に、そのようなプライベートなことを大きな声で邪推されて、喜ぶ女性はあまりいないと思いますわ」
「……は?」
「しかも、この教室という公の場で、皆さんに聞こえるように。少しはご自分のなさっているお下品な振る舞いをお考えになった方がよろしくてよ?」
静まり返る教室。
梨香の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
図星を突かれ、恥をかかされたのだ。
ここで舞が、ふんわりとした、けれど冷ややかな笑顔を浮かべて静かに口を開いた。
「内田さん。白鳥さんのことがそんなに羨ましいんやったら、ご自分ももっと自分を磨くお勉強をなさったらよろしいのに。お声ばっかり大きくて、お里が知れますわ」
上品な京都弁。しかし、それは梨香には到底理解できないであろう、痛烈な皮肉が込められていた。
近くで聞いていた何人かの男子生徒が、舞の放った言葉の冷たさに小さく息を呑む。
「……は?何それ、意味わかんないんだけど」
梨香は顔をしかめて不満そうに唇を尖らせたが、舞の放つの独特の威圧感に気圧されている。
亜里沙も梨香を真っ直ぐに見据えた。
「梨香、もういいでしょ。席に戻りなよ」
「……ありさまでそっちの味方するんだ」
梨香は吐き捨て、結局それ以上何も言い返せなかった。
小さく舌打ちすると、「もういいし」と逃げるようにその場を離れていった。
その背中を見送りながら、亜里沙は小さく溜息をつく。
「千鶴ちゃん、大丈夫だった?」
「ええ、平気ですわ。あのようなお言葉、痛くも痒くもありませんもの」
本当に平気そうだった。
それどころか、以前よりずっと芯が強くなっている。
舞も同じことを感じたのか、静かに微笑みながら言った。
「……やはり、変わられましたね、千鶴さん。いい意味で、とても素敵だと思います」
「そうかもしれませんわ。ありがとうございます」
千鶴は「まぁ」と嬉しそうに微笑んだ。
少しの沈黙のあと、舞がすっと姿勢を正す。その瞳に真剣な光が宿った。
「千鶴さん。ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
「なんでしょう?」
「不破さんのことを……千鶴さんは、どこまでご存知なのですか」
亜里沙が思わず息を呑み、舞を見る。
「舞さん……」
「もちろん、無理にとは言いません。ただ、あの金曜日のことがあって、どうしても気になってしまって……」
舞が言い終えるより少し早く、教室の前方のドアから、不破蓮司が堂々と入ってきた。
(あ、蓮司くん)
亜里沙がそれにいち早く気づく。
蓮司はいつも通り平然とした様子で自分の席へ向こうとしたが、亜里沙や舞が真剣な顔で千鶴を囲んでいるのが目に入ったようだった。千鶴が何かで困っていないか心配になったのだろう、蓮司は歩きながらさりげなくスマホを取り出して指を動かす。
直後、千鶴の制服のポケットの中で、スマホが小さく震えた。
「ごごめんなさい、少し確認してもよろしいでしょうか」
「ええ、構いません」
「どうぞ」
千鶴が画面を開く。
やはり、蓮司からだった。
『大丈夫?』
たった一言。
けれど、それだけで十分すぎるほどの気遣いが伝わってきた。千鶴の頬がまたほんのり朱に染まる。
(蓮司様……)
亜里沙はその初々しい反応を見て、なんだかこっちまで胸がむず痒くなってきた。
千鶴は愛おしそうに指を動かして、短く返信する。
『大丈夫ですわ。舞さんとありささんが、蓮司様とのご関係を気にされておりますの』
送って数秒、すぐに返信が届いた。
『2人のことは信用してるから、今日の放課後あたりに俺の部室に来るように伝えといて。そこで色々と説明するから』
千鶴はその文章をじっと見つめて、もう完全に舞たちの目が気にならなくなるほど浮かれた様子で、嬉しそうに指を弾ませた。
『わかりましたわ♡』
ハートマークをつけて送信し、スマホを宝物のように大事そうにしまうと、千鶴が亜里沙と舞を見た。
「今日の放課後、皆さんで蓮司様の部室へ来てほしいそうですわ」
「……不破さんが、ですか?」
「ええ。お二人のことは信用しているから、そこで色々と説明してくださるそうですの」
「そうですか……」
舞の表情が、少しだけ引き締まる。
亜里沙も静かに息を飲んだ。
(いよいよ、蓮司くんの秘密が聞けるんだ……)
そんな予感が、朝の教室の空気の中で、静かに、しかし確実に形を持ち始めていた。
23話了




