第19話 交差する夜
屋敷の廊下を、蓮司は早足で歩いていた。
シエラが音もなく後ろを追う。
「剛田さんがまだ到着していません。他の運転手を――」
「必要ない。俺が車を出す」
「……マスター、運転できるんですか」
シエラが珍しく目を見開いた。
蓮司は短く頷く。
「剛田さんに教わった。問題ない」
「免許は?」
「渡辺が用意した。表向きは正規の手続き、ということになってる」
「……なるほど」
「心配しなくていい。必要な手は打ってある」
蓮司は淡々と車のドアを開けた。
シエラは小さく息を吐き、「承知しました」とだけ答える。
二人が乗り込むと、端末から龍二の声が響いた。
『坊ちゃん、今から行くんですか。剛田さんを待たんと怒られますで』
「後で叱られるよ。それより今は千鶴たちだ」
『……了解。わいも今動きます』
通信が切れる。
エンジンが静かに唸り、夜の闇へ走り出した。
端末上の発信機はまだ動いている。
千鶴と亜里沙、生体反応のマーカーが微かに光っていた。
「二人とも、まだ無事だ」
「……急ぎましょう」
シエラが静かに言う。
街の灯が、フロントガラスの向こうで流れていった。
――必ず、間に合わせる。
胸中で、蓮司はただそう呟いた。
倉庫の中は、息が詰まるほど暗かった。
目隠しを外された瞬間、私は息をのんだ。
古びた棚、錆びた鉄の匂い。
光は高窓からほんのわずか。闇の海の底みたいだった。
壁沿いに男たちが並んでいる。十五人を超える。
腰のあたりに黒い影――銃。
喉の奥が乾く。
こんな現実がこの世にあるなんて。
隣で千鶴ちゃんが背筋を伸ばしていた。
手は微かに震えていたが、その顔は気高く凛としている。
私はそっとその手を握り、千鶴ちゃんも握り返した。
「お嬢さんがた、大人しくしてりゃ痛い思いはしねえ」
リーダー格の男が低く言った。
怒鳴らず、脅さず――ただ冷えた声。
「……私たちをどうするつもりですの」
「依頼者が三十分後に来る。それまで待ってろ」
「依頼者……何が目的ですの」
「知るか。俺たちの仕事は引き渡しだ」
声は感情を含まず、逆に不気味だった。
三十分――逃げられない時間の重さが、胸を圧し潰す。
その時、ひとりの男が前に出た。
ギラつく目。体格のでかい、粗暴なタイプだった。
「おいよ、可愛い嬢ちゃんじゃねぇか。三十分もある。少しくらい遊ばせろよ」
その手が千鶴ちゃんに伸びた瞬間――
バチッ。
鋭い音。
男が弾き飛ばされ、床に転がった。
「うぐっ! な、なんだ今の!」
周囲がざわつく。
「ふざけんな! 何やりやがった、このガキ!」
「いざという時のために預かっている防衛装置ですわ。触れると感電しますの」
千鶴ちゃんは静かに言った。
その一瞬、彼女の瞳に安堵が宿る。
――誰かが、自分を守ろうとしてくれた。
その確信だけが、彼女を支えていた。
「チッ、追跡されてるんじゃねぇのか!? こんなもん、仕込まれてんだぞ!」
怒鳴り声。
次の瞬間、リーダー格の低い声が割り込んだ。
「――落ち着け」
場の空気が、一瞬で凍りつく。
「追跡の可能性なんざ、最初からわかってる」
沈めた声の中に、押し殺した怒気が滲む。
「だが問題ねぇ。まともな奴なら、この警備を見て突っ込もうとはしねぇ。
それに、引き渡しまであと少しだ。警察にも話はつけてある。
予定通りにやる。それでいい」
沈黙が落ちる。
誰も口を開けない。
男たちは息を潜め、リーダーの命を待つ。
「次は不用意に触るな。いいな」
その声でようやく会話が途切れた。
倉庫には、再び冷たい闇が支配する。
亜里沙が息を潜めたまま千鶴を見る。
千鶴は、穏やかに笑んだ。
「大丈夫ですわ、亜里沙さん。……あの方が、必ず来てくださいますから」
その声はかすかな光のようで、恐怖を押し流していた。
亜里沙は黙って、もう一度千鶴の手を握った。
同じ頃。
倉庫から二百メートル離れた路地で、舞が車を降りた。
冷たい空気。実戦の匂い。
周囲に、いくつもの人影が揺れている。
「千夏、あそこね」
「はい。でも正面突破は無理です」
千夏が周囲を見回した瞬間、
闇の中から、人の形をした影がすっと現れた。
「っ……!」
舞は即座に身構え、千夏が前に出る。
侍女たちも息を殺して刀を抜いた。
影は両手を上げ、穏やかな声を出した。
「おっと、落ち着いて。敵やない」
街灯のわずかな光に浮かぶその顔。
細い目、飄々とした笑み――龍二。
「わいはお嬢様を助けに来たもんや。せやから帰り」
舞が眉をしかめる。
「どこの方です? その気配、ただの人ではありませんね」
「まあまあ。ここはお嬢さんらが居てええ場所やない。今のうちに戻――」
「帰りません」
きっぱりと言い切る舞。
龍二が頬をかくように苦笑した。
そのとき、静かなエンジン音。
別の車が闇を裂くように現れた。
ドアが開き、夜風に混じって聞き慣れた声。
「龍二、状況は」
「坊ちゃん、ちょうどええところですわ」
舞は声の方を向き――息をのんだ。
ライトの下に立つ少年。
学校で何度か見かけ、廊下で一度だけ話したことのある、不破蓮司。
普段は静かで、どこか影のある同級生。
けれど今の彼は――全く違っていた。
夜の光を背に、まっすぐに立っている。
鋭い瞳、引き締まった空気。
その姿を見て、舞の胸の奥がふっと熱を帯びた。
「あ、あの不破くんが……嘘……」
隣の千夏が小さく呟く。
その声に、舞は息を詰まらせた。
蓮司は短く頷く。
「今は後で説明する。舞さん、状況を話している時間はない。千鶴たちを助けよう」
舞は一瞬ためらい、そして頷いた。
「……わかりました。私たちも参加します」
「危険だ。できれば下がっていてほしい」
「なめないでください。私たちは戦えます。それに――そちらの方は?」
「私は、マスターのメイドです」
シエラが静かに名乗った。
舞は言葉を失ったが、すぐに意識を切り替える。
シエラのことで聞きたいことはたくさんあっただろうが 今は千鶴と亜里沙の救出が最優先にこの場では何も言わないことにした
蓮司は手早くタブレットの地図を開いた。
「龍二、状況を」
「倉庫内に十五人前後。武装もしとる。
中の二人はまだ無事やけど、剛田さんらを待って突入した方がええと思います」
蓮司は少しの沈黙のあと、低く答えた。
「……嫌な予感がする。根拠はないけど、このまま待つのはまずい。
今は無事でも、この先もそうとは限らない。剛田を待つ余裕はない」
そう言って鞄を開いた。
防弾盾。拳銃。スモーク弾。紫外線ゴーグル。
「作戦を説明する」
蓮司が視線を上げる。
「まず外の見張りを龍二が処理。
その後、俺が正面から突入する。盾で敵の注意を引く。
スモークを投げ、ガスで敵の視界を潰す。
俺たちはゴーグルで中を視認できる。
龍二、シエラ――スモークの中で敵を順に無力化してくれ。
舞さん、千夏さんは千鶴さんと亜里沙さんの救出を。
外へ出たらすぐに退避だ。いいな?」
全員が頷いた。
蓮司は短く息を整え、舞を見た。
「……気をつけて。君が傷つくのは、見たくないから」
一瞬、舞の目が大きく開く。
知らないはずなのに、彼の言葉の奥にどこか懐かしさを感じた。
「……はい」
静かな返事を置いて、夜が澄んだ。
蓮司が盾を構えた。
その周囲で龍二とシエラが武器を装備する。
舞と千夏も構えを取る。
夜の倉庫に、張り詰めた沈黙が落ちた。
――それぞれの思いが、同じ闇の中で交差していた。
第19話 了




