第16話 扉の向こうの言葉
その日の朝から、千鶴は落ち着かなかった。
今日、誘う。
昨日の夜、布団の中で何度も決めたことだった。でも朝起きて、制服に着替えて、学校に着いた今も、心臓がうるさいままだった。
一時間目の授業中も、蓮司様の後ろ姿が気になって板書が頭に入ってこない。昼休みも、声をかけるタイミングを探しながら結局何もできなかった。
放課後になって、結衣ちゃんが千鶴の腕を掴んだ。
「ちーちゃん、今日でしょ。私たち、先に帰ってるから」
「で、でも……」
「行きなさい」
冴子さんが静かに背中を押した。
二人の背中を見送りながら、千鶴は深呼吸をした。
校舎の三階、人気のない廊下の突き当たりに、その部屋はあった。
表札もなく、普通の生徒なら気にも留めない扉。でも千鶴には見慣れた場所だった。ここに何度来たかわからない。みんなで集まって、笑って、蓮司様の隣にいた場所。
でも今日は、結衣ちゃんも冴子さんもいない。
千鶴はドアの前に立って、ノックした。
「どうぞ」
静かな声がした。
扉を開けると、蓮司くんがパソコンの画面に向かっていた。書類が何枚か広げられていて、画面には数字の並んだスプレッドシートが見えた。顔を上げて、千鶴を見た。
「千鶴。今日は一人?」
「……はい」
「結衣たちは?」
「今日は、お願いして席を外してもらって」
蓮司くんが少しだけ目を細めた。パソコンをそっと閉じて、椅子を千鶴の方に向けた。
「そっか。座って」
千鶴は向かいの椅子に腰を下ろした。部屋が、静かだった。いつもなら結衣ちゃんの声が響いているのに、今日は二人分の息遣いしかない。
「何か話したいことがある?」
蓮司くんが穏やかに聞いた。急かすでもなく、ただこちらを待っている。
千鶴は手のひらをスカートの上でそっと握った。
頭の中で準備していた言葉が、全部どこかへ消えてしまった。
「あの……蓮司様」
「ん」
「あの……もし、よかったら」
声が震えた。蓮司くんは黙って待っていた。
「今度、二人でどこかに行っていただけませんか」
言えた。
部屋に、静寂が落ちた。
蓮司くんは少しの間、千鶴を見つめた。それから静かに立ち上がって、千鶴の隣に来た。そっと、千鶴の頭に手を置いた。
「どこか行きたいところ、ある?」
その言葉が、すぐには理解できなかった。
「え……」
「デート。行きたいところ、ある?」
千鶴の顔が、一気に熱くなった。
「……植物園が、行ってみたくて」
「じゃあ、今週末にしよう」
それだけだった。でもその一言が、ずっと待っていた答えだった。
「……はい」
声が、震えていた。でも今度は緊張じゃなくて、もっと別の何かで。
蓮司くんの手が、そっと頭から離れた。
「じゃあ、また続きをやるから」
蓮司くんがパソコンを開き直した。千鶴は立ち上がって、お辞儀をして、扉に向かった。
扉を閉めた瞬間、廊下に一人になった。
千鶴はしばらくその場に立ち尽くして、それからゆっくりと壁に背中を預けた。
胸が、うるさかった。顔が、熱かった。目の奥が、じんわりとした。
誘えた。ちゃんと、誘えた。
廊下の窓から、夕陽が差し込んでいた。オレンジ色の光の中で、千鶴はそっと目を閉じた。
踏み出してよかった。
その想いだけが、静かに胸に満ちていった。
第16話 了




