第11話 指先の記憶
その日の昼休み、翔太が舞を廊下で呼び止めた。
「なあ、放課後どこか行かないか。せっかく同じ学校なんだし」
舞は足を止めて、静かに振り返った。
「申し訳ありませんが、今日は千夏と用事がございまして」
「用事って何だよ。俺との時間も作れないのか」
「……翔太さん」
舞の声は穏やかだった。でもその目は、少しだけ冷えていた。
「婚約者とはいえ、まだお互いをよく知らない仲です。焦らず時間をかけてお付き合いしていくのが筋かと思いますが、いかがでしょうか」
「堅いこと言うなよ。もっと気楽にいこうぜ」
翔太が一歩近づいた。舞はさりげなく半歩引いた。
「……では、また改めて」
それだけ言って、舞は廊下を歩き始めた。翔太が何か言いかけたけれど、振り返らなかった。
角を曲がったところで、小さくため息をついた。
千夏が隣に並んできた。
「お嬢様、大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫よ。ただ……少し疲れてしまって」
舞は歩きながら、心の中で自分に言い聞かせた。
翔太さんは、あの人のはずだ。子供の頃に助けてくれた、あの人。顔は覚えていないけれど、同じ年頃で、同じ場所にいたのだから。きっとそうに違いない。
でも。
どうして、こんなに違うんだろう。
記憶の中のあの人は、もっと静かで、もっと優しかった。隣に座ってくれて、怖くないよと言ってくれた。あの温かさは、本物だったはずなのに。
翔太さんを見ると、その記憶がどんどん遠ざかっていく。
舞は廊下の窓から外を眺めた。青い空に、白い雲が流れていた。
その時、廊下の角で誰かとぶつかった。
「っ……」
体がよろけた。でも倒れる前に、腕をそっと掴まれた。
「大丈夫ですか」
低く、穏やかな声だった。
舞は顔を上げた。不破蓮司が、静かにこちらを見ていた。
「す、すみません。ぼんやりしていて……」
「いえ」
蓮司くんはそっと舞の腕を支えながら、足元を確かめるように待ってくれた。舞は慌てて体を引こうとした。頬が熱かった。
「あ、もう大丈夫です。ありがとうございます」
一歩下がって、お辞儀をした。そのまま行こうとした、その瞬間。
「あの」
蓮司くんの声がした。
舞は振り返った。蓮司くんが、足元に落ちていたハンカチを拾い上げていた。
「落としましたよ」
「あ……」
舞は受け取ろうと手を伸ばした。その瞬間、蓮司くんの手が舞の手をそっと包んだ。
驚いて顔を上げると、蓮司くんが静かに言った。
「無理していませんか。転校してきたばかりで、色々大変でしょう」
その声は、優しかった。急かすことも、哀れむこともない。ただ、静かに気遣っている。
体の奥で、何かが揺れた。
温かかった。この手が、温かかった。
記憶の底から、何かが浮かび上がってきた。
石畳の上に座り込んで、泣いていた。知らない街で、一人で。どうしたらいいかわからなくて、怖くて。そこに誰かが来て、隣にしゃがんでくれた。大丈夫、と言ってくれた。そっと手を握ってくれた。
怖くない。ここにいるから。
あの時の声と、今の声が、胸の中で重なった。
「……っ」
舞は息をのんだ。蓮司くんの顔を、まじまじと見つめた。静かな目。穏やかな表情。
翔太さんを見ても、こんな気持ちにはならなかった。なのに、どうして。
「……あの、あなたは」
声が震えた。
蓮司くんは少しの間、舞の目を見つめた。それから静かに微笑んで、そっと手を離した。
「お気をつけて」
それだけ言って、歩き去っていった。
舞はその場に立ち尽くした。手のひらに、まだ温もりが残っていた。
胸の中で、何かがずっと揺れていた。
翔太さんのことが好きなはずなのに。あの人のことを探していたはずなのに。どうして、今すれ違っただけの人のことが、こんなに頭から離れないんだろう。
「……お嬢様?」
千夏が心配そうに顔を覗き込んできた。
「千夏……今の人、知ってる?」
「不破蓮司さんですよね。如月さんと同じクラスの方だと思いますが」
「そう……」
舞はハンカチを胸に押し当てた。まだ、温かかった。
その様子を、少し離れた廊下の角から千鶴ちゃんが見ていた。
蓮司様が舞さんの腕を支えた瞬間から、千鶴ちゃんは動けなかった。
ハンカチを返す時に手を包んで、優しく声をかけて。その時の舞さんの顔が、遠目からでもはっきりとわかるくらい、変わっていった。驚きから、戸惑いへ。そして、何かを思い出したような、あの目。
胸が、ざわついた。
嫉妬ではない。それはわかっていた。蓮司様がたくさんの人を大切にする人だということは、最初から知っていた。舞さんがそこに加わることになっても、それはおかしいことじゃない。
でも。
私はまだ、何も伝えていない。
結衣ちゃんはずっと前から蓮司様の隣にいる。冴子さんも、シエラちゃんも。それなのに私は、告白するタイミングを掴めないまま、ずっと待っている。
待っているだけじゃ、いけない。
いつかではなく、近いうちに。ちゃんと、自分の言葉で伝えなければ。
千鶴ちゃんは廊下の壁にそっと背中を預けて、目を閉じた。その決意が、胸の中で静かに形を作っていった。
放課後、私は千鶴ちゃんと並んで帰り道を歩いていた。
いつもと変わらない道。いつもと変わらない時間。なのに千鶴ちゃんの様子が、どこかいつもと違った。
微笑んではいる。会話もしている。でもその目が、時々遠くを見ていた。何かを考えているような、決意しているような、不思議な色があった。
「千鶴ちゃん、なんか今日元気ないね」
「そんなことありませんわよ」
「……本当に?」
「ええ」
千鶴ちゃんは微笑んだ。でもその微笑みの奥に、何かがあるのはわかった。
聞こうか、と思った。でも踏み込めなかった。
千鶴ちゃんが話したい時に、話してくれるはずだ。
夕暮れの道を、二人で並んで歩いた。風が吹いて、木々の葉が揺れる。
千鶴ちゃんはいつか、私に何かを打ち明けようとしている。
そんな予感が、静かに胸の中に広がっていった。
第11話 了




