やらなきゃが来る
頭の中で、様々な言い訳や、今思いついた苦しい誤魔化しが、激しく渦巻いた。
(やべえ、どうする? 遠くのスーパーに行ったって言えば通用するか? いや、それにしても時間がかかりすぎてる。なんて言えば――)
必死に引きつる表情を取り繕いながら、海斗はカサカサと乾いた音を立てる喉をどうにか動かした。沈黙に耐えかねて、一気に言葉をまくし立てる。
「ほら、歩いててもういい時間だし、ドッペルの好きなポテチを買って帰ろうといつものスーパーに寄ったんだよ。そしたらさ……なんだろう、セールだったかな? で売り切れでさ。弁当とかは一度カゴに入れたんだけど、肝心な、そう! 肝心なポテチがないと意味ないよねって思って、元にあった場所に戻して、で、コンビニに向かったんだ」
自分でも驚くほどのスピードで言葉が溢れた。これだけ具体的なディテールを並べれば大丈夫だろう――そう自分に言い聞かせ、海斗は胸の中で荒ぶる心音を抑えつけようとした。
ドッペルは感情の読めない瞳で海斗を見つめたまま、平然とした様子で
「ああそうなんだ。大変だったね」
と、返してきた。
その小さな前足が、器用にポテチの袋を開ける。
パリィ、と小気味よい音がして、部屋の中にジャンクな香料の匂いがふわりと広がった。ドッペルは何事もなかったかのようにポテチを食べ始める。
(……上手くいったか?)
張り詰めていた肩の力が、わずかに抜けた。
しかし、その安堵は次の瞬間に打ち砕かれる。
「――その割には、スーパーの袋だけしかないけど。どういうこと?」
ポリ、と軽快な咀嚼音と共に放たれた指摘に、海斗の心臓がドクリと跳ねた。
冷や汗が背中をどっと伝う。海斗は泳ぐ視線を必死に固定し、さらに苦しい嘘を重ねた。
「ああ、それが……さ。そうなんだ、コンビニに行ったら、多分スーパーでポテチ買えなかった人が流れたんだろうね、そのポテチだけなくてさ……。そこからポテチと、あと喉乾くから飲み物も求めて、コンビニとか、普段行かないような個人商店にも何軒か行って、やっと手に入れたんだ。」
乾いた愛想笑いを浮かべ、少しでも余裕があるように見せようとする。
だが、ドッペルは表情一つ変えず、ポリポリと一定のリズムでポテチを噛み砕き続けた。その無機質な音が、まるで海斗の嘘を裁くカウントダウンのように部屋に響く。
「うん? それはいいけど話がズレてるよ?」
ドッペルはポテチを口に運ぶ手を止め、ちょっと呆れたような視線を海斗にまっすぐ向けた。
「いや……まだ続きがあるんだよ。やっと手に入れたけど、やっぱりいつものスーパーの弁当が食べたいし……ほら、俺って一度これって決めたら、ハンバーグ食べたいって思ったらハンバーグだしさ。それでリュックにも買ったお菓子を詰めて、スーパーに行ったんだよ」
海斗は引きつる笑みを浮かべ、少し苦しいが伝わりそうな言葉で押し切ろうとした。額の汗がじわりと滲む。
「ハンバーグのお腹で、唐揚げ弁当買ったんだ? 面白いね」
ドッペルは平然とポテチを口に咥え、パリリと冷たい音を立てた。
「あはは……なんか嫌なこと言うな、例えだって例え! 今日は唐揚げの腹だったしさ。それでスーパーで買った物はいつもの袋、って感じだよ。わかった? 大変だったんだぞ、もう疲れたよ、足もパンパンだしさ……」
海斗は(これで逃げ切れた!)と内心で快哉を叫んだ。
「そうなんだ。ありがとう、こんなに足がパンパンになるまでポテチ買って来てくれたんだね」
ドッペルは淡々と言いながら、いつの間にかテーブルの上のリュックを開け、小さな前足でゴソゴソと中身を漁っていた。
一気に海斗の心臓の鼓動が早くなる。ドクドクと耳の奥で嫌な音が響き、何か言おうと口を開けたが、喉が完全に張り付いて、ただ目の前の光景を見つめることしかできなかった。
「お菓子じゃなくて、室内シューズと……なんだ? ユニフォームだね。どういうことか説明出来る? さっきみたいになんでお菓子じゃなくて、これしか入ってないのか?」
(え? そっち? なんだ、『フットサルやったの?』じゃなくて、お菓子が入ってない理由!? そんなの簡単じゃないか!)
完全に勝機を見出した海斗は、勝ち誇ったような、当然だろって感じで言葉を返した。
「さっきも言ったけどさ、スーパーでレジ通した後に、そっちにお菓子を移したんだよ」
「ふーん。室内シューズとユニフォームは、家から持って行ったの?」
もう勝った気でいる海斗は、警戒心を完全に解いて喋り続けた。
「いや、散歩の途中で佐野さんに会ってユニフォームを渡されたんだ。俺には期待してるみたい。パスが上手いって言われたよ」
調子良く言い放った瞬間、海斗の肌に冷気が走った。ドッペルの周辺の空間が、陽炎のように不気味に歪み始めている。
「なるほどね〜、期待されてるんだ。今日、会う約束してたの?」
「そんなわけないじゃん、たまたまだよ」
「そうなんだ。佐野さんって、会えるかわからない君のためにユニフォームを用意して、わざわざ歩いてるんだ? 暇な人だね……」
ドッペルの刺すような声に、一瞬まずい、と背筋が凍った。だが海斗は引くに引けず、さらに調子良く笑ってみせた。
「そうだよね、俺も驚いたよ。『こんな所で会うなんて』って言われてさ。新品のユニフォームだよ、嬉しいけど、暇なのかな? ってちょっと思ったよ」
ドッペルは咥えていたポテチを机に置くと、トッと床に飛び降りた。
「君は、色々と破綻した事を言ってるのは気づいてる……? 素直に認めた方が良いのに」
床から、刃物のように鋭い視線が海斗を射抜く。
「本当……のことだって……。運動してないし、散歩だけ……」
海斗の声は、自分でもわかるほど激しく動揺して震えていた。
「わかった。じゃあ言うけど、室内シューズ、使用してるよね。君のだし当たり前だけど、明らかに今日使ってる。そして、『新品のユニフォームを渡された』。なのに、それも既に使用済み。――まだ見苦しい言い訳を繰り返すの? 素直になったら?」
ドッペルの理詰めのトドメが、海斗の脳天を直撃した。新品のはずのユニフォームには、激しい運動による汗の匂いと、床と擦れた跡がしっかりと残っていたのだ。言い訳の余地は、完全にゼロだった。
「ごめん、練習に誘われて、少しならと思って行った……。でも、佐野さんよりシュート決めたら凄いって言われるかなって、ちょっと期待してさ……」
海斗はついに、がっくりと肩を落として素直に認めた。
「まあ、行きそうなのはわかってたし、そこは良いんだ。ただ……ルールを破ったし、嘘もついたから。そこは駄目だよ」
ドッペルは温度のない声で淡々と言うと、海斗に背を向けた。
直後、小さな背中が激しく波打ち、――オエッ、と、鼓膜にへばりつくような、どろりと重く苦しそうな音を立てて床に毛玉を吐き出した。
凄まじい悪寒が海斗の身体を駆け巡る。死の足音がすぐそこまで迫る感覚。
「良かったね。2個も破ったのに、一個で済んだよ……」
床に落ちた毛玉を見下ろしながら、ドッペルが呟く。海斗は恐怖にガタガタと震えながら、必死に部屋を見回した。
「ああ、一個でも怖いけどね……」
急いで、毛玉を打ち消すための台座ハンマーを探す。これであの毛玉を叩かなければ、自分が死ぬ。
その時、さらに不穏な音が重なった。――オエッ。
ドッペルが、もう一つの毛玉を吐き出したのだ。
「やっぱり2個だよね……。君のせいだからね、頑張ってね」
ドッペルは再びテーブルに飛び乗ると、残ったポテチをひっつかみ、トコトコとこたつの部屋に向かって歩いていく。
海斗は恐怖で狂いそうになりながら、どうにか台座ハンマーを手に取り、台所へ戻ろうとした。
その瞬間。
「まだ何も起きてないのに、それは駄目だって……」
こたつの部屋から、ボソッと低い声が響いた。
刹那、海斗の身体に、目に見えない鉄の鎖が巻き付いたかのような衝撃が走る。指先一つ、視線一つ動かせない。まるで全身がコンクリートで固められたかのように、その場に縫い付けられてしまった。
海斗が絶望の金縛りの中で息を荒くする中、ドッペルは我関せずといった様子で、パチリとテレビをつけ、のんきに画面を見始めのだった。
指一本動かせない海斗の目の前で、床に転がる毛玉の一つが、まるで生き物のように不気味に大きく膨らみ始めた。
みし、みし、と歪な形に膨張を続け、やがてその中心に、一本の悍ましい亀裂が走る。次の瞬間、毛玉は熱せられた油脂のようにドロドロに溶け崩れ、台所の床へ嫌な音を立てて広がっていった。
その不浄な液体の塊を割って、中から這い出てきたのは、異様に痩せ細ったグレーのネコだった。
骨の形が浮き出るほど細いそのネコは、首を不自然な角度でカチカチと動かし、落ち着きなく周りをキョロキョロと見回している。そして、濡れた口元を微かに震わせながら、掠れた声でぶつぶつと呟き始めた。
「やらなきゃ……やらなきゃ……」
(なんなんだ……コイツは……!)
金縛りの中で、海斗の背筋を冷たい戦慄が駆け抜ける。
しかし、こたつの部屋のドッペルはそんな怪異など気にも留めず、能天気にテレビの音を響かせながら、背中越しに声をかけてきた。
「ああ……もう出たんだ。シドロさんだよ。仲良くしてあげてね」
まるで新入りの同居人を紹介するかのような、あまりに他人事なトーン。
その「シドロさん」が、滑らかな、けれどどこかぎこちない足取りで海斗に近づいてくる。気づけば、海斗の足元まで迫ったグレーの影は、テーブルを駆け上がり、動けない海斗のすぐ耳元にその異様に尖った顔を近づけていた。
キョロキョロと狂ったように動き続ける目玉が、至近距離で海斗を捉える。生温かい息と共に、湿った声が鼓膜に直接へばりついてきた。
「練習しなきゃ……動かなきゃ……休んじゃダメだ……やらなきゃ……」
(なんか……凄くうるさい、しつこい……!)
海斗の脳内に直接焦燥感を叩き込んでくるようなその呪詛に、精神がガリガリと削られていく。
その不快感が頂点に達した瞬間、カチリ、と身体のロックが外れ、自由が戻った。だが、身体が動くようになっても、シドロさんはテーブルから海斗の肩へと飛び移り、耳元で「やらなきゃ…動かなきゃ…」と機械的にぶつぶつと言い続けて離れない。
強烈な精神的ストレスとイライラが、海斗の中で爆発した。
「うるさいっ……! 外に出てくる、散歩してくるよ!」
半ばキレ気味に、そしてこの異常な空間から逃げるように、海斗は玄関のドアへ足を向けた。
「いってらっしゃい」
ドッペルは振り返りもせず、ただそれだけを言い残してテレビ画面を見つめ続けている。
海斗はシドロさんをまとわりつかせたまま、這う這うの体で外へと飛び出した。閉まるドアの隙間、海斗の視界の端で――床に残された、ドロドロに溶けかけた『もう一個の毛玉』が、ピクリと不穏に蠢いた気がした。




