残響は走り続ける
海斗は肩にまとわりつくシドロを振り払おうと、夏の生ぬるい空気を切り裂いて全力でアスファルトを蹴り走っていた。
肺が焼け付くような熱い息を吐き出しながら、ようやく足を止める。
(はぁ……はぁ……やっと、いなくなったか……。クソ、フットサルで散々運動して帰ってきたってのに、なんでまた全力疾走してんだ俺は。よし、戻ろう……!)
汗を拭いながら、ゼーゼーと肩で息をして辺りを見回す。視界に飛び込んできたのは、見慣れた遊具と、夏の強い陽射しに照らされて白く乾いた砂地だった。
(公園じゃん……。遮るものが何もなくてクソ暑いわけだ。それにしても、我を忘れて結構な距離を走ったんだな)
自分の脚力に少し驚きつつも、海斗は方向転換して、今来たばかりの陽炎が立つ道を戻ろうと歩き出した。
だが、そのタイミングだった。
鼓膜のすぐ傍で、あの湿度の高い重低音がべっとりと張り付いてきた。
「……やらなきゃ……走らなきゃ……」
背筋に氷水を流し込まれたような激しい悪寒が走り、全身の毛穴が総立ちになる。
「うわっ、うわぁぁ! まだ居たのかよ!?」
海斗は自分の肩や首のあたりをめちゃくちゃに手で叩き、慌てて辺りを見回すが、やはりあのグレーの猫の姿はどこにもない。見えない何かに背中を押されるように、海斗は恐怖のあまり再び猛然と走り出した。
「なんなんだよ……どうなってるんだ、一体!」
パニックに陥った海斗は、公園の隣にあるグラウンドの外周コースへとそのままなだれ込む。
容赦なく照りつける太陽のせいで、地面からは熱せられた土とゴムの匂いがムッと立ち上り、海斗の体力をゴリゴリと削っていく。
耳元からは、走る足音の隙間を縫うように「……やらなきゃ……休んじゃダメだ……」とボソボソ地鳴りのような声が聞こえ続ける。心臓が早鐘を打ち、喉がカラカラに干からびかけたその時、海斗の目に救いの神が飛び込んできた。
コースの脇にポツンと佇む、青く光る自動販売機だ。
海斗は限界を迎えた身体で、文字通り自販機の前へと滑り込むように飛び込んだ。
「ハァ、ハァ……さすがに休ませろ! 暑いのにこのままじゃガチで倒れちゃうよ!」
誰に言い訳するでもなく叫びながら、小銭を叩き込んでスポーツドリンクのボタンを強打する。ガコン、と重い音を立てて転がり出てきた冷たいペットボトルを引ったくり、キャップを捻り切った。
ボトルの表面についた結露が手のひらに心地いい。海斗はそれを一気に口に含んだ。
(ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、プハァッ!)
冷たい液体が、渇ききった喉を鳴らしながら五臓六腑に染み渡っていく。
「はぁ〜〜〜! マジで生き返った……。よし、さっさと家に帰ろう。あそこなら、一応コタツとドッペルもいるし……」
冷えたボトルを首筋に当て、一息ついて歩き出そうとした、その瞬間。
「……走らなきゃ……まだ、追いつけない……」
まただ。冷たい水で満たされたはずの身体が、一瞬で凍りつく。
「なんだよいい加減にしろよ! もう十分だろ!!」
限界を迎えた海斗は、誰もいない空間に向かって、怒りに任せて思いっきり大声を張り上げた。
スカッと突き抜けるような怒鳴り声が、静かなグラウンドに虚しく響き渡る。
――その時、ふと周囲の気配が変わった。
犬の散歩中のおじさんや、ベンチで休んでいた近所の人たちが、一斉に「なんだべ?」という目で海斗を凝視している。
(……あ。ヤバい、めちゃくちゃ見られてる……!)
突き刺さるような周囲の白い視線に気づいた瞬間、海斗の顔から一気に血の気が引いた。猛烈な恥ずかしさが押し寄せ、海斗は引きつった顔で「あはは……いやぁ、暑いっすね……」と、虚空に向かって消え入りそうな愛想笑いを浮かべる。
いたたまれない気まずさに耐えかねて、海斗は誤魔化すように、外周コースを今度はゆっくりとしたペースで再び走り出した。穴があったら入りたい。
そんな海斗のメンタルを容赦なく削るように、耳元の声はさらに冷酷な現実を囁く。
「……もっと運動しなきゃ……佐野に勝てない……」
その名前が出た瞬間、海斗の脳裏にフットサルでの苦い記憶が、そしてアイツのドヤ顔が鮮明にフラッシュバックした。恥ずかしさも恐怖も一瞬で吹き飛び、胸の奥からドロリとした熱い塊が込み上げてくる。
海斗の眉間に、ピキッと青筋が立った。
「……クソがっ! 絶対に、次の試合でシュート決めてやるからな!!」
メラメラと燃え上がる闘争心に火がついた海斗は、自ら地面を強く踏み締め、グンとギアを上げて猛スピードでペースアップし始めた。
一度火が付いた闘争心は簡単には消えず、海斗は夕暮れのグラウンドをただひたすらに走り続けた。
だが、ついに肉体の限界が訪れる。
「はぁ……っ、はぁ……、もう、無理……」
ふと自販機のデジタル時計に目をやると、時刻はすでに16時を回っていた。西に傾きかけた太陽が、長い影を地面に落としている。
(さすがに……もう一歩も足が動かん……)
海斗は完全に燃え尽き、家に向かってトボトボと歩き始めた。
途中で再び自販機にすがりつき、冷たいスポーツドリンクを買い求める。キャップを開け、(ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ)と喉を鳴らして一気に飲み干したが、干からびた身体には焼け石に水だった。
またあの声が聞こえてくるんじゃないかと、海斗は無意識に耳を手で押さえながら、ゆっくりと、呪われたような足取りで進んでいく。乳酸が溜まりきった足はもう1センチも上がらず、アスファルトの路面に靴底を「ズ、ズッ……」と引き摺るような鈍い音が、静かな夕暮れの住宅街に虚しく響く。
這う狂うような思いで、ようやく見慣れたアパートの前に到着した。
重い鉄製のドアを開け、鍵を放り出すようにして、ゆっくりとコタツのあるリビングへ向かう。
部屋に近づくにつれ、妙に明るいテレビのバラエティ番組の笑い声と、楽しげな効果音が漏れ聞こえてきた。
「ただいま……」
擦り切れた声を絞り出し、引き戸を開けた海斗。――その瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、あまりにも奇妙で、絶望的なほどカオスな光景だった。
部屋の中には、夕方の西日が斜めに差し込み、ポテチの油の匂いと、甘いチョコレートの香りが混ざり合って充満している。
コタツの真ん中では、お菓子の袋を抱えたドッペルが、海斗の姿を見るなり「ああ、おかえり! 随分と遅かったね!」と、こちらの苦労も知らずにどこか嬉しそうな声を上げた。そのすぐ隣には、いつの間にか部屋に戻っていたグレーのシドロが、相変わらず「……やらなきゃ……食べなきゃ……」とボソボソ何かを呟きながら、器用にポテチを齧っている。
(お前、いつの間に帰ってたんだよ!!)という海斗の心のツッコミは、しかし、テレビの前にいた『第3の存在』によって完全に吹き飛ばされた。
コタツテーブルのフチから、ちっちゃな頭をちょこんと出して、器用にチョコを食べている、ピンクと白の毛並みの小柄な女の子猫。
その子猫は、小さな肉球でチョコをモグモグさせながら、甘ったるい声でドッペルを見上げた。
「ねえドッペルちゃん、私のチョコも美味しいけど、そのポテチも美味しそうだな〜?」
「うん? ダメだよ、これは僕のだ!」
ドッペルは子供のようにムキになって、抱え込むようにポテチの袋を隠す。
テレビの笑い声が響く中、猫3匹が我が物顔でコタツを囲み、お菓子パーティーを開いている。
5月だというのに、部屋の中だけはコタツ毛布のせいで妙に熱気がこもっていて、じっとりと暑い。
そのあまりにもシュールで、逃げ場のない現実を突きつけられた瞬間、海斗の背筋に、昼間の爆走時とは比べ物にならないほどの冷たい衝撃が走った。凍りついた海斗の口から、魂の叫びが部屋中に響き渡る。
「……誰だお前ーーーーー!!」
海斗の絶叫を置き去りにしたまま、コタツ部屋の夜が始まろうとしていた。




