おかえり
それからもパス練習を続けて、各自がミニゲームや自主練に分かれた後も、海斗は一人でドリブルやキックの基礎練習を黙々と続けた。
気がつけば、壁掛けの時計の針は11時を回っていた。
1時間みっちり動いた身体には、皮膚の内側から燃えるような確かな疲労。そして、インサイドでボールを捉えたときの確かな感触と共に、「次こそは試合に出て、あの佐野の鼻を明かしてやる」というギラギラとした未練が、熱い汗となって額から滲み出ていた。
サークルの片付けが始まり、汗を拭うのもそこそこに、真新しいユニフォームと室内シューズを小さなリュックへ押し込む。ジッパーを閉める手さえ、焦りでわずかに震えていた。
急ぎ足で体育館の重い扉を押し開け、外へ出る。
初夏の眩しい陽光が容赦なく視界を刺した。外でたむろしていたメンバーたちが、一斉に海斗の方を振り返る。
「相沢くんお疲れ様〜今からお昼に行くけど一緒にどうかな?」
高橋さんが、私服姿で眩しい笑顔を向けてくれた。一瞬、胃の腑から湧き上がるような強烈な空腹を覚えたが、同時に脳裏をよぎったのは、あのアパートのコタツにちょこんと座る黒猫の影だ。心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
「すみません散歩に行くって家を出ちゃったんでもう帰ります…また誘って下さい」
海斗は引き攣った笑みを浮かべ、そそくさと早足でその場を後にした。背後から、「あれ? 相沢くんって一人暮らしじゃなかったっけ?」と、高橋さんの不思議そうな声が微かに鼓膜を揺らしたが、振り返る余裕なんてない。
(とりあえずスーパーでポテチとか買って機嫌取ろう…ちょっと行ってくるで昼過ぎまで戻ってないんだ…また毛玉吐かれても困るしもう死にかけたくないしな…)
アスファルトから照り返す熱気が、海斗の焦燥感をさらに煽り立てる。
『休日は運動しない』『家でのんびり過ごす』という約束を破ってしまった。
なんて言おう、どう誤魔化そう――頭の中で必死に言い訳を組み立てるが、どれも苦しすぎて答えが出ない。
冷房がガンガンに効いたスーパーに駆け込むと、汗ばんだ身体がヒヤリと震えた。BGMが能天気に流れる店内を早歩きで巡り、カゴの中にポテチをはじめとしたお菓子を多めに放り込んでいく。これは機嫌取りのワイロだ。あの毛玉の暴君に差し出すための。
会計を済ませると、ずっしりと重くなったビニール袋を握り締め、海斗はアパートに向かって全力で駆け出した。
喉の奥が乾いた鉄の味で満たされていく中、海斗の頭は、フットサルへの消えない未練と、我が家に待つ恐怖への焦燥で完全にパンクしかけていた。
急ぎ足でアパートにたどり着き、鍵を開けて、ドアを恐る恐る押し開ける。
……静かだ。
ドッペルの姿はなく、部屋の空気も危惧していたほど重くはない。海斗は胸の内で大きく安堵の息を漏らした。これならいける。
台所のテーブルの上に、真新しいシューズの入ったリュックと、ずっしり重いスーパーの袋を置く。そのわずかな物音を嗅ぎつけたように、部屋の奥の暗がりから、トコトコと足音もなくドッペルが近寄ってきた。
「ただいま……」
喉の渇きを堪え、出来るだけ自然なトーンを意識して声をかける。
ドッペルもまた、拍子抜けするほど普通に、
「おかえり」
と、海斗を迎え入れた。
胸をなでおろした海斗は、買ってきた弁当や惣菜を袋から取り出し始める。ワイロのお菓子はあえて袋の底に忍ばせておいた。
だが、そんな海斗の安堵を切り裂くように、ドッペルがしなやかな動作でテーブルの上へと登ってきた。小さな前足で、ビニール袋をガサゴソと嬉しそうに漁り始める。不穏な摩擦音が狭い台所に響く。
やがて、底から引っ張り出したポテチの袋をその小さな手に持つと、ドッペルは感情の読めない瞳で海斗を見上げ、ボソッと呟いた。
「散歩にしては遅かったね」
ピキリ、と海斗の身体が凍りつく。




