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ホメオスタシスは、今日も眠ってる  作者: 紅月ヨルカ


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22/26

スポットライトの下の孤独

土曜日の朝。カーテンの隙間から、眩しいほどの五月の太陽光が差し込んでいた。

海斗は朝食を済ませ洗面を終えると、最初からジャージに袖を通し、室内シューズを放り込んだ小さなリュックを背負って玄関に立っていた。「散歩と買い出しに行く」というアリバイ作りのためだ。

コタツには、昨日と変わらず、ドッペルがテレビを無表情で見ながらポテチを食べてちょこんと座っている。海斗は圧を感じ生唾を飲み込み、努めて自然な声を出す。

「じゃあ、ちょっと歩いてくるから。ほら、昨日の夜にポテチいっぱい買っておいたし、しばらくは家を空けても大丈夫でしょ?」

恩を着せるような海斗の言葉に、ドッペルは首を小さく傾げて玄関に走る。

「ん? 散歩に、何時間行く気なの?」

心臓がドクリと跳ねた。見透かされている。海斗は慌てて、昨日から用意していた言い訳を口走った。

「い、いや、買い物も行くし! ほら、ちょっと遠くの大きなスーパーまでさ。だから、戻るまで少し時間がかかるかなって……」

苦しい言い訳だった。

ドッペルはしばらく海斗をじっと見つめていたが、やがてフッと、花が咲くような無邪気な笑みを浮かべた。

「ふーん。まあ、ルールさえ守っていれば、僕はどうでもいいよ。君が外で何をして遊んでいようとね」

ドッペルの小さな手が、海斗のジャージの袖をキュッと掴んだ。見上げる笑顔の奥から、部屋の空気を完全に支配するような圧がのしかかってくる。

「――家でのんびり過ごすってルールがあるのを、忘れてなければ…だけど」

その笑顔の威圧感に、海斗の背中に嫌な汗が伝う。

「も、もちろんだよ。……行ってきます」

掴まれた袖をほどくようにして、海斗は逃げるようにドアを開け、アパートを飛び出した。

五月の爽やかな青空が広がっていたが、海斗の胸には後ろめたさと高揚感に包まれていた。

(大丈夫だ。少しだけだ。あの佐野ってやつに一泡吹かせて、昼には戻ればいい。俺にはセンスがあるんだから、すぐに終わる)

会社までの道を早歩きで駆け抜け、会社から少し離れた目的の体育館へと向かう。

入り口の扉を開けて靴箱で室内シューズに履き替えてる時中から、キュッキュッと床を噛むラバーの乾いた音と、活気のある声が響いた。


意を決して、開け放たれたアリーナの扉をくぐる。

視界が一気に開け、眩しい照明の下、コートを走り回るメンバーたちの中心に、ひときわ目立つ男の姿があった。


「……おはようございます」


海斗はあえて努めて冷静な声を出し、自分から佐野の視界に入っていった。

佐野がこちらに気づき、その顔にパッと花が咲くような笑みが浮かぶ。


「あ、相沢くん! おはよう、待ってたよ!」

コートの中央から佐野はいつもの眩しい笑顔を向け、海斗の方に近づき肩を軽く叩いた。


「荷物は更衣室に置いてきて。……そうだった、僕も一緒に行くよ。君に渡したいものがあるんだ」


佐野にそう促された瞬間、海斗の全身の筋肉がかすかに緊張した。

練習中のメンバーたちから離れ、二人きりで更衣室へ向かう。

(……なんだ? 来るかもわからない俺を待ってた上、わざわざ二人きりになるって。まさか、ここで何か圧でもかける気か?)

「俺の実力を警戒して、釘でも刺しにきたのか」と、海斗はジャージのポケットの中で拳を握りしめ、身構えていた。

しかし、更衣室に入った佐野が個人のロッカーから取り出したのは、拍子抜けするほど普通のスポーツ店の紙袋だった。


「これ、君に。まずは形から入るのも大事だからね。開けてみて」

差し出された袋の中を恐る恐る覗き込む。そこに入っていたのは、真新しいフットサルシューズと、チームのロゴが入ったユニフォームだった。

色々と最悪なパターンを想定していた海斗は、完全に肩透かしを食らってしまう。

「……これ、俺に?」

「そう。うちのチームは、練習に何度か来てくれた新人にはみんな一式プレゼントすることにしてるんだ。気にしないで。じゃあ、着替えたらコートに来てね」


佐野は爽やかにそれだけ言うと、海斗の警戒心なんて最初から視界に入っていない様子で、あっさりと更衣室を出て行った。


一人残された海斗は、赤面しそうなほどの恥ずかしさに襲われていた。

圧をかけられるどころか、ただの「一律の新人歓迎」として、マニュアル通りに処理されただけなのだ。

「……あはは、色々と身構えて馬鹿みたいじゃん、俺」

誰もいない更衣室でぽつりと呟き、苦笑いをもらす。

少しの恥ずかしさを振り払うように、海斗は急いでユニフォームに袖を通し、シューズの紐を締め上げてみんなの待つコートへと向かった。

コートへ足を踏み入れると、一斉に視線が集まった。

「おっ、おはよう! 良いじゃん似合ってる! 期待の新人が現れたって感じだなー!」

三宅が体育館特有の高い天井に声を響かせ、大げさに盛り上げる。隣にいた高橋さんも、

「おはよう、相沢くん。とっても似合ってるね。私たちが着てるのとお揃いだね」

と、眩しいほどの笑顔を向けてくれた。

(……そんなに良いか? そこまで期待されてるなら絶対に活躍してやる!)

内心でニヤリと全能感を膨らませながらも、海斗は、

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

と、できるだけ大人の余裕を装って、みんなの輪に混ざろうとした。

だが、その一歩を、佐野の爽やかな声が遮った。

「あ、相沢くんはちょっと待って。準備体操が済んだら、ちょっと一人で違うメニューをやってもらうね。初心者だし、まずはボールに慣れてもらいたいしさ」

え、と海斗の足が止まる。

(……なんで俺だけ別なんだ? 居残り練習じゃあるまいし)

じわりと不満が込み上げるが、周囲のメンバーからは「あ〜、最初はそうだよね」「しょうがないよね〜」と納得する声が漏れる。ここで食い下がるのはダサすぎる。海斗は奥歯を噛み締め、渋々と「……わかりました」とだけ告げた。

全員での準備体操が終わると、楽しげにミニゲームの割り振りを始めるメンバーたちを横目に、海斗は佐野に促されてコートの隅へと向かった。

水銀灯の白い光が容赦なく照らす、遮るもののない体育館の端。

「じゃあ、ここでキック&コントロールをやってもらうよ」

佐野が足元で、コツンとボールを床に置いた。

(キック&コントロール……? なんだそれ)

聞いたこともない横文字に戸惑うが、「知りません」と口にするプライドはない。(膝とか頭を使って、ボールを落とさないようにするやつか? いや、あれはリフティングか……?)と脳内で必死に検索をかけてモヤモヤしていると、佐野が察したように笑った。

「あはは、手本見せるから見ててね」

佐野が軽く右足を振り抜く。パス、と硬い音がして、勢いよく放たれたボールが壁に激突した。直後、跳ね返ったボールは吸い込まれるように佐野の足元へ、綺麗にピタッと戻ってくる。

「ね? 簡単そうに見えるでしょ? でも結構難しいから、まずはこれに慣れてみて。頑張って」

佐野はいつもの完璧な笑顔を残し、弾むような足取りでみんなのいるコート中央へと戻っていった。

一人残された海斗は、無機質な壁を睨みつける。

(……壁打ちなら最初からそう言えよ。小難しい言い方しやがって)

イライラをぶつけるように、右足でボールを蹴り飛ばした。

ドン、と重苦しい音が響く。だが、壁に当たったボールは、海斗の元へは戻ってこなかった。フットサル特有の弾まないローバウンド球は、壁のわずかな凹凸に牙を剥くように、あさっての方向へと無慈悲に転がっていく。

「あ、おい……っ」

キュキュッと、新品のシューズがコートの床に虚しく摩擦音を立てる。端っこからさらに外れた用具置き場の奥まで、無様に走ってボールを追いかける。

――その背中に、ドッと降ってきた。

「あははは!」

コートの中央から響く、楽しげな笑い声。誰かがミニゲームで珍プレーでもしたのだろう。100%悪意のない、ただのサークルの笑い声。

なのに、広い体育館の音響は、その声をまるで拡声器のように増幅させて海斗の鼓膜に叩きつける。

(……笑ってる)

ボールを拾うために屈み込んだ姿勢のまま、海斗の身体が凍りつく。

(あいつら、俺のダサいキックを見て、後ろで笑ってんだ。期待の新人とか言っておいて、結局はただの冷やかしだろ――)

眩しいほどの照明の下、広いはずの体育館の隅で、海斗は底なしの劣等感と孤独感に、じわじわと息が詰まっていくのを感じていた。


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