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奉行所に着いた伊織は、事務方の仕事をしようと自分の席に着いた。文箱の中に納められている硯の陸には、歪んだ楕円形の墨の痕が残っている。
伊織はその楕円の上に、用意した水差しから円より一回り小さな円になるように水を垂らす。墨を摺ろうと水に墨を浸けたところで、鷹匠の部屋の方から州浜が現れた。伊織は思わず手を止め、州浜を横目で見上げる。その時、部屋を見回している州浜と目がかち合った。
すぐに視線を逸らし、今度こそ墨を摺ろうとすれば、花菱、と呼ばれる。
顔を上げれば、文机を挟んですぐ目の前に真っ直ぐと伊織を見下ろす州浜が仁王立ちをしていた。仕方無く伊織は手に持っていた墨を文箱の中に戻す。
「何でござりましょうか?」
「お前、鴨瀬村を知っているか」
「存じております」
「そこでな、家人が気付かぬ間に飯が消える事が続いているらしい」
伊織は、はぁ、と何とも気の抜けた返事をする。続く言葉の想像つき、自然と眉間に皺が寄った。
「花菱。行ってどうにかしてこい」
「どうにか、とは如何様に?」
「どうにかはどうにかだ。もうこの様な訴えが上がって来ぬようにしてこい」
「承知致しました」
伊織は文机にぶつかるすれすれまで頭を下げた。州浜から見えないその顔には不満がにじみ出ている。
「奉行所としても、この様なふざけた訴えはいい加減にして欲しいものだ」
立ち去る州浜から溢れた呟きは、とても辟易しているように伊織には聞こえた。州浜にも色々あるようで、文句の一つでも言ってやろうという気持ちは失せていた。
要らない紙に水を吸わせ、伊織は片付けを始めた。文机の上にはやらなければならない仕事が目に見えて積み上がっている。しかしこれも仕事だと割り切り、刀を取った。
門に向かいながら、他にも同じ任を受けている人間を探してみた。通常ならば見廻りも任務も二人以上で行うものである。しかし、そういった人間は見つからない。一人を好む伊織にして見れば、嬉しい状況である。
門を潜ろうとすれば後ろから呼び止められた。振り返れば兵衛が手を降りながら近づいてきている。伊織は兵衛だと分かるや否や、構わず門を潜った。
「分かってて無視すること無いだろう」
追い付いた兵衛は横にならぶ。伊織は呆れた様子を隠そうともせず、あからさまなため息をついてみせた。
「お前が話しかけてくる時は、遊廓の誘いと相場が決まっている」
「決まってねぇよ。人を色狂いみたいに言うな」
兵衛は伊織の脇腹を肘で小突く。伊織は何が間違っているのかと鼻で笑った。
「お前、州浜様に鴨瀬村の件、任されていただろう?」
「それがどうだと言うんだ」
「鴨瀬村からの訴え自体は年明け前からあったんだ。もう同心が何人も村に行っている。俺もその口だ。結局原因が分からず皆、そのうち収まるだろう、と言って打ち切るが、収まる気配がないらしい。お蔭で何度も訴えが届く始末だ」
成程、州浜様が頭を抱える訳だ。それに人員が一人なのも兵衛の話に起因しているのだろう、と伊織は思った。
兵衛がぽん、と肩に手を置く。
「貧乏籤引いたな」
「お前もだろう」
伊織は肩に乗った手を払う。
「片が付いたら、舟宿行こうぜ」
兵衛は肩を叩くと、道を逸れていく。伊織は彼に返事をしなかった。
城下町を北に抜け、最初にある村。更に北へ行けば浅いながら少し幅のある川が村の側を流れている。
お読みいただきありがとうございました。
文明の利器というものはとても便利なものですが、いやはや、自分には手に余る代物のようです。
パソコンはやはりなかなか難しいものです。時代に置いて行かれている気がします。
愚痴はさておき、皆さま。令和あけましておめでとうございます。で、挨拶はあっているのでしょうか。
令和に変わった瞬間、自分は普通に布団で眠りについていましたが、皆様はどうでしたでしょうか。
そして、暫くパソコンを開いていない間に、なんとユニーク数が950を超え、1000に迫る勢いでした。
本当にありがとうございます。
新しい時代となりましても、今後とも自分と、自分の作品を、どうぞよろしくお願いいたします。
05/19 ふと見返して気が付きましたが、前話とタイトルが同じだった為、変更いたしました。紛らわしく、申し訳ありませんでした。




